2.嫉妬

幕はまだ、下りない

――シクラメンの花言葉:内気、遠慮、嫉妬


 ことり、と目の前に置かれた白いカップを、女は凝視する。テーブルの真ん中に乗せられた鉢を、この事務所の主である八神がそっと抱え上げた。

 思い詰めたような横顔に、声を掛ける。

「一人、済んだかい」

 彼女の恨んでいた相手――きっと一番の復讐相手だったであろう、副島を思う。顧問弁護士を務めていた会社の社長であり、飲み仲間でもあった彼は、彼女の大事な人の息の根を止めた張本人であった。

 ただ一人、あの事故の一部始終を目撃していた彼女のたっての願いで、八神は仁科の弁護をした。仁科が本当は、直接『彼』を殺した人間ではないことを、知っていたから。

 法で裁かれることのなかった副島を、直々に地獄送りに導いたのは仁科と……そして、目の前の彼女だった。

「まだ一人、だわ」

 湯気を伴う液体の揺れる、滑らかなカップの曲線に指を這わせ、女は八神の問いに答える。窓際に置かれた陶器の花瓶には、茶色に染まったアジサイの残骸が、乱暴に挿されたままになっていた。

「まだまだ、制裁を加えなければならない人間がいるの」

 自分の苦悩を知らず、のうのうと生き続けている愚かな人間どもが、この街のいたる所に存在している。

「あなただって、このままあいつらを野放しにしておくなんて許せないでしょう。ねぇ、瞬さん」

 久しぶりに呼ばれたその名に、ほんの少しの懐かしさと照れくささのようなものを覚える。彼女はもう、自分が知っていた昔の彼女ではないのだが。

「うん……もちろんね、そりゃあもちろんそうさ」

 彼女にとってそうであったように、八神にとってもまた、大切な存在だった。だからこそ、その命を奪った者どもを、赦しておくわけにはいかない。

「誰も裁いてくれないのなら、わたしが……」

 小刻みに震える、赤い唇。憎々しげに響く低い声に、八神は複雑そうな表情を浮かべた。

 窓際の花瓶に手を伸ばし、挿されたゴミ――もとい、かつて色鮮やかなアジサイだったものを取り出す。三角コーナーに雑な手つきでポイと捨てると、中に入っていた汚い水を流し、重厚な花瓶を軽くゆすいだ。


 ――さて、彼女が心から笑わなくなってから、どれだけの年月が経っただろうか。

 五年前にあの出来事があってから、彼女は自分のために生きることをやめた。この後の人生の、何もかもを、報復のために捧げると決めた。

 ただ一つの目的を果たす。そのためならば、清らで真っ白な、瑞々しきその若い身体が、穢れてボロボロになることさえも厭わないのだ。

 既に何人もの男に汚されたのであろうその身体は、漆黒の衣装と対応するようによく映えている。もし彼女の両親が、そして『あの人』が今の変わり果てた姿を見たら、何と言うのだろう。

 その言葉さえ――八神のこの胸の痛みさえ、既に彼女には届かないのだろうけれど。


『瞬さんは、悔しくないの』

 額に包帯を巻いた少女は、その大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべて、押し殺すような声で問うた。

 唯一真実を知っていたにもかかわらず、自分一人でどうにもできない……変えることのできない運命に、彼女はその小さな胸を痛めていた。

 当時大きな怪我を負って入院していた彼女は、退院してすぐに、遠くの親戚に引き取られて行った。本当は自分が引き取ってもよかったのだけれど、当時はまだ司法試験の勉強をしている最中で余裕がなかったし、何より彼女自身がそれを望まなかったのだ。

 準備が必要なのだと、そのためには一人きりで考える時間が必要なのだと、彼女はあの日確かにそう言った。

 けれどまさか、その時から『覚悟』を決めていたとは、露ほども思っていなかった。

 五年ぶりに彼女がこの街に現れた時。漆黒の衣装と不吉な香りを纏い、寒気がするほど冷酷なまなざしを、臆することなくこちらへ向けてきた時。八神は全てを悟った。

 彼女が何のために、再びこの街へ足を踏み入れたのか。

 彼女がこれから、何をしようとしているのか。


 彼女が花屋で買ってきた鉢――真っ赤なシクラメンの花が植わった可愛らしい鉢を、先ほどまでアジサイが活けられていた窓際に置く。その姿はさながら、何もかもを燃やし尽くす炎のよう。

 花が一つずつ枯れ果てていく様子を、その目でじっくり見守ること。それが、八神に課された役目だった。


「彼を死に追いつめた人間たちのことを、わたしは決して許さない」

 裁きは全て、このわたしが下す。

「だから瞬さん、協力してね」

 にっこりと顔全体で笑った――その笑みさえも、今や歪んだものとなってしまっているけれど――彼女に、八神はどこか苦々しい気持ちを抱えながら、それでもしっかりとうなずいてみせた。

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