誰も知らない二人の会話

「どうかしら。随分、すっきりしたでしょう」

 黒い服の女は、うつむきがちに話しかけてきた。その表情は見えず、傍から見れば悲しみに暮れているようだが、その声色はけろっとしているどころか、どこか嘲笑さえうかがわせる。

「あぁ。爽快な気分さ」

 その細い肩を抱く、スーツ姿の男もまた、弾むような声で答えた。先ほど弔問客に見せていたような、げっそりとした疲れ切った表情はどこにもなく、ただ明るく笑みを浮かべている。

「よかったわ」

 周りの目を気にしているのか、うなだれたままこちらを見ることはなかったが、香澄は明るい微笑みが見えそうなほどの声でそう言った。

「まさか、あんなにうまくやってくれるとはな」

 副島に対する殺人罪で逮捕された男は、会社の金を横領していた内部の社員だ。もちろんそうさせるように仕組んだのは香澄で、半ば彼女を妄信していた男は勝手に副島を恨み、憎しみ、挙句その命に手を掛けた。

 報道によると彼は取り調べに対し、美しい黒百合のためにやっただとか、あの忌まわしい男から黒百合を守りたかっただとか、訳の分からない供述を繰り返しているという。どうやら正気ではないようだし、このままなら仁科の手引きはおろか、香澄の存在さえ浮上しないだろう。

 利用された男は哀れだが、自分たちにとって非常に都合がいい。

 唯一、先ほどから執拗にこちらを怪しげな眼で見ている男のことが、少し気にかかるが……おおかた弱小編集部のゴシップ記者か何かだろうし、仮に何か勘付いたところで、大したこともできないだろう。もし何かあれば手を打つ必要があるが、しばらくは泳がせておいても問題なさそうだ。

「大した女だよ、あんたは」

「どうもありがとう」

 香澄は愉快そうに、その薄い肩を揺らした。世間話を持ち掛けるような気軽さで、口を開く。

「ところで、副島商事はこれからどうなるのかしらね」

「近いうちに、後継者を決める株主総会があるだろうな。専務と常務あたりが名乗りを上げるんじゃないか?」

 副島商事の上層部には、大した人間がいない。

 副島もあまり頭がよくなかったが、唯一信用した人間のアドバイスを素直に聞くという点だけは優秀で、非常に動かしやすかった。しかし他の役員――それこそ専務や常務などは、地頭は壊滅的なほど悪いくせに、自分の考えこそが誰より正確だと思い込んでいるのだから厄介だ。

 そもそもの目的は果たしたのだし、使えない人間のためにこれ以上尽力する必要もない。副島商事の未来に明るいものは一切見えず、先は長くないだろうが、もう知ったことではない。

 仁科がそう言えば、香澄はフッ、と小さく笑った。

「冷たいのね」

「あんたが言うかねぇ、そういうことを」

 ふん、と仁科は嘲るように鼻を鳴らす。

「内部に介入して、状況を悪くしたのは誰だと思っている?」

「あなたが指示したんでしょう」

「そもそも、今回の計画に俺を誘ったのはそっちじゃないか」

「あら、そうだったわね」

 仁科の茶化したような抗議に、ふふ、と香澄は小さく笑い声を上げた。

「あなたは、これからどうするの?」

「さっき会計事務所の奴にも言ったけど、俺は会社を辞める。前科があることになってるが……まぁ、秘書の資格も持ってるし、何せ実績だってあるんだから、おそらく悪いようにはならないだろう。どこか、雇ってくれそうなところを探すよ」

「そう」

「あんたは、どうするんだ?」

「わたしは……」

 仁科の質問にゆるりと顔を上げた、香澄の瞳に涙はない。唇は愉悦に歪んでいるのに、その瞳はまだ暗さを宿していた。

「わたしの戦いは、まだ終わっていないのよ」

 まだ、わたしにはやらなければならないことがある。……裁かなければ、いけない人間がいる。

「そうかい」

 仁科はさして興味なさそうに言った。

「まぁ、俺にはもう関係ない話さ」

「もうわたしを、抱いてはくれないのね」

「そんなこと、これっぽっちも望んでないくせに」

 言いながら仁科がちらりと視線をよこした先には、デジカメであちこち写真を撮る雑誌記者風の若い男と、その隣で呆れたような顔をする男。後者が、先ほど仁科が話した会計事務所の人間――宮代亮太だ。

 小さく息を呑んだらしい香澄の反応を気にする素振りも見せず、仁科は再び香澄の方を見た。

 もう、あのくらくらするような腐臭はしない。

「せいぜい頑張ってくれよ」

「あなたもね」

 立ち上がった仁科は、座ったままの香澄の手を引いて立たせる。周りの目から怪しく見えないよう、うつむく彼女の肩をそっと抱くようにして、二人はそのまま連れ立って葬儀会場へ向かった。

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