悪意は別の場所からも

「――あのあと警察が来て、話を聞かれた。いくら妨害があったとはいえ、実際運転席にいたのは俺だったし、社長のアンタを売って責任逃れするわけにもいかない。暗くて視界が悪かった上、あの場に居合わせた目撃者だってさすがに車の中身までは見てないだろう。しかしあの事故で相手方の運転手は死んで、同乗者も重傷を負ったらしい。当然運転していた俺に白羽の矢が向いて、翌日のうちに逮捕された」

 暗い目で、滔々と語る仁科。これまでの敬語も、一人称も、全て取り払ったぞんざいな口調が、今はただ恐ろしくてならない。

「あれから裁判があって、弁護してくれた八神さんたちのおかげで執行猶予付きの判決が出たのは不幸中の幸いだったが……結局人殺しのレッテルを貼られたのは言うまでもないさ。俺はあの日から、何もかもを失った」

「ふ、ふん……」

 ただの逆恨みじゃないか、と副島は精一杯強がってみせる。

「いくら本当のことを言ったって、あの日事故を起こしたのがお前であることは事実だ。危険を少しも考えないまま、酔っ払って見境のなくなった俺を容易く助手席に乗せた、お前の監督不行き届きだと言ってしまえばそれまでだろう」

「まぁ、そうだな。アンタは酔っ払ってたんだもんなぁ。覚えてないだの寝てたから知らないだの言い訳して、逃げることもできるだろ」

 実際にそうしたのだ、この男は。

 直後は酔っ払っていてちゃんと話ができる状態じゃなかったからと、副島への事情聴取はすっかり酒の抜けた翌日に行われた。特別聡明というわけではないものの、狡猾な面がある彼は、自分に非が来ないよう警察を上手くかわしたのである。

 そうして全てを、当事者である仁科の責任にした。

 本当は、泥酔していた時の記憶が残っているにもかかわらず。

「法によって、アンタが裁かれることはない。これからも、ずっと……俺が、俺一人が一度裁かれただけで、あの事故は終わったのだから」

 けどな、と仁科は続ける。

「真実を知ってる人間が、俺だけだと思わない方がいいよ」

 アンタに悪意を抱いている人間が、俺一人だと思ったら大間違いだ。

 ぞくり、と寒気が走る。それでも社長としての威厳とプライドで、副島は小刻みに震える唇を開いた。

「誰が、誰がお前をもう一度、社会復帰させてやったと思ってんだ。俺が秘書として雇ってやらなきゃ、今頃……」

「それで恩を売ったつもりか? 腰抜けが」

 確かに、図星だ。

 人殺しという汚名を着せられた仁科を、周りの反対を押し切ってでももう一度秘書として雇ったのは、単に信頼していたからという理由ではない。全くそうではないとは言わないし、実際会社の業績に一役買っていたのだから、完全にいなくなってもらっては困るというのも事実ではあった。

 けれど、それ以上に……今助けておけば、社会から守っておけば、あの日の仕返しをしてくることも二度とないだろうと思ったから。

 ある種、仁科に対する牽制のようなものだったのだ。

 まさかそれを読まれているとも、逆手に取られることになるとも、思ってはいなかった。そのあたり、自分がいかに浅はかだったのかを思い知らされて虚しくなる。

 膝から、自然と力が抜けていく。

「……お前、それじゃあ」

 ドアノブに手を突き、踏ん張りながら副島は尋ねる。その顔はもうすでに、真っ青を通り越して、すっかり色を失っていた。

「お前が戻ってきてからも、業績が伸び悩んでいたのは」

「もちろん、わざとでございます」

 対して、不気味なほどに血色のいい秘書は、にっこりと清々しく笑みを浮かべながらうなずいた。

「……そういえば、香澄とのデート代も全て販管費で落として問題ないと、俺に進言したのもお前だったな」

「えぇ」

「営業二課で起きた横領も、お前の指示か」

「もともとは」

 半ば諦めたように発される質問に、仁科はさっぱりと答えていく。

「あの社員に接近していたらしい、『黒百合のように可憐な彼女』というのも、もちろん……」

「あぁ。おそらく、新藤香澄様のことでございましょうね」

 そう言って、仁科はちらりとベッドの方を見やる。先ほどからずっと二人の対話を、口を挟むことなく傍観している当の香澄は、剥がれた赤い唇を愉快そうに歪めた。

「……結局、何が狙いだ? 金か?」

 強請ゆすりでもなんでも、言いたきゃ言えばいい。何でもお前の、望みどおりにしてやるさ。

 まさに負け犬の遠吠えだ、と自らでも思いながら、負けを認めるしかない今の状況にいっそのこと開き直ってみる。

 ハハハッ、と仁科は声を上げて笑った。心の底から可笑しそうに、腹を抱えんばかりの勢いでうずくまる。

「いやいや、社長……まさかそんな、畏れ多いことを」

 いつの間にやら――本当は、副島が気付くよりも結構前からなのだが――口調は秘書としてのそれに戻っていた。ひぃひぃ言いながら如何にか顔だけを上げた仁科は、親指で浮かんだ涙を拭う。

「申し上げましたでしょう。私だけだとお思いにならない方がいいと」

「……どういうことだ?」

「さぁ、どういうことでしょうね」

 ともかく、私の役目はこれで終わりでございます。

 そう言って、ようやく落ち着いたらしい仁科は立ち上がった。きっちりと着こなしたスーツを整え直し、いつものように一礼してみせる。

「お疲れになりましたでしょう、社長。今日のところは、もうお帰りになった方が宜しいのでは」

「……」

「お送りいたしますので、駐車場まで参りましょう。……新藤様も」

 ドアに凭れかかっていた副島の身体を立たせ、仁科はドアを開く。香澄はそれを合図としたように、ベッドから起き上がると、乱れていた着衣を整え始めた。

「参りましょう」

 一人呆然とする副島に、仁科はいつもの調子で一言、そう言った。


 エレベーターから降りると、フロントに鍵を返した仁科は、副島と香澄を伴って出口へ向かう。

 はて。いったい自分は明日から、この秘書と……そしてこの恋人と、どう接していけばいいのだろう。たとえ二人の態度が今までと変わらなかったとしても、あのような火種を撒かれてしまったからにはもう、普段通りに接するなんてできそうにない。

 やはり、切り離してしまうべきだろうか……。

 おそらくこのまま仁科が残ったところで、以前のように素直に助言してくれることはないだろうし、最悪、香澄の手でさらに状況を悪化させてくるかもしれない。香澄がいなくなれば、販管費の計上は減るだろうが……優秀な秘書の手がなくなると業績が伸び悩むのは、彼がいなかった数年間の実績で既に実証済みである。

 二人の――否、仁科の目的は、そこにあったのだろうが。

 死んだ親父には悪いが、自分には子供もいない。これまで自分が会社を率いてこられたのは優秀な秘書の手があってこそだし、直系の一族でこれ以上会社を続けていくことは、無理なのかもしれない。

 いっそ、誰かに譲ってしまおうか。

 あれこれ思案しながら歩くうちにいつの間にか、副島は自身がいつもそうしているように、自然と先頭に立っていた。しかし仁科と香澄がわざとそうなるように歩幅を緩めたのだということに、彼は気付かない。

 ホテルから出たところで、近くの茂みからガサガサッ、と音がした。風に揺られたにしてはやけに局所的な、不自然な揺れ方に、不審を抱いた副島は思わず立ち止まる。

 サッ、と何らかの影が目の前に現れ、こちらに突進してきた……そう思った時には既に、脇腹の辺りに火傷するような熱にも似た痛みがあった。ぐ、と声を漏らした副島は、ずしゃ、という音とともにそれが離れた拍子に、力なく膝をつく。

 痛みを感じた部分を手で押さえる。開いた手の間から生温いものが伝うのを感じた。にちゃりと奇妙な粘り気を帯びたそれは、見なくても自分自身から流れたものだとすぐに分かる。

 ゆるゆると顔を上げた直後、副島はそのまま地面へと仰向けに倒された。今度は両胸の間、ちょうどみぞおちの部分に潰れるような衝撃が走り、ぐふっ、と副島は耐えきれず声にならない声を上げた。

 それから間髪入れず次々と、ぐしゃ、とか、ぐじゅ、とか、どうにも形容しがたい濡れた音を立てて、身体の各所に灼熱のごとき鋭い痛みが駆け抜けていく。頬に、生温く鉄臭い液体がかかった。

 当事者である副島本人には、何が起こっているのかほとんど理解できなかったのだが、その時彼の上には、一人の男が馬乗りになっていた。錯乱したような状態で、副島の身体へと無我夢中に刃物を突き立てている。

 ざくり、ぐじゃり、ぐしゅり、

 その姿はさながら、ゲームセンターで次々と出てくるもぐらだったりワニだったりの頭をぽかぽかとハンマーで殴る、あのゲームに興じる無邪気な子供のようだ。

 狂ったように、けれど至極楽しそうな笑い声を上げながら、男は副島の身体をナイフで次々と刺していった。まさに馬鹿の一つ覚えといった様子で、刺しては抜き、刺しては抜き……そんなことを繰り返しているので、次々と吹き出す朱い返り血が、どんどん男を醜く汚していく。濃い匂いが滴る中、それもまた一興とでも言いたげに、男は笑っていた。

 皮膚が破かれ、内臓が次々と水音を立てて潰れていく、不思議な感覚。

 副島の意識は、あっという間に奪われていった。もはや感覚は麻痺していて、ほとんど何の痛みも感じない。耳を突くような、水風船よりも生々しい血の音が、徐々に遠ざかっていく。

 ――ね、言ったでしょう?

 後ろにいるはずの仁科の顔は見えないが、副島には今、彼が勝ち誇ったようにそう言っている気がする。

「そういうっ……こと、か」

 息も絶え絶えに呟けど、返事はない。しかし気配で、そこにいる仁科が、そして香澄が、今の状況を心の底から歓迎しているだろうことだけは分かる。

 会社社長ともあろう者が床に伏し、部下――しかも先日クビにしたばかりの男の手によって、無様に命を終えようとしている、まさに一世一代の下剋上ともいうべきこの状況を。

 徐々に暗くなっていく副島の視界で、真っ赤に染まった男は、ふと何かに気付いたかのように動きを止めた。どこか一点を見てうっとりと幸せそうに、誇らしげに笑っている。

 おそらく、あの視線の先にいるのは……。

 ぐ、と口から溜まった液体を吐き出した副島は、全ての答えを出す前に、完全に意識を飛ばした。

 後ろにいた仁科と香澄は、あっけなく人が一人死んだ、その光景をまるでドラマを楽しむ視聴者のような目で見つめていた。

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