そして、夜

 香澄から、メールが来ていた。恐る恐る開いてみれば、内容は業務連絡のように、簡潔な一言。

『本日二十時、バナドヒルズ三〇三号室』

 意味するところを、副島は薄々感づいていた。

 手早く仕事を終えると、いつものように仁科が運転する送迎車へと急ぐ。先ほどから私用とやらで社を出ていた仁科は、運転席に座ってスタンバイしていた。

 乗り込んだ副島が行き先を告げようと口を開く前に、車は発進した。

「香澄はどうした」

「既に、ホテルの部屋にいらっしゃいます」

「お前が送っていったんだな」

「……」

 副島の問いに答えることなく、仁科はハンドルを回す。運転は普段通り穏やかで静かなのに、その手さばきにいつもと違う何かを感じた。

 ある種の、覚悟のような。

 いつもなら運転席の様子など気にも留めないのだが、今日はなんだか落ち着かなくて仕方なかった。後部座席に座る副島は、仁科の後頭部を何気なく眺める。

 その色味を気に入って、わざと黒染めさせないままにしていた、明るい茶色の髪。光の加減によっては金色にも見えて、副島はそれをいたく気に入っていた。

 しかしもうそれも、過去のことになるのだろうが。

「あと、数分で着きます」

 落ち着いた声が掛かる。動揺や恐怖を悟られぬよう――またそれらをはっきりと自覚することのないよう、副島は「あぁ」と低くうなずく。

 バックミラーに、仁科のニヤリと吊り上がった唇が映った。


「――受付は」

「済ませております。お部屋の鍵もこちらに」

 ホテルに着くや否や、仁科はフロントの女性に二言三言話をすると、すでに準備を終えているかのごとくてきぱきと振る舞った。秘書としては満点の所作だ。しかし、まるで香澄からのメール内容を知っているかのような彼の口ぶりに、副島の中で確信が少しずつ強まっていく。

「僭越ながら、私がお部屋までご案内いたします」

 深く一礼した仁科が、先導してエレベーターへ乗り込む。ごくりと息を呑み、心臓の辺りに軽く手を当て、副島はその後に続いた。

 仁科が三階のボタンを押すと、ぐんぐんと上昇していくのが分かる。

 狭い箱の中で、仁科と二人きり。慣れたことだし、動揺するほどのことでもないのに、何故か恐れを抱いてしまう自分がいる。一方の仁科も自分から口を開こうとしないので、必然的に沈黙が続いた。

 チンッ、と安い音を立てて、エレベーターが止まった。ドアが開くや否や、仁科が「参りましょう」と一言告げて、先を行く。

 几帳面にアイロンの掛けられた、ごく普通の背広を追いかける。これほどまでに、心細かったことはなかった。

 香澄がメールで指定した、三〇三号室と書かれた扉の前で立ち止まると、仁科は受け取った鍵を差し込んだ。回した時のガチャリという無機質な音に、副島の肩が跳ねる。

 横目で見て小さくほくそ笑んだ仁科は、ためらいなくドアを開いた。

 部屋の中は電気が着いておらず、真っ暗だ。漂う濃い匂いに顔をしかめた副島が、慣れない目を凝らして視線を彷徨わせると、ダブルベッドにだらしなく寝そべったシルエットが一つ。

「いらっしゃい」

 暗闇から飛び出した台詞に反応するように、スイッチに手を掛けた仁科が無言で電気をつける。そこには予想通り香澄がいた。くしゃくしゃになったシーツの上に、気だるそうに横になっている。

 先ほどまでの闇を全て吸い取ったかのような、ふんわりとした黒いワンピースは着崩され、白い肩がむき出しだ。スカートから伸びた足は、黒いランジェリーが膝下あたりで引っ掛かっている。

 晒された白い身体には、自分がつけた覚えのない、鮮やかな花弁模様の赤い斑点が幾つも散らばっていて……副島は、顔を強張らせた。

 後ろを振り仰ぎ、澄ました顔で立っている仁科を睨みつける。

「お前か……」

 仁科は悪びれることもなく、少しの動揺さえも見せず、ぺろりと舌なめずりをしてみせた。

「同意の上ですよ」

 あっけらかんと告げたその唇には、よく見ると赤い口紅が僅かに付着している。そして、明らかに事後である香澄のトレードマークともいうべき赤い唇は、やはりところどころ紅が剥がれていた。

「よくもまぁ、いけしゃあしゃあと……」

「それはこちらの台詞ですよ、社長」

 苛立ちを抑えず、今にも掴みかからんばかりの憤怒の表情を浮かべる副島に、仁科は淡々と応答する。

「よくもまぁ、いけしゃあしゃあと……反省の色も一切なく、社長の椅子にふんぞり返ってらっしゃるものですね」

 その顔には、うっすらと不気味な笑みが貼り付いていた。今まで見たことのない憎悪を感じて、副島は一瞬怯んでしまう。

「前科持ちの私を快く、もう一度雇ってくださったばかりか、以前と変わらぬ信頼を寄せてくださる、懐の広い社長には感謝してもしきれません……」

 彼の口から出たのは、以前仁科が副島に対して言ったことのある、賛美と感謝の言葉。あの時は明確な敬虔が込められていたが、今はどこか吐き捨てるような、嘲るような響きさえ感じられた。

「あんな言葉を信じたんですね、まったくおめでたい人です」

 自分が本当は、どんな気持ちでここに戻ってきたのか……何一つ、知ろうともしないで。

「五年前のあの日から、全てが変わった」

 五年前に起きた――仁科が起こしたとされていた・・・・・、死亡事故の真相。それは、仁科本人と……そして、副島だけが知っていた。

「俺がアンタを、恨まないとでも思ったか?」

 香澄は変わらずベッドに寝そべったまま、どこかうっとりと夢見心地な顔をして二人の対峙を眺めている。

「そう。俺が全ての罪を……謂われのない罪を、背負うことになったのは。全部、アンタのせいなんだよ。副島卓也」

 強張った副島の表情に、ニヤリと仁科は笑う。まるで子供が怖い話を拒否する時のように、これ以上聞きたくないと耳を塞いだ、その両手を無理矢理引き剥がした。

 そして部屋中に響くような、やたらとはっきりした芝居口調で、仁科はあの日の真相を語り始めた。


    ◆◆◆


『社長、飲みすぎですよ』

『うるさーい、無礼講だぁ』

 へっへっへ、と上機嫌に笑う副島の周りには、強いアルコールの匂いが漂っている。彼の酒癖が悪いのはもういつものことで、秘書兼世話役の仁科は呆れながらも、慣れたようにその介抱をしていた。

『ほら、お乗りください』

 後部座席のドアを開いたところで、ふと副島が、高慢ちきなその口を気まぐれに開いた。

『今日はさぁ、俺も前に乗りたいんだけど』

 どうやらこの社長、今日は助手席の方をお望みのようだ。こういうことは素面の時にもごくたまにあったので、さほど不審に思うこともない。副島本人にも、深い意味はないのだ。それに、断ったらもっと鬱陶しくなるのは目に見えている。

 仁科は『はいはい』と言いながら開いたドアを閉めると、お望み通り自らの隣――助手席に副島を乗せた。

 が……この選択がそもそもの間違いだったということに、この時の仁科は気付かなかった。


 夜道のほとんど人気のない道を、仁科は走っていく。時折隣の酔っ払いに絡まれ妨害を受けながらも、さすが毎日運転しているだけあって、その手つきは安定している。

 安全運転を心がけているので、ついつい絡んでくる副島への相手がおろそかになってしまう。ぞんざいな対応に気を損ねたらしい副島が、ついに大きな行動を起こした。

『暇だなぁ、仁科!!』

『うわっ、ちょっとやめてくださいよ社長』

 運悪くシートベルトをしていなかったため、社内で自由に動きまわれる身である副島が、仁科のいる運転席に乗り込んできた。そしてあろうことか彼は、仁科が握るハンドルに触れてきたのである。ぐらりと揺れる車体に、仁科が焦った声を上げた。

『お願いですから、大人しくしててください』

『うるさぁい、社長命令だぁ』

 俺に構えぇぇぇぇ、と車内に響くほどの大声を張り上げる、迷惑な酔っ払いこと副島に辟易し、やっぱり助手席なんかに乗せなきゃよかったと後悔した仁科がその手をどけようとした、ちょうどその時。

 対向車線から、一台の車がやって来た。

 ハンドルから手を引き剥がそうとする仁科に対抗するように、ぐいぐいと副島はハンドルを右往左往に動かす。一方の仁科は対向車線の車にぶつからないよう必死で抵抗するので、拮抗する二つの力によって、当然車体はぐらぐらと揺れた。

『ちょ、危な……』

『もっとスピード出ねぇのか、この車』

 乗り込んできた足が、置いていた仁科の足の上からアクセルを勢いよく踏んづける。

 ぐんっとスピードを上げた車は、案の定対向車線を走っていた車――当然、相手の車も速度を落としてなどいなかった――へと突っ込んでいき……。

 数秒もせぬうちに、あっけないほどの大音量を立てて、二台の車は遠慮なく真正面からぶつかり合った。

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