舞台は整った
彼女は、男のがっしりとした肩に頭を預けている。サラリと揺れる、肩口まで伸びた明るい色の髪が、蛍光灯の光を受けてキラキラと光っていた。
どれを取っても、彼女は美しい。自分のような者の傍にいるのが、不思議なくらいだ。夢を見ているのではなかろうか。
男がまるで恋する乙女のようにうっとりしていると、ふいに彼女が顔を上げた。その顔は、真剣そのものだ。
「あのね。突然だけど、お願いがあるの」
「お願い?」
いきなり何を言い出すのかと、男は純粋な疑問をそのまま表情に出す。
「社長じゃ、ダメなこと?」
彼女が、社長の気に入りの女であることはとっくに知っている。知っていながら、誘われるがまま自分は彼女の存在を手にしたのだ……。
そんな経緯があれば抱いて当然であろう、そんな疑問を口にする男に、彼女は力なく首を横に振りながら、至極悲しげに瞳を揺らした。哀愁漂う仕草が綺麗で、男は思わずもう一度見惚れてしまう。
「あの人には、頼れないわ。こんな個人的なことで、迷惑をかけるわけにはいかないもの……」
「そんな」
「ねぇ、あなたにしか頼めないことなの。お願い」
「……そりゃあもちろん、構わないけれど」
愛しい人に頼られることに、打ち震えるような喜びをかみしめながら、それでも緩む頬を引き締め真剣な顔を作る。
男の快諾に一瞬ホッとした表情をした後、彼女はその可愛らしい見た目とは裏腹の、真っ赤に塗られた妖艶な唇を軽く噛んだ。
「あのね。わたしの父に、病気が発覚したのだけれど――……」
◆◆◆
「横領?」
社長室にやって来た、年配の男――副島商事営業部の部長が、副島の不機嫌そうな声にびくびくしながらうなずいた。
「どういうことだ、説明しろ」
この会社での最高権力者である副島の、鬼のような形相に怯えながらも、自らの部署で起きた出来事に弱り果てたように、くたびれた表情で営業部長は答えた。
「第二課の社員が、どうやら会社の売上金を着服していたようなのです。同じく第二課に所属する新人社員がたまたま怪しい場面を目撃したらしく、第二課課長から私の方に報告がありました」
「いくらだ?」
「当該社員に問い詰めたところ、以前得意先に売り上げた二万円近い金額の横領があったことを認めました。しかし様子を見る限り、どうやら初犯ではないようですから、今後調べれば、まだまだ着服された売上額が出てくるでしょう」
「そうか……」
また厄介ごとが増えたと感じながら、副島は大きく溜息を吐いた。そこにいつもの堂々とした態度はなく、いろいろとあったことで疲れ切っているようにも見える。
その憔悴が伝わったのか、幾分か恐怖を和らげた様子の営業部長が、眉根を寄せ尋ねた。
「もちろん当該社員には、処分を検討する必要がありますよね?」
「当然だ」
答えながら、副島は考える。ここはやはり、解雇処分が妥当だろう。退職金などもちろん出すわけにはいかないが、事を荒立てることはしたくないし、反省の有無に関係なく、どうにか黙って辞めてもらいたいところだ。
まずは亮太に打ち明け、そういう時の会計処理を事細かに聞くのが適正だろうが……このような不名誉は、会計事務所の職員にはもちろん、税務署になど特にバレたくないことだ。
しかし着服された不自然な金額がいくらかあることは、例えば取引先の帳簿と照らし合わせるなどすれば、おそらく一目瞭然だろう。
最悪、その社員を相手に刑事告訴することもできなくはないが……。
「こういうことの相談はやはり、八神が適正かね」
弁護士の八神ならば、そのあたりのことを尋ねてもきちんと答えてくれるだろう。しかし、何せ身内の恥だ。彼に対しても、進んで打ち明けたいようなことではない。
「さて、どうしたものか」
ただでさえ、自分のせいで赤字が近づいているのだ。それなのにまた、ここにきてさらに損失が発覚するとは、本当に運が悪い。
「というか、何故横領なんかするかねぇ……」
どうせバレるのは時間の問題なのに、と副島は首を傾げた。
全く、馬鹿なことをする奴がいたものだ。そんな低脳な社員をこれまで雇っていた自分に、吐き気さえ覚える。
「ったく。勘弁してくれよ」
「……あの、」
立て続くマイナスな出来事に、さすがの副島も、精神が少しずつ参ってくるのを感じる。思わずぼやいていると、神妙な面持ちだった営業部長がおずおずと口を開いた。
「どうした」
「実はですね……お伝えしようかどうか、迷っていたことがあるのですが」
「構わん、言ってみろ」
短く促せば、ためらいがちに幾度か視線を彷徨わせた後、営業部長が意を決したように続けた。
「横領の件を問い詰め、何に使ったのかと尋ねた際なんですが……その社員が妙なことを言いまして」
「妙なこと?」
「はぁ。何でも、『黒百合のように可憐なあの人を、救ってあげたかったんです』とかなんとか。やたら切羽詰まっていたので、こちらとしても『ふざけるな』などと怒鳴ることも出来ず……」
黒百合という言葉に、真っ先に思い浮かんだ人物がいた。
黒百合の花弁のように、ふわりとした末広がりの黒いワンピースを身に纏った、可憐な女。
誰より副島が夢中になった、ある種の魅力を漂わせた女。
――まさか、あの女が関係している?
その社員の身にどのようなことがあったのか、『黒百合のように可憐なあの人』が誰を指しているのか、詳しいことはまだいずれも明らかになったわけではない。
けれどもこれは、ただの横領事件で片付くことはなさそうだ。早急にその本人を直々に呼び出し、副島からも今一度、経緯について問い詰めてみる必要があるだろう。
まぁおそらく十中八九、自分が思っている通りだろうが。
全く訳が分かりませんよ、と幾度も首を傾げる営業部長をよそに、副島は一人、これまで立て続けに起こった出来事を今後どう片付けていくべきかについて、真剣に考え込んでいた。
◆◆◆
仁科に手を取られ、香澄が優雅な仕草で車から降りる。互いの手同士を触れ合わせたまま、二人はホテルへと足を踏み入れた。
漆黒のワンピースに纏った腐臭――チョコレイト・リリィの匂いだと、本人が前に言っていた――をふわりと鼻腔に感じ、仁科は何故か安堵していた。
薄い素材でできた黒い袖から、伸びる白くほっそりとした手。包み込むようにして触れているそれに、ぐっと力を込める。くっと握り返される程よい力加減に、気持ちをもう一度奮い立たせた。
今、心は恐ろしいほど穏やかに凪いでいる。
例えば、切腹前の武士などといったように、覚悟を決めた人間の心情とは得てしてこのようなものなのだろうかと、仁科はこの時初めて知った。
今日をもって、何もかもを覆すと決めた。これまで人知れず積み上げてきた準備が、ようやく整ったからだ。
懇意にしている税理士事務所から、税務担当の男――宮代亮太が一時間ほど前まで副島を訪ねていた。秘書である仁科は邪魔にならないよう扉の前で控えていたのだが、話し合いを終えて出てきた副島の表情は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。当分は、忘れることもなさそうだ。
ここ数年業績が振るわないのも知っていたし、今年に入って利益が落ちた原因も知っていた。副島は、仁科がいる限り会社が赤字になることなどないと思いこんでいるようだが、仁科が
忠実に付き従っていた、以前の自分とは違うのだ。
エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。薄ら笑いを堪えきれずにいれば、香澄が「機嫌がいいわねぇ」と厭らしさのこもった声を上げる。僅かに漂う腐臭が、今はただ心地いい。
「当然だろう」
今日は全てが覆り、そしてすべてが終わる日なのだから。
満足げにほくそ笑んだ仁科は、寄り添ってくる細い身体を、黒いワンピースごと抱き寄せた。
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