○○も積もれば山となる
「では社長、行ってまいります」
「あ? ……あぁ」
どことなく上の空な副島に苦笑を浮かべながら、仁科はきっちりと角度のついた礼をした。時計を見ればいつも通り、そろそろ香澄の仕事が終わるであろう時刻だ。
失礼いたします、と一声かけて出ていく仁科の後姿を、副島は眉をひそめながら眺めていた。
「いや、まさか……なぁ」
一人きりになった社長室の静寂に、呟きは吸い込まれていく。
――ホントに一瞬なんですけどね、仁科さんと新藤さんがカップルのように見えてしまったんですよねぇ。
昨夜の酒の席でのことだ。
いつもより多めの量の酒を煽りながら、上機嫌な様子でそう話してみせた亮太の言葉が、副島は妙に引っ掛かっていた。
もちろん仁科を信用しているのは本当だ。そうでもなければ、自分の大事な女の世話を、他の男に任せたりなどしない。仁科が彼女に手を出さないと、自分の言いなりであり続けてくれると、確信しているからこその所業である。
仁科は副島の部下だ。一番の信頼を置く、第一秘書だ。
そして……副島に決して逆らえない、もう一つの大きな
そう。だからこそ、仁科が副島に逆らえるはずなどないのだ。
資料の見すぎで疲れてきた目を軽く押さえながら、最近仕事が多くて辟易しているからそんな不安が過ぎるのだと、何度も自分に言い聞かせる。
『いやぁ。友人にゴシップ記者がいるので、どうも嫌な方向に影響を受けちゃったみたいで』
直後に付け加えられた言葉通り、亮太に悪気はなかったのだろう。副島がそんな話を本気に取るはずなどなく、いつものように豪快に笑い飛ばすものだと、信じて疑っていなかったに違いない。
事実、あの席では『何を馬鹿なことを』と一笑に付したのだが……。
副島が密かに気になっていたのは、その時の仁科の反応だった。
もちろん、必要以上にうろたえたのなら十分怪しいと思うだろう。けれども、もし何もなかったとしても、真面目な仁科のことだ。『なんと畏れ多いことを……』などと言いながら、少しは動揺したかもしれない。
それが、だ。
あの時の仁科は、どういうわけか少しもそのような様子を見せなかった。
それどころか、まるで何かを確信しているかのように……全てをわかっているとでも言いたげに、ただ穏やかに笑いながら、亮太の話に耳を傾けていたのである。
あれは、何を表していたのか。
単純に、副島を主として忠誠を誓っているのだから、もちろんそんなことをするわけがないという、ある種の余裕の笑みだろうか。
それとも……。
ぞくり、と副島の背筋に寒気が走る。
格下の相手に――それも
今の立場全てを覆されるかもしれないという、悪い予感のような……そんなことを一瞬でも思ってしまうのは、自分の中に後ろめたさのようなものがあるからなのだろうか。
「……まさか」
そんなことなど、微塵も思っていない。
五年前の事故は、
もう、過去の話だ。
どうにか割り切り仕事に戻ろうと、頭を振る。手元の資料に目をやったところで、コンコン、とドアを叩く音がした。
「社長、仁科です。ただ今戻りました。……新藤様も御一緒です」
「……っ」
一瞬動揺したのをドア向こうの人間――今まさに思考の中心に鎮座していた男に悟られぬよう、精いっぱいの虚勢を帯びた声で、副島ははっきりと答える。
「入れ」
少しの間のあと、出ていった時と何ら変わらぬ様子で、生真面目そうな顔つきの仁科が入ってきた。
「失礼いたします」
仁科が促すような仕草を後ろに向けると、今度は後ろから黒いワンピースを着た美しい女が入ってくる。
「こんばんは、卓也さん」
会いたかったわ、と今日も屈託なく破顔する香澄に、ささくれ立っていた――というよりは、不安が渦巻いていたと言った方が正しいかもしれないが――副島の心も次第に和らいでいく。
「では、私はこれで」
「仁科」
一礼し、出ていこうとする仁科を反射的に呼び止めた。
「はい、社長」
不審そうな様子も一切見せず、仁科は彼の呼びかけに忠実に従い、ぴたりとその動きを止める。その一点の曇りもない澄んだ瞳を、仁科はしばらく無言でじっと見つめた。
「……社長?」
自ら呼び止めておいて何も話そうとしない副島に、さすがに訝しさを覚えたらしい仁科が、整えられた眉を僅かに寄せる。
我に返った副島は、いや、と小さく呟いた。
「何でもない。下がれ」
「かしこまりました」
失礼いたします、と一礼し、仁科は社長室を出ていく。
その時副島は、はっきりと目にした。
ドアの隙間から滑るようにして、物音も立てず出ていく仁科と、彼に向けて「ありがとう」と笑いかけた香澄――……二人の目線が、絡むように艶めかしく交錯した、その一瞬を。
ある種の仲間意識のような、強い繋がりを感じさせる、二人の目配せを。
もちろん確信があったわけではない。二人の情事を目撃したことなど一度もないし、証拠だって何一つないのだから。
けれども今の二人を、自分は知らない。
匂い立つ何らかの妖しげな表情を、自分の知らないどこかの世界を、二人だけで共有しているような、そんな。
社長の恋人と、社長の秘書。
二人の関係は、社長である副島の存在があってこそようやく成り立つ希薄な繋がりのはずで、二人だけでまともに会話しているところさえほとんど見たことがない。たとえ会話があったとしても、そこには必ず副島の存在が無条件にあって、個人的なものは皆無である。
……はず、だったのだが。
仁科と香澄が並んで立っている時、二人は時折こんな風に、副島の知らない表情を見せることがあって。
副島は時々、本来ならば感じることなどないであろうはずの、疎外感を覚えることがある。
できることならばどうか、見間違いであってほしい……そんなことを希わずにはいられないほどに、副島の心中は少しずつ、けれども確かに、ざわめき始めていた。
◆◆◆
近頃の副島にとっての悩みの種は、秘書の仁科と恋人の香澄に関することだけではなかった。
それ以上にもっと、頭の重くなることが起きていたのだ。
「うーん……」
仁科が会社にいなかった頃の数年分を示した貸借対照表と、今年四月から先月までの月次損益計算書を眺めながら、亮太が何とも言いにくそうに唸り声を上げた。
「回復しないですねぇ」
むしろ今年度に入って、純利益額がとみに減少してきている。
腕を組みながら亮太の説明を聞いていた副島は、最近増えてきた眉間の皺をさらに深くした。
「まぁ……仁科がいなかった期間に関しては、俺が過去に受けた仁科のアドバイスを参考に独断で計画を立てていたから、多少の落ちは仕方ないとしても……前より業績が上がっていないどころか、むしろ今年度に入ってから落ちてきているだと? 何故だ? 仁科が戻ってきてるんだぞ」
「いえ、それは御社内部の問題でしょう? 単なるしがない税理士補助でしかない、また担当させてもらってから日も浅い、僕ごときが口出しできるようなことでは……」
「……そうだったな。すまない」
はぁ、と深く溜息を吐いて、副島はソファにぐったりと身体を埋めた。
すっかり困り果て、頭を抱えている様子の副島に、亮太はこれまで他の企業の利益計算書を見た経験を思い出しながら、もう一度目の前の財務諸表に目を通す。
「やはり以前より、売り上げが少しばかり落ちていますね。費用は……まぁ材料費の高騰を考慮しても、おおむね例年通りでしょうか。特注すべき販管費の内訳にも、特に変わったものはなさそうですし……ん?」
販管費――販売費及び一般管理費、簡単に言えば売上原価以外の、企業運営のためにかかった費用――の金額欄に、一つ不可解な点があるのを見つけた。今年数か月の月次損益計算書と、昨年以前の年次損益計算書の販管費の欄を見比べてみる。
「……交際費と旅費交通費が多いな。何でこんなに増えた?」
昨年以前と比べて、今年は交際費、そして旅費交通費の計上が明らかに多い。現在の月次決算書時点ではまだ持ちこたえているものの、もしこのままのペースで今年度が終われば、営業利益の時点で赤字になってしまう危険がある。
亮太の低い呟きが聞こえたらしい副島が、びくりと肩を跳ね上げる。ちらりと目線だけを上げれば、何故か副島はうろたえていた。
「心当たりがおありで?」
「いや……その」
副島が言葉に詰まるのには、もちろん訳があった。多く計上されたそれらの費用はすべて、香澄関連のものだったのだ。
デートでは、度々の食事代はもちろんのこと、立ち寄った雑貨屋などで香澄に買い与えた私物(ちなみに色は、香澄本人の希望によりほとんど黒系統である)も、その後のホテル代も、副島が全て出していた。
――だがその費用は全て、販管費として計上されている。有り体に言えば、全て経費で落としたようなものだ。
香澄はあまり物を欲しがる性質ではなく、他の女よりいささか安上がりで済むとはいえ、そんなことをしょっちゅう繰り返していれば当然、不自然な金額になるに決まっている。
しかしもちろん、そのような至極個人的すぎる事情を、目の前の男に話すわけにはいかず……。
「……まぁ、最近はもう少し規模を大きくしようかと考えていてな。社員に出張へ行かせることも多いし、取引先を増やすために接待を多く組んでいたんだ」
「そうですか」
副島の苦し紛れの説明をあまり信じていなさそうだが、余計なことに首を突っ込むまいとでもしているのか、亮太は素直にうなずく。
「規模拡大もいいですが、ほどほどになさってくださいね。あまり費用がかさみすぎると、本当に赤字になってしまいますよ」
「うむ……」
今後、デート代をケチって販管費に計上するのはやめるか……と小さく肩を落とし、副島は了解の意を伝えた。
「売り上げの件に関しては、また仁科さんにでも相談なさったらいかがでしょう。僕ではどうとも言えませんし」
仁科、という名前が亮太の口から出ると、副島は一瞬ひやりとした。……いや、先ほど自分もその名を出したのだが、しかし。
――本当に、今後もあいつを信用していいのだろうか?
仁科は社長就任当時から世話になっている、副島にとっては一番近い存在。信頼するのは当然だし、これまで一度でも、ほんの少しでも、彼の意見を疑うなどという選択肢はなかった……はずだった。
だが今、長年の信頼が、少しずつ揺らぎ始めてきている。
そのことに気付きたくないと思いながらも、しかし目を背けてはいけないことのような気もしてしまって、どうしたらいいのかわからない。
先ほど亮太自身も言った通り、内部のことを――それもプライベートに関することを、彼に相談したところで意味はない。それに、この件に関してうかつに口を開けば、後ろめたいことまで全てばれてしまいそうだ。
はぁ、と小さく溜息を吐き、机上の書類を少しずつ片付ける亮太を何となく眺める。以前ホテル前で会った時のような艶めかしい雰囲気はなく、今はただ仕事モードに入った真面目な青年の姿だった。
「では、今日のところはこの辺で。そろそろ失礼します」
「あ、あぁ」
鞄を持って立ち上がった亮太を見送らせるため、副島も慌てて立ち上がる。ドア向こうに控えているであろう仁科に、亮太が帰る旨を短く伝えれば、いつも通りの生真面目な声が「かしこまりました」と答えた。
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