それは本気か、冗談か

 香澄の仕事が終わった後には――例えば、どちらかに特別な用事でもあったりしない限り――ほぼ毎日欠かさず副島商事の社長室へ寄らせるようにしている。

 彼女は新人のため、部活を受け持つなどしている他の教師たちより、幾分か帰りが早いらしい。そのため六時頃には、副島が向かわせた迎えの車へとやって来るのだ。

 校門前に毎日のように停まっている、迎えの車にしてはひどく現実離れした黒塗りの高級車。香澄と同じく早上がりの教師が圧倒されたように立ち尽くしたり、まばらに残っていた生徒たちがひそひそと何やら話をしている場面が見受けられたのは、最初の数日間だけのことで、今や教師も生徒もその光景に慣れたように受け流している。

「お帰りなさいませ、新藤様」

 寸分の狂いもなくきっちりとスーツを着こなしている男――仁科は運転席から降りると、秘書らしく恭しく礼をする。今日も今日とて漆黒の服に身を包んだ彼女は、仁科の姿にクスリと笑った。

「今更、かしこまるような仲でもないでしょうに」

「ですが今は、勤務中ですから」

「ふふっ……仕事中は本当に真面目なのね。卓也さんが常々言ってる通りだわ」

「……」

 香澄の茶化しに答えることなく、仁科はいつもそうしている通り、後部座席のドアを開いた。スカートの裾に気を遣いつつ、香澄は自らの言葉を無視されたことに気にした様子もなく、慣れた動きで乗り込む。

 人を一人だけ送迎するにしてはいささか広めに造られた車内には、普段この車を利用する人間――普段香澄とベッドを共にする相手の匂いが濃く漂う。その中に集中して鼻を利かせると、微かに別の香りを感じることができるのだが、それも香澄のよく知るものだった。

 姿勢を正した香澄は、運転席に乗り込む仁科の後頭部を見つめる。彼の主である副島が好んでそのままにさせているという、その明るい色合いの柔らかな髪は、長くなり始めた夕暮れの太陽に照らされてキラキラと光っていた。

 ふふ、と小さく笑うと、車を動かした仁科の耳に聞こえたのか、前を向いたまま苦笑気味に声を掛けられた。

「何を笑っているんです?」

「いいえ、何も」

 首を横に振り答えると、呆れたように続けられる。

「これ以上の悪巧みはやめてくださいね」

「分かっているわよ」

 あなたを、裏切りはしないわ。

 やけにはっきりとした、いっそたくましささえ感じさせる香澄の言葉に、仁科は黙ったままゆるりと頬を緩めた。


    ◆◆◆


 ――今まで以上の、違和を感じた。


 だいたいいつも通りの時刻に仕事を終えた亮太が、富広の町中を帰宅の途に就いていた時の話だ。

 横断歩道のある道までは少し距離があり、疲れた身体ではそこまで歩くのが億劫だったので、車道の適当なところで道を横切ろうと、次々通り過ぎる車の群れが途切れる時を待っていた。

 一、二分も待っていれば、右からも左からも、だんだん通り過ぎる車の数が減ってくる。そろそろ渡れるだろうと亮太が身構えたところに、向こう側の交差点から一台の車がゆっくりと姿を現した。

 高級そうな、黒塗りの大型車。あれがいわゆる、高級車の例えとしてよく耳にするベンツとかリムジンとか……庶民にはよく分からない世界の話だが、まぁ察するに大方そういうやつだろう。

 持ち主に薄々予想がつきつつも、滑るように走ってくる車をぼんやりと眺めていると、ちょうど亮太の立っている位置から少し手前のところで、キッ、と停まった。

 ハッとして運転席を見ると、明るい髪色が特徴の柔和そうな青年が、こちらへ笑顔を向けながら渡るように指示してくれている。どうやら、彼――仁科が、道を譲ってくれようとしているらしい。

 ありがとうございます、とジェスチャーで答えれば、どういたしましてとでも言うようにゆるりと首を振られる。知り合いのよしみだからか、それとも彼が単純にお人好しだからなのかは知らないが、とにかく早いところ家へ着きたい亮太としては非常にありがたい。

 対向車線から車が来ていないことを確かめ、亮太は素早く道を渡った。

 渡りきってからふと、もう一度会釈をしようと車道を見る。仁科がアクセルを踏んでいるのか、黒塗りの高級車はゆっくりと発進しようとしているところだった。

 まっすぐに前を見ながら、彼は何やら口にしている。何かが可笑しかったのか、少しうつむき加減にくつくつと笑った。いつも真面目な仁科からは想像もできないような、野性味を感じる。

 そのちょうど真後ろの席に――ゆったりとくつろぐようにして座っている、女の姿が見えた。

 同乗者が副島でないことに、亮太は一瞬きょとんとする。

 しかし亮太が車内の様子を伺い知れたのはほんの数秒にも満たない短い時間のことで、徐々にスピードを上げた車は、やがて亮太の目の前を颯爽と通り過ぎ、あっという間にその姿を消してしまった。

 本当に他愛もない、何気ない風景だったはず。そう、傍から見れば。

 けれど、亮太の心中は何故か穏やかではなく……仕事の疲れも、早く家に帰りたいという想いも、何もかもをすっかり忘れて、まるで魂が抜けたように、ぼうっとその場に立ち尽くしてしまった。


 見てはいけないようなものを、見た気がした。

 これまでにも少しずつ、けれど確実に胸を過ぎってきた、謎の違和感。それが改めて、一気に襲ってきたような……。

 何故だろう。あの仁科が、雄の顔をしていたから?

 それとも……。

「あの車に、乗ってたのって」

 これまでに何度も鉢合わせた、不思議な女。暗闇に溶け込むような、黒い服を全身に纏った、あの……。

「……いや、考えすぎか」

 ふ、と小さく笑って、亮太は頭を振る。さすがに、思い過ごしだ。

 亮太の思った通り、先ほど乗っていた女が本当に彼女――香澄だったとしても、よくよく考えれば何ら不思議なことではないのだ。何故なら彼女は、副島の恋人なのだから……彼が信頼している秘書の仁科に、恋人の送り迎えを頼んでいたとしても、別に不自然ではない。

 仁科の表情もきっと、見間違いだろう。暗かったから、たまたまそういう風に見えてしまっただけだ。

 そう。全部、偶然の連鎖から起こったことに違いない。亮太が一瞬考えてしまったようなことなど、現実に起こり得るはずがないのだ。

 二度目に会った日、亮太と仁科が住むハイム・サンセリテから、香澄が明らかに事後を匂わせるような、あられもない姿で出てきたのも……きっと、仁科とは何の関係もない。何も自分たちだけが住んでいるわけではないのだし、ひょっとしたら副島の前に付き合っていた人間が――そう考えると、さすがに短期スパンにも程があるが――もしかしたらいたのかもしれない。何ならセックスの後なんていうこと自体、亮太の勘違いだったかもしれないし。

 いくら一瞬でも、我ながら突拍子もないことを考えついたものだと、亮太は自嘲する。そのうち少しずつ可笑しさがこみあげてきて、亮太は人目もはばからず、腹を抱えて笑ってしまった。

「あははっ……あー、おかしい」

 今度副島に会ったら、この話をしてやろうかとさえ思う。

 あれほどの自信家なのだ、亮太の邪推を笑い飛ばすことはあっても、きっと怒ったり疑ったりすることは決してしないだろう。当の仁科だって、社長の恋人に対して畏れ多いとうろたえこそすれ、まさか本気で主への裏切り行為を働いているはずもあるまいし。

「今度会ったら、俺から飲みに誘ってみるか」

 酒のつまみになりそうな面白い話があるのだと言えば、きっと副島だって乗るだろう。張本人である仁科も一緒に連れていけば、さらに酒の席は盛り上がりそうだ。

 次のネタはこれだな、と勝手に一人で心に決め、笑いがおさまってきた亮太はようやく本格的に帰途に就いた。


    ◆◆◆


 近頃見かけるようになった、黒いワンピースを着た若い女性。社長秘書の仁科と一緒にいることが多く、社長室ではその主と睦まじくしているらしい……と、社内でもっぱらの評判だ。

 一介の社員でしかない自分には、どうせ無縁の人間なのだと、男はどこか冷やかに感じていた。

 しかし――……。

「あの、副島商事の社員さんですよね。営業二課にいらっしゃる」

 街中の雑踏で、完全プライベート状態で過ごしていた男に、あろうことかその美しい女性が声を掛けてきた。しかも自分のことを、よく知っている様子だ。

「は、はい。あの……」

 緊張で声が上ずってしまう。そんな様子に、いつもと変わらぬ黒い服を着た女性は、可笑しそうにクスリと笑った。

「可愛らしい人ですね」

「いや、そんな」

「ねぇ、これから何か予定はあって?」

 少しずつ男と距離を詰めながら、彼女は熱っぽい視線を投げかけてきた。思わず顔を顰めたくなるような腐臭が、ふわりと漂う。その匂いが鼻を突き刺した瞬間、男はクラリと眩暈を覚えた。

 先ほどから、動悸が止まらない。彼女は決して手を出してはいけない存在なのだと、頭では分かっているはずなのに。

「いえ、あの……予定は特に」

「そう」

 だったら、一緒に過ごしませんか?

 真っ赤な唇から零れた魅惑的な誘いに、背徳を感じゾクリとした。触れてはいけないと思えば思うほど、手を伸ばしたくなってしまう。

 白魚のような美しい手が、誘うように向けられる。

 あぁ。どうしようもなく触れたい、でも触れたら――……。

 頭の中の葛藤を無視して、男の喉は勝手にごくりと鳴った。

 そして……男はしなやかに伸びる細いその手に、自らの一回り大きな手を、重ねた。

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