黒百合の秘めごと

「おはようございます、佐川先生」

「……あ、あぁ」

 富広中学校の教諭・佐川が職員室に入るや否や、明るく挨拶をしてきたのは、今年新任でやって来たばかりの新藤香澄という女。

 その容姿もさることながら、気さくで接しやすい人柄と朗らかな笑顔、そして何よりわかりやすい授業内容で、生徒からの支持を着実に集めている。ごくごく普通の、優秀な教師だ。

 ただ、例外があるとするなら――……何故かいつも黒い服を身に纏っている、という点だけだろうか。生徒たちからもたびたび指摘されているようだが、どうやら本人に他の色を纏う気はないらしい。まぁ、好みなど人それぞれなのだし、佐川は特に気にしていないのだが。

「おはようございます、新藤先生」

 佐川もまた、人受けのいい笑顔を作り、挨拶を返す。そのまま自分のデスクに着き、鞄をサイドに置いた。

 ちらり、と視線をやる。漆黒の女教師は何事もないように、自分のノートパソコンを開き、滑らかなタイピングでキーボードを打っていた。

 彼女は新人教師であるため、まだどこのクラス担任も受け持っていない。そのため各クラスのホームルームを控えている他の教師たちのように急ぐこともなく、どうやら今の時間は、次の授業で使うプリントを作っているようだ。

 佐川もまた、クラス担任を持つ教師ではない。時期教頭候補とも言われるほど地位を上げた彼は、最上級学年である三年生の学年主任を務めており、今ではクラスをまとめる担任教師たちからの相談にさえ乗ることもあるほどの立場にいる。

 そんな佐川だが、この女教師のことだけはどうにも読めず、なんとなく苦手としていた。

 先述の通り接しやすく、教師としても、一人の人間としても、何ら不備はない……はずだ。それなのに、香澄を見かけるたびに違和感というか、胸のざわめきというか、どことなく気持ち悪い感じを毎回覚える。正体がいったい何なのか、佐川にも分からなかった。


 そういえばいつだったか、彼女と同じような背格好の女が、スーツ姿の男と寄り添って歩いているところを目撃したことがある。それも、いわゆるホテル街と呼ばれる、妖しげなピンクやら紫やらのネオンがあちこちで光っているような場所へ向かって、だ。

 その時は自分にも行くところがあったし、何せ連れもいたので、さほど気に留めることもなく通り過ぎたのだが……今思えば、彼女の存在をどことなく不穏に思うきっかけはそこにあったのだろうか。

 清廉潔白なイメージのあった新人教師――もしかしたら、あれは単なる人違いだったのかもしれないけれど――が、そのようないかがわしい場所へ出入りしているらしいことを、知ってしまったから。

 新藤香澄という教師の、女としての……否、雌としての顔を、ついうっかり思い浮かべてしまったから。


「――佐川先生?」

 彼女の方を、いつの間にやら無意識に凝視していたらしい。香澄の訝しそうな問いかけに、佐川はハッと我に返った。

 周りから漂う不審げな空気を誤魔化すように、ゴホッ、と咳払いを一つ。

「いや、うん……どうしました、新藤先生?」

「佐川先生こそ」

 クスクス、と上品に笑う所作に、佐川は居心地が悪くなる。

 やはり、この女は苦手だ。

「授業、行かれなくていいんですか」

 時計を見ながら、問うてみる。ホームルームはとっくに始まっているどころか、もうそろそろ、あと五分ほどで一限目が始まる時刻だった。

「佐川先生は?」

「私は、二年のクラスで授業がありますから、もう行きます」

「そうですか。わたしは今日、一限の授業は入っていないので、課題のチェックでもしていますね」

 行ってらっしゃい、と続いた言葉に、妙な動揺を覚える。それでもそんな感情などおくびにも出すことなく、佐川は二学年用の教科書とプリントの束を持って、心もち早足で職員室を出た。

 いつもの悪い癖が危うく出そうになったけれど、頭を振ることで全て振り払う。今は、授業に気持ちを切り替えなくては。

 どうせあの女に関わったところで、ろくなことにはならないのだ。


    ◆◆◆


 税法のセミナーがあったため、今日はいつもより少し早く終わったのだと電話口で告げれば、恋人はさも嬉しそうに、無邪気な声で『会いましょうよ』と答えた。

 最寄りの若槻駅で降りると、銀行の制服を着たままの瑠璃が既に待っていた。亮太の姿を認めたと思った途端に、まるで親に甘える子供のように抱き着いてくる。

「亮ちゃん! 会いたかったぁ」

 駅内の利用客たちが微笑ましげに、時に呆れたようにこちらを見つめてくるのがなんだか照れくさい。けれど無理に彼女を突き放すと機嫌が悪くなるのを知っているので、亮太は素直に「よしよし」とその頭を撫でてやる。

 しばらく瑠璃は亮太の肩口に頭をぐりぐりと押し付けていたが、やがて満足したのか動きがぴたりと止まる。亮太が頭に置いていた手を離すと、彼女は亮太の肩口からゆっくりと顔を上げた。

 亮太をじっと見つめる瞳の色は、先ほどまでのお転婆な少女のようなものとは打って変わった雰囲気を醸していた。既にある種のスイッチが入っていることを、ありありと物語っている。

 ルージュが引かれた、ぽってりとした艶やかな唇が、亮太を誘うようにゆっくりと開いた。

「行きましょ……?」

 亮太の中にある劣情が、少なからず刺激される。その効果を知っていて、わざとそういうことをするのだから、この女は非常に性質が悪いな……と亮太は自嘲めいた苦笑を浮かべた。

 自分より幾分か多く人生経験を積んでいるからこそ、為せる業か。どのみち、そういったギャップの切り替えが上手なことに変わりはない。

 もはや人の目を気にすることもなく、亮太は瑠璃の肩を抱いて歩き出す。駅を出るときには、二人ともすっかりその気であることが明らかな、見る人が見れば非常に鬱陶しいバカップルが完成していた。


 瑠璃と腕を絡め、連れ立って歩く。もちろん、行き先は既に決まっていたので、亮太は何も言わないし、瑠璃も黙って着いて来る。

 この富広町で一番栄えている場所には、居酒屋やクラブなどといった夜のみ営業するような店が多く立ち並ぶ。すれ違う人間のほとんどが酔っ払いで、ふわりと酒の匂いが漂うのももはや慣れきったこと。

 繁華街を抜けると、ホテル街が見えてくる。立っている看板にはネオンサインが光り、いっそ悪目立ちするほど眩しい。ちなみに……こんなところに来る目的など一つだから、もはや誰も気にしないのだが、注目してみると意外と変な名前のホテルが多かったりするのも特徴だ。

 そんな中で亮太と瑠璃が決まって利用するのが、黄色い看板が目印のバナドヒルズ。多少値は張るが、一部屋一部屋が『そういう』場所とは思えないほど清潔で広い。

 慣れたように建物へ足を踏み入れようとすれば、後ろから一組のカップルが歩いてきた。亮太たちと同じ目的で、同じ場所を利用するようだ。

 さほど興味はないのでスルーしていると、向こうの方がこちらに気付いたらしく、男の方が声を上げた。

「よぉ、宮代じゃないか」

「あっ」

 まさかこんなところで知り合いに会うとは思わなかったので、思いがけず微妙な表情になってしまう。引きつった笑みを浮かべながらも、亮太は男に会釈した。

「副島さん、奇遇ですね」

 男――副島は亮太の顔と、隣に寄り添う瑠璃を交互に見比べながら、ニヤニヤと面白そうに笑っていた。瑠璃に捕らわれていない方の手で頬を掻き、亮太は気まずげに視線を逸らす。

「お前も今夜はお楽しみか。まぁ、人のことは言えないが」

 なぁ? と、傍らの女を見る。そこで亮太は副島の恋人の存在を思い出して、どきりとした。

 瑠璃が亮太にしているのと同じように、副島のスーツに包まれた腕を捕らえて微笑んでいるのは……いつものように黒い格好をした、色白の女。

「こんばんは」

 真っ赤な唇を微笑みの形に曲げて、女は亮太を見上げる。どことなく気だるげな、退廃的な雰囲気があった。

 そう、例えるならばまるで……。

「前に話した、俺の恋人だよ。綺麗だろう」

 亮太の思考を断ち切るように、副島がどこか自慢げに胸を張る。彼女は笑みを湛えたまま、ぺこりと一礼した。

「新藤香澄です」

「あ、どうも……」

 何となく、知り合いだとは言えない雰囲気だったので(そんなことを言えば自他両方の恋人から嫉妬を受けそうだ)、初対面を装って会釈しておく。

「そっちはお前の恋人か、宮代?」

「……えぇ、まぁ」

 比べられているかのような言動に、亮太はさらに気まずくなる。

 それでも当の瑠璃は、香澄に負けず劣らずの美貌を持っていると自分で思っているのか、勝気に微笑んだ。

「二階堂瑠璃です。亮ちゃんがお世話になってます」

「こちらこそ」

 副島の中で香澄至上主義はかなり徹底しているらしく、瑠璃に対して――そして彼女を連れる亮太に対して、見下しているかのような態度を隠しもしない。

 俺の女の方が、いいだろう。

 口にはしなくても、そんな態度はありありと伝わってくる。

 もちろんそんなことで張り合う気は微塵もないが、だからといってこの場で香澄を必要以上に褒めると、今度は瑠璃の機嫌が悪くなる。

 だから亮太は余計なことを何も言わず、曖昧に笑っておくことにした。それぞれへのフォローは、個別に会った時にでもすればいいだろう。

 そろそろ行こうと、瑠璃に声を掛けようとした時……。

 傍らの瑠璃は何故か、先ほどよりも強く亮太の腕を掴んでいた。先ほどと変わらず自信たっぷりに微笑んでいるものの、その視線は一点に注がれたまま、まるで時間が止まってしまったかのようにピクリとも動かない。

 一方、その視線の先にいる黒服の女――香澄はというと、瑠璃を……というよりは、瑠璃と亮太の二人を見比べるようにして視線を注いでいた。その表情は、怖いほどの無に包まれている。

 どことなく仄暗さを感じるような……いや、気のせいか?

 亮太が戸惑っていると、ただ一人この空気を全く読んでいないらしい副島が、香澄の細い肩を抱いた。

「そろそろ行くか。せっかくのお楽しみを、邪魔しちゃいけないからなぁ」

 その言葉を合図に、ふっと魔法が解けたように香澄は動き出した。副島の顔を見上げながら、顔全体で無邪気に笑う。

「ふふっ、卓也さんったら」

 砂糖を溶かしすぎた珈琲のように、囁きかける声は甘い。

「じゃあまた、今度は仕事の場で会おう」

「え、えぇ」

 戸惑いつつ、亮太は返事をする。

 香澄はそんな亮太たちにもう一度会釈すると、大人しく副島に肩を抱かれたまま、二人の横を何事もなかったかのように通り過ぎていった。

「いやぁ、参ったな。こんなところで……あれ、瑠璃?」

 苦笑しつつ頭を掻く。それでも身動き一つしない瑠璃を不審に思い、亮太はその顔を覗き込んだ。

 彼女の顔に、先ほどまでの勝ち誇った笑みはどこにもない。どこか思い詰めたような、緊迫した表情。

 亮太はもう一度声を掛けてみるが、聞こえていないのか反応がなかった。

「……あの女」

 畏怖するように、小さく呟く。

 それから怯えるように抱き着いてきた瑠璃の身体を、亮太は困惑しながらとにかく抱き返した。

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