恋人は天使である
「卓也さん」
自分の姿を見るや否や、心の底から嬉しそうに破顔し、無邪気に駆けよってくる。そんな香澄を副島は可愛らしく、そして愛おしく思う。
バナドホテルで一夜を共にしてから、副島が香澄と正式に付き合うことになるまでに、さほど時間はかからなかった。
当初と目的は違っていたものの、交換していた連絡先で二人は繋がりあうようになり、こうして身体を重ねる以外のこと――いわゆる恋人同士がするような、愛の育みなども人並みにするようになった。
「お待たせ、香澄」
行こうか、とエスコートするように、彼女の白い手を取る。反対の手で黒いワンピースの裾をつまみ、お姫様よろしく気取ってみせる彼女は、ショウウインドウに自慢げに並ぶ花束よりも可憐だ。
じっと見ていれば、彼女は白く透き通った頬をほんのりと染める。
「そんなに見られると、恥ずかしいわ」
「君が綺麗だからさ」
「やだ、卓也さんったら」
恥らうように顔を背ける彼女は、初々しい。こんな姿もまた、一興。
ぴっとりと寄り添う、体温は少し低めなのだろうか。触れ合うたびに、彼女の新たな一面を知っていく。どんどん、彼女という存在にのめり込んでいくのが自分でもわかる。
それでも、止めようという気はない。
ただ一つ、この恋人に対して不満があるとするならば……。
「君はいつも、黒い服を着ているね」
黒以外の色の服を、身に付けたところを見たことがないということだ。
副島が別の色の服を贈ろうと言っても、かたくなに拒否をする。どういう理由かは知らないが、きっとまだ訪れたことのない彼女の部屋には、黒い服が何着も、何パターンもスタンバイされているのだろう。
「わたし、黒が好きなのよ」
香澄はただそう言って、にっこりと笑う。
綺麗な顔立ちをしているし、肌の色だって白いのだから、もっと明るい服を着た方が映えるのではないかと副島は惜しく思っている。
「ピンクとか、オレンジとか……そういうののほうが似合うんじゃないか」
けれどそう言うと、彼女は決まって寂しそうに目を伏せる。
「……駄目なの」
わたしは、黒でなければ。
その言葉が意味することも、まだ副島にはわからない。恋人なのだから、いずれ理由を話してくれるだろうと思ってはいるのだが。
愛する彼女の寂しそうな、辛そうな表情は見たくない。
「そろそろ昼だし、飯にするか」
話を変えるべく声を上げれば、彼女はまたいつもの屈託ない笑みを見せる。夜に見せる妖艶さとは違った、そのまるで少女のようなはしゃぎっぷりも、惹かれるポイントだ。
「わたし、和食が食べたいわ」
「よし。それならおすすめの料亭があるぞ」
「さすが卓也さん。何でも知っているのね」
ふふふ、と彼女は無邪気に笑う。そんな反応を見せられては、多少年甲斐なく照れてしまっても、仕方あるまい。
歩幅を合わせて歩き出す。
まるで何もかもが初めてで、互いに手探りな恋人同士のよう。久しく感じていなかったこの気持ちに名をつけるならば、一体何とするか。
「楽しみだわ、卓也さんおすすめのお店」
卓也さんの見立てなら安心だものね、と信頼を寄せた笑みを向けられ、また照れてしまう。するとその反応が気に召したのか、「可愛いわ」とまたクスクス笑われた。
それでも嫌な気一つしないのは、既に盲目になっているからか。
まぁ構わないか、と思考を止め、今は隣にいる恋人と触れ合う、愛しい体温にだけ集中することにした。
「――とまぁ、これがまた天使なわけだよ」
「はぁ……」
気に入りの日本酒を片手に、最近できたという恋人のことを饒舌に語る副島。その向かいでウイスキーをちびちびと舐めるようにして飲む亮太は、内心うんざりしていた。
「僕もね、会うたびに同じ話を聞かされるんですよ」
亮太の隣でやれやれといったような苦笑を浮かべる八神は、持ってきてもらったばかりの梅酒にまだほとんど手を付けていない。彼はもともとあまり酒を飲まない方なので、飲み会の場では必然的に介抱役になることが多いのだ(主に副島の)。
「お二人はまだいいじゃないですか」
ウーロンハイを飲みつつ、八神の向かい側――つまり副島の隣に座る仁科が、こそっと小声で言う。
「これを毎日聞かされる、私の身にもなってくださいよ……」
「「ご愁傷様です」」
とにかく自分の話に夢中な副島は、そんな他三人の愚痴めいたひそひそ話に全く耳を傾けるそぶりはない。彼の興味はただ、いわく『天使』だという自らの恋人にのみ注がれているらしい。
結局それから一時間、時に同じ話を幾度も繰り返しつつ、いつも以上のピッチでアルコールを摂取しながら、つらつらと恋人の魅力とやらについて三人に語って聞かせた副島は……最終的に酔いつぶれ、あっさりと眠ってしまった。
「まったく……」
テーブルに突っ伏して眠る副島を、三人は呆れたように見守る。
普段の切れ者社長としての顔からは遠くかけ離れた、ひどく情けないふにゃふにゃの表情。件の恋人と、夢の中でも睦み合っているのだろうか。
まだ言い足りないことがあったらしく、副島の隣で頬杖を突いた仁科がぼやき始める。
「最近はね、その恋人とやらを社長室にまで連れ込むんですよ」
「えぇっ、社長室に!?」
「いいんですか、そんなことしちゃって」
「社長特権だ、とか言って。言うまでもなく、副島商事で一番偉い肩書きの持ち主ですから、反抗できる者がいません。ですから、外部の女が勝手に社内へ出入りすることに関して、誰も何も言わないんです」
「なるほど」
社長に気に入られている秘書の仁科でも、口出しはできないらしい。完全に副島の天下というところか。
「それも……」
眉をひそめ、仁科は言葉を続ける。しかし次の一言に、亮太は思わずつまみに伸びていた手をぴたりと止めた。
「彼女はいつも黒い服を着ているので、目立つんです」
「……え?」
黒い服、と彼は言った。
いつも黒い服を身に纏う、女。その存在に、亮太は心当たりがあった。いや、むしろそういった人間は、ただ一人しか思い当たらなかった。
「写真がありますよ、見ます?」
私などから見ても、非常にお綺麗だと分かるほどの方なのです。
そう言って、仁科は眠る副島のスーツのポケットから、携帯電話を取り出した。携帯を勝手に取られた張本人は、酔っ払って眠っているため、もちろん何の反応も見せない。
どうやら待ち受けになっていたらしく、仁科が一つ操作をしたらすぐに出てきたツーショット写真を、亮太と八神は揃って覗き込んだ。
朗らかに、機嫌良さそうに笑う副島の隣に、寄り添う黒いワンピースの女。そのあまりに見覚えのある顔を見て、亮太は唖然とした。
「お名前は、新藤香澄さん。今年から富広中学校で、理科教師として勤務されているとか」
副島社長が自慢したがる気持ちも、分かるでしょう?
「……まぁ、そうですね」
答えたのは八神だ。彼は亮太と一緒にツーショット写真を見ながら、何故か複雑そうな表情を浮かべていた。
「お二人とも、この方のことをご存知で?」
二人それぞれの少し変わった反応を見た仁科が、キョトンとしながら尋ねる。
「同じ街に住んでいらっしゃるんでしょう? ……こんなに目立つ人なんですから、それなりに見かけたことがあっても当然じゃないですか」
彼女を知った本当のいきさつを――とは言っても、それもまた微妙なところなのだが――言うべきか言わざるべきか。
かつて自身のアパートで、明らかに誰かと夜を共にした後であった、彼女に会ったことがあると……言うべきか、言わざるべきか。
迷いながらもどうにか、口が動くまま苦し紛れに絞り出した亮太の答えに、仁科は「まぁ、それもそうですね」と納得する。
「同じく私も、この街に住む身ですから」
一方の八神もまた、亮太に話を合わせるようにして言った。
「何となく、道中でこのような風貌の女性を見かけたことがあるなぁとは思っていたんです。だから、少し驚きまして」
「お綺麗な方ですもんね」
「確かに、自慢したくなる副島社長の気持ちも分かります」
うんうん、とやたらしみじみ感情を込めてうなずき合う八神と仁科。
何となく引っ掛かりを覚えつつも、亮太もまた、「男としては羨ましい限りですよね」などと二人に話を合わせたのだった。
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