副島卓也の転機
――キィッ、
甲高い車の音と、突如かけられた急ブレーキに、後部座席で仮眠を取っていた副島は驚いて目を覚ました。何事かと眉をひそめる間に、運転手である秘書の仁科が慌てた様子で運転席から離れる。バタン、とドアを閉める音が、やけに耳障りに響いた。
窓を開けて外の様子を確かめてみれば、停まった車の前にちょうど人が座り込んでいるのが見える。黒いワンピース姿の……女だ。
力が抜けてしまっている様子の彼女に、仁科が腰を折って何やら謝罪の言葉を述べていた。どうやら、飛び出してきたらしいこの女を危うく轢きそうになってしまったようだ。
小さく溜息を吐くと、副島もまた車から降りた。
「本当に申し訳ありません。賠償は、どのくらいで……」
「大丈夫です。こちらの不注意ですし、ちょっとびっくりしただけで、怪我はありませんから」
何やら押し問答らしきものを続けている二人の後ろから、副島は社長らしく威厳のある声で話しかけた。
「うちの運転手が、迷惑をかけてしまったようだね」
「社長……」
とんでもないことをしてしまったと不用意に自分を追い詰めているのか、ひどく情けない表情で振り向く秘書に、目だけで『案ずるな』と伝える。
「お前は車に戻って、すぐ発車できるように用意しておけ。次の会合まで、もうあまり時間がないからな」
「……はい」
やっぱり申し訳なさそうに車へと戻っていく仁科を横目で見ながら、副島はそっと座り込む女の方へと足を進めた。
「申し訳ないね。……怪我はないかな」
「はい、大丈夫です」
立ち上がらせてあげるために手を差し出そうとしたところで、副島は女の顔を初めて真正面から見た。
「ありがとうございます」
言葉と共に浮かべられた、その気がなくても不思議と惹きつけられる、天使のように清らかで美しい微笑み。その目鼻立ちのくっきりした愛らしい顔だけをなんとなくぼんやりと視界に入れていたためか、彼女の手が自分のスーツのポケットに伸びていることになど、副島は全く気付かなかった。
「本当に、怪我はないだろうね」
「えぇ。ご覧の通り、何とも。擦り傷一つありませんわ」
「そうか、それならよかった。……もしよければ、名前と連絡先を伺いたいのだが」
「はぁ」
「後日、秘書から何か詫びの品を贈らせるので、受け取ってやってくれないか。あれでもアイツは、結構気にするタイプなんだ」
ジョークみたいに軽くそう言うと、香澄はクスリと笑った。
「純粋な方なんですね」
「生真面目なんだよ」
副島も一緒になって笑う。
「ふふ、ではそういうことなら」
女は同じく漆黒のポシェットから、携帯電話を取り出した。副島も同じように自身の携帯電話を取り出し、簡単に連絡先を交換する。
「新藤、香澄さん……か。綺麗な名前だ」
「ありがとうございます。あなたは……副島卓也さん、ですね」
「あぁ、そうだ。副島商事という会社にいる。何かあったら連絡してくれ」
それからふと時計を見て、副島は小さく息をついた。
「いけない、会合の時間が迫っている。……すまないが、そろそろ失礼するよ」
「足止めさせてしまいまして、申し訳ありませんでした」
「いや、こちらが悪いのだから……それじゃあ」
「はい。それでは……
最後に彼女が告げた言葉に、ほんの少しだけ引っ掛かりを覚えたものの、踵を返し車内へと戻っていく副島の頭の中は既にこれからのことでいっぱいになっていたため、さして気に留めもしなかった。
車のドアに手を掛けた状態で、ふと先ほどまで彼女といた場所を一瞥すれば、黒いワンピース姿はもうそこにはなく……引き上げるのが早いなぁ、と内心苦笑しながら、自らも急がなければとそのままドアを開けたのだった。
◆◆◆
ビル街のほぼ中心部分に位置する、ひときわ目立つ大きく立派な建物――株式会社副島商事。
存在自体はもう五十年ほども前からあるものの、その知名度が一気に上がったのは、つい十年近く前のことだ。当時三十にも満たない年齢で社長へと就任した御曹司は、当初の低い期待度とは裏腹に、合理的かつ効率的に事業を進め、広げていき……今では日本国内屈指の優良企業として、確固たる地位を築いている。
そんな副島商事の最上階に位置する、社長室にて。
「先日は、大変失礼いたしました」
椅子に座った副島に、秘書の仁科が深々と頭を下げていた。本人いわく『そう見えるかもしれないが一度も人工的に染めた経験はない』という明るい色の柔らかそうな髪が、蛍光灯の光を受けて金色に光る。副島の、気に入りの色だった。
「気にするな。……とりあえずあの女には、詫びの品を送らせておいた。これで少しはお前の気もすむだろう」
「はい」
できるだけ優しい声で赦しの言葉をかけてやれば、それまで沈痛な面持ちだった仁科は心底ホッとしたように微笑む。
「まったく、事故を起こすのはあれっきりで十分だ。もう二度と勘弁願いたいものだよ、仁科」
「……そうでございますね。肝に銘じます」
一瞬言葉を止めた後、仁科は深々と頭を下げた。
社長に就任した頃からの付き合いであるこの男は、副島が仕事に慣れるまでしっかりサポートしてくれたし、仕事のノウハウを教えてもくれた。会社がここまで成長したのは、ひとえに彼のおかげだと副島は思っている。今でもたまに、経営の相談を持ちかけることがあるほどだ。
一時期仁科が秘書から外れていた頃があるのだが、その数年間はどれほど大変だったか……当時の業績を見れば、一目瞭然だ。
というのも、実は仁科には、過去に不慮の事故で人を死なせてしまった経験がある。そのため、一時的に会社をクビになっていたのだ。
幸いにも付けてもらえた執行猶予を昨年終え、晴れて社会復帰することとなったものの、一度人殺しというレッテルが貼られたためか、周りは彼をもう一度副島の秘書として採用することに反対した。
とはいえ、有能なこの秘書を手放すなんてもってのほかだ。自分が認めたのだから、誰にも文句など言わせない……とばかりに、副島は自らの権限で彼をその日のうちに秘書へ復帰させた。
もちろん今後も手放す気はないし、他の企業に引き抜かれるようなことがあっても、それは絶対に許さない。
「前科持ちの私を快く、もう一度雇ってくださったばかりか、以前と変わらぬ信頼を寄せてくださる、懐の広い社長には感謝してもしきれません」
仁科の言葉に、副島はうむ、と小さくうなずく。
「最後まで俺の側で働かせてやるから、安心しろ」
「ありがたき幸せでございます、副島社長」
仁科はもう一度、深々と頭を下げる。副島はその姿に、「あぁ」と満足げな笑みを浮かべた。
「失礼いたします」
仁科が社長室を出たあと、一人きりになった副島は、ふとスーツのポケットに忍ばされていたとあるメモの存在を思い出した。
――それでは、
黒を纏った女の真っ赤な唇から零れた、あの言葉がよみがえる。
新藤香澄と名乗ったあの女には、会合が終わってから一度連絡を入れた。もちろん、詫びの品を送る手配をするための業務連絡だ。
『スーツのポケット、御覧くださいね』
用件を伝え、電話を切ろうとした彼の耳にするりと滑りこんできた、甘さを含んだその言葉。何となく気になってその通りにしてみると、折り畳まれたメモ用紙が出てきたのだった。
書類とともにクリップで留めた、その小さな紙を見る。女性らしいしなやかな字で、こう書かれていた。
『四日二十一時、バナドヒルズ前』
四日とは、今日の日付を指す。つまり今夜二十一時に、この場所で待っているという意味でおおむね間違いはないのだろう。
誰が待っているか――そんなことは、疑問に思うのも野暮な話。
しかも、バナドヒルズと言えば……。
「お誘いか。参ったね」
バナドヒルズは、富広町の一角に建つホテルの名前。それも普通のビジネスホテルなどではなく、男と女が二人きりでやることをやるための……まぁ、いわゆるラブホテルというやつだ。
おそらくあのメモは、事前に用意していたのだろう。自分が乗った車の前へ飛び出してきたのも、あるいは計画的なものだったか。
どういうつもりで自分に接近しようとしているのかは知らないが……あの女も、ずいぶん大胆なことをする。
そして……。
「満更でもない、俺も俺だよなぁ」
ク、と小さく笑って、書類に手を伸ばす。あとで、仁科に帰り道のルートを伝えておかなければ。
直接バナドヒルズを行き先に指示するのはあまりにも露骨すぎるから、どこか近くの適当な場所で車を停めてもらおう……と考えながら、副島は残っている仕事を片付けるべく姿勢を直した。
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