掠めた花の囁き

「いらっしゃいませー」

 この街一番の規模を誇る商店街には、よく目立つ一軒の店がある。内部といい、売られている商品といい、豊かな色合いで圧倒的な華やかさを放っている――芳香漂う花屋こと、フラワーショップ吉村よしむら

 今やこの店の看板娘として定着しつつある吉村家の次女・美織みおりは、今朝仕入れた新鮮な花たちに囲まれながら、今日も今日とて店に立っていた。

 自分が大人しい性格であることを知っているので、美織はあまりこの仕事を楽しいとは思っていない。もともとコミュニケーション力に欠けていることも自覚しているし、立派な店の顔になれるような華やかさを持っているわけでもない。

 それでも、いずれは自分がこの店を継がなければならない。その使命感と自負だけが、今の美織を支え、奮い立たせていた。

 先述の通り、美織は長女ではない。本当は上に一人、姉がいる。

 姉の紗織さおりはこの街から一駅離れた場所にある、TVワカツキというテレビ局の花形女子アナで、この店頭に並ぶどの花よりも華やかで美しい女性だ。そんな姉を美織は誰よりも尊敬し、羨み、世界で一番素晴らしい女性だと思っている。

 いくらこの辺一体で繁盛しているとはいえ、たった一商店街の花屋などに興味はないらしく(当然だろう)、彼女は今テレビ局近くのアパートで独り暮らしをしている。どうやら歳の離れた恋人がいるとかで、数日おきに来る連絡の内容は――仕事のことにも、二言三言程度触れてはいるが――ほとんどそのことばかり。以前付き合っていた別の彼氏がいた時は、今ほど頻繁に恋愛の話を出してくることはなかったと思うのだが……おそらく姉はよほど、その人を愛しているのだろう。

 絵に描いたような充実した日々を送る彼女からの連絡を、美織は実家を守りながら今か今かと心待ちにしているのだ。


 陽が沈みかけ、一日の終わりがそろそろやって来ようという頃。

 人もまばらとなってきた店内に、一人の客がやって来た。そろそろ締めようかと思い準備を始めようとしていた頃だったので、美織は驚く。

 この辺りではあまり見かけない、自分と同い年くらいの若い女性だった。

 職業病なのか、美織には他人――主に女性を見ると、花に例えようとしてしまう癖がある。姉はもちろん真紅の薔薇、自分は……まぁ、強いて言うならその辺の名もなき草花か。誰にも気づかれず、他の野草に紛れて踏んづけられてしまうような。

 薄手の黒いワンピースに身を包んだその女性は、まるで黒百合だった。小柄な体躯とあどけない容姿は可憐で、晒された白い肌はシュッとした茎のよう。ふっくらとした唇に乗った真っ赤なルージュと、彼女の動きに合わせてはためく漆黒のスカートが、艶やかさ、そして妖しさを強調する。

 姉とはまた違うタイプの美しさを持つその人に、美織は自然と目が行った。いつものように『いらっしゃいませ』と声を掛けることも忘れて、ぼうっとその黒百合を眺めてしまう。

「この辺りに、花屋なんてあったんですね」

 花の香りに満ちた空気にしっとりと溶けゆくような、甘い声がふと耳に届いた。美織はハッとして、今まで眺めていた女性の姿を改めて認める。

 彼女はいつの間にか、こちらを見て優雅に微笑んでいた。店員としてはいささか無礼な美織の態度にも、気にした様子はない。

「え、えぇ」

 意外でしたでしょうか? と問いかければ、雪のように白い手が、微笑みに歪んだ赤い唇を覆い隠す。ふるふると横に軽く振られた首も、困ったように下げられた弓形の細い眉も、それにつられて揺れる明るい色のショートヘアも、何もかもが美しい。

「失礼なことを言ったかしら」

「いいえ、そんなこと」

 いくらそれなりに規模が大きいとはいえ、たかだか商店街の一角にある花屋の存在など、この街に――特に商店街の近くに住む人間でなければ、知ることはないだろう。それも、来たばかりの人間ならなおのこと。

「わたし、まだこの街に来たばかりで。せっかくだから、いろいろと見て回っているところなんですけど」

「そうなんですか」

 どうやら、美織の予想は当たったようだ。

「花はお好きでしょうか? よろしければ、見ていってください」

「ありがとう」

 安堵したように、ふわりと微笑む。ゆっくりと表情の綻んでいく様子は、さながら開花の瞬間のようだと、美織は思った。


「――あら」

 しばらく無言で店内の花を眺め歩いていた彼女が、ふと声を漏らした。その姿を眺めていた――いつも暇なときは本を読んだりしているのだが、今日は何となく黒服の彼女の挙動を見ていたい気分だったのだ――美織が、首を傾げる。

「どうされましたか」

 西日に照らされ、シルエットのようになった彼女が、ある花のところで立ち止まっていた。水色の簡素なバケツに挿されていたのは、たっぷりとスペースの取られた、大きなアジサイの花。まだ仕入れ始めたばかりなので、満開にはまだ多少の時間がかかる。

「この時期に、アジサイがあるんだなと思って……」

 声色だけは、どこか照れ臭そう。けれど彼女がどのような表情を浮かべているのか、美織のところからはよく見えない。

 美織は営業用の笑みを作り、その疑問に答えた。

「皆さんご存知の通り、見頃なのは梅雨です。でも、花自体は少し前……そうですね、三月ごろから出回るんです。以前から懇意にしている仕入先の方でも、育てている春アジサイが咲き始めたらしくて。せっかくですから、少し仕入れてみました」

「そうでしたか」

 そう言って今度は、何かを考えるように時間を置く。西日越しのシルエットは、うつむき加減にアジサイを凝視しているようだった。

 静寂の後、一分ほど経ったところで、彼女はようやく動きを見せた。コツ、コツ、とハイヒールの音が鳴ったかと思うと、だんだん彼女の姿が――顔が、はっきりと見えるようになる。

「一つ、頂けますか」

 できれば一番花のついているものが欲しいのだけど、と告げられる文言に、美織は何故か唖然とする。髪と同じく色素の薄い瞳はまっすぐ、何らかの決意を秘めたように、美織を射抜いていた。

「か、かしこまりました」

 美織は立ち上がり、先ほど彼女が佇んでいた、アジサイの入ったバケツへと向かう。しばし物色し、これは一番綺麗だと美織自身が見立てたものを、束の中から引き抜いた。

「贈答用にお包みしますか」

「いいわ、適当で。家で飾るから」

「かしこまりました」

 言われた通り、美織は包み紙を取り出す。いつも以上に手際よく、集中を込めながら一輪のアジサイを包んでいった。

 ふと胸に過ぎった不吉な予感を、振り切るために。


    ◆◆◆


「よくお逢いしますね」

 仕事帰り、夕飯の買い出しのため駅前の商店街に足を運んだ亮太は、そこで三度みたびその女と――香澄とばったり出逢った。抱える花の存在に、自然と目が行く。まばらに咲いた、大きなアジサイだ。

「この時期に、アジサイなんて売ってるんですか」

「えぇ。普通その辺で見かけるのは梅雨頃だけど、花自体は三月くらいから出回るのですって。吉村の娘さんに聞きました」

 吉村とは、この商店街の一角にある、フラワーショップ吉村を指す。あの家に娘は二人いるのだが、姉の方は一人暮らしをしており、今店を手伝っているのは妹の方だと聞いた。確か名前は……。

「美織さんって、とても話しやすい方ですよね。穏やかで。わたし、気に入っちゃいました」

「あぁ……。まぁ年も近いでしょうし、その……新藤さんとはいいお友達になれそうですね」

 フラワーショップ吉村の看板娘、などと揶揄される妹だが、失礼な話、アナウンサーの姉に比べたら容姿も性格もいまいちパッとしないため、名前すら覚えていなかった。亮太は誤魔化しも込めて、そんな当たり障りのない返事をしておく。

 どう伝わったかは分からないが、彼女は亮太の言葉に、ふふ、とどこか楽しそうな笑みを零した。オレンジ色の太陽に照らされた、白い顔はいっそ神々しくも見える。

 きらり、と何かが光った。彼女の左手首に巻きつけられた、細身のシンプルな腕時計だ。それもまた黒を基調としていることに気付き、彼女の言う『喪服』が徹底したものであることに亮太は改めて感心する。

 ちらり、と左手に視線をやった彼女は、「あ、」と小さく声を漏らす。それから少し慌てたように、亮太へ向けてぺこりと一礼してみせた。

「じゃあ、あの、わたしはこれで」

 学生も学校が終わり、社会人も仕事が終わる時間、亮太だってもちろんあとは家に帰るだけだ。今はもう決して早いとは言えない時刻、彼女は何やら急いでいる様子。これからどこかに出掛けるというのだろうか。

 そんな亮太の疑問が顔に出たのだろうか、ふわりと彼女は表情を崩す。誰かに甘えるときのような、少し子供っぽい雰囲気だった。

「宮代さんって一階の、保阪税理士事務所にいらっしゃるんでしたっけ。だったら、ご存知かもしれませんね」

「……ん?」

「では、今度こそ失礼します」

 首を傾げる亮太に構わず、香澄は気持ち早めの足取りで歩き出す。黒いワンピースの裾がはためいた時、亮太の鼻腔にまた、よく知るあの匂いが届いた。

 そういえば、事務所の二階――八神弁護士事務所にいる彼は、この時間ってまだ仕事してるんだっけ……?

 遠ざかる背中のシルエットとハイヒールの音に、亮太は何故かそんなことを思い出した。

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