漆黒の新任教師
四月某日。富広市の中心部に建つ、富広中学校にて。
教師も生徒も多く密集する大アリーナに並んでいる椅子の一つに、
それぞれの友人たちと好き勝手喋っているクラスメイト達の声を何となしに聞きながら、前方のステージで大人たちが慌ただしく準備を行っているのを、彼女は身じろぎもせずじっと見ていた。
帆波はこの富広中学校の生徒で、今日から二年生になる。きっちりとした見た目に違わず、クラスでも学級委員を務める彼女は、典型的な『優等生』の肩書きを欲しいままにしていた。
しかし、そんな彼女が内に秘めている本音は、誰も知らない。
『えー、静かに』
帆波がすっかり感情の失った瞳を向けると、ステージの台に設置されたマイクスタンドに向けて喋りかける男性の姿があった。生活指導担当の教師・佐川
その名の通り、彼は帆波の父親にあたる。少々厳しいものの教師としては優れている――という言い方も少しおかしいような気がするが――佐川が、ゆくゆくは教頭の座につくだろうと周りで噂されていることを、帆波もよく知っていた。
まぁだからといって、どうということもないのだが。
帆波は一言も発さぬまま、徐々に引いていく喧騒と、これからの日程について説明を始める父親の言葉をなんとなしに聞いた。
簡単な説明の後、そのままステージを降りた佐川が、端に立つマイクスタンドの前に立つ。彼の進行で、始業式と新任式が始まった。
ふと、ステージに上る階段の傍らに並んでいる大人たちを見る。この学校のベテラン教師である佐川以外は初めてお目にかかる顔で、ほとんどが若く初々しい。おそらく、今年度から着任する教師たちなのだろう。
どうでもいいと目を逸らそうとした帆波は、ある一点でその視線を止めた。新任教師のうちの一人が、妙に気にかかったのだ。
まるで法事か何かの時に着るような、漆黒のスーツ。光を一切通さない素材――生地はおそらく厚手のものだろう。
反して肩の辺りで切り揃えられた髪の色は明るく、色白の肌に目鼻立ちのくっきりした顔立ち、そして艶めく真紅のルージュ――とかくどの部分を切り取っても、非常に目立つ女だった。
胸元に飾られた赤い花は、心臓を打ち抜かれ散りばめられた血の色のよう。他の教師にもそれは等しく胸元に咲いているのに、どうしてあの女が身に付けると、妖しくグロテスクに見えるのだろう。
気づけば帆波は、その女教師から目を離せなくなっていた。
『――では、新任の先生方にご挨拶いただきましょう』
父親の声に、女は歩き出す。こつ、こつ、とアリーナの床を鳴らす黒いハイヒールの音が、帆波のいるところからはかなり離れた位置なのに、どうしてかはっきりと聞こえた。
新任の教師たちが、一人ずつハンドマイクを手に挨拶を済ませる。そんなものを、帆波はもはや聞いていなかった。
女が、ハンドマイクを手にする。白い肌に薄紅色のマニキュアが映え、まるで桜の花びらを携え泳ぐ白魚のよう。
包み込んだハンドマイクが口元へ近づくと、艶やかに光る唇が、綻ぶように開いた。
『このたび新採用となりました、新藤香澄です。理科を担当します』
マイクを通した声が、蔦となって帆波の耳へ絡みつく。紡いだ言葉の意味はほとんど理解できなかったけれど、その名だけは耳を通して脳へと刻み込まれた。
――シンドウ、カスミ。
どうしてあんなにも一人の女性のことが気になるのか、この時はまだ分からないまま。
帆波はしばしぼんやりと、夢見心地にその教師を目で追っていた。
◆◆◆
「帆波ちゃん、お帰りなさい」
昼頃に帆波が帰宅すると、いつものようにゆったりとソファに寝そべった母親の
「今、お昼ご飯を準備するからね」
ソファから起き上がった律子はダイニングキッチンへ向かい、椅子の一つに掛けられたエプロンを手に取った。「何がいい?」と聞かれたので、冷蔵庫の中身を考え、とりあえずナポリタンを所望しておくことにする。
どこへ腰を落ち着けることもなく、ぼうっと亡霊よろしく立ち尽くしたまま待っていると、苦笑を浮かべた律子がダイニングテーブルに手軽のナポリタンが乗った皿を持ってきた。
「どうしたの、帆波ちゃん。早くお座りなさいよ」
お食事が冷めてしまうわよ、と言われ、ようやく帆波はゆっくりと動き出す。帆波専用の、柄の部分に王冠があしらわれた銀色のフォークを手にし、オレンジ色の太いパスタをくるくると巻き付けた。
一口食べれば、安っぽく単調なケチャップの味が口内に広がる。
「今日はどうだった?」
律子の問いに、真っ先に思い出したのはあの女教師のこと。祝いの式典には不釣り合いな漆黒のスーツに、艶めく唇。そして胸に咲いた血のごとき真っ赤な花。
……しかし、そんな頭のおかしな(と、両親ならば口を揃えて言うだろう)ことは口に出来るはずもなく。
「新しい先生が来たわ」
端的に答えれば、「分かりやすい授業をしてくださるといいわね」と予想通りの模範解答的な返事が来た。つまらないので、聞いている振りをして適当に流す。
「あ、そうそう帆波ちゃん。ママ、一時になったら集会へ行くからね」
思い出したように掛けられた母の言葉に、口をもぐもぐと動かしながら小さくうなずいた。もはや、どうとも思ってはいない。
母の言う『集会』とは、週に一度近所の古びた公会堂で行われる宗教の集まりのことだ。決して大きなものではないが、細々と続いているらしい。
何教だったかは――……覚えていない。少なくとも、仏教やキリスト教などといった世界的に有名なものでないことだけは確かだ。
「あ、何なら帆波ちゃんも一緒に……」
「遠慮しておくわ。お勉強があるから」
淡々と答えると、律子は満面の笑みを浮かべた。
「そう、そうね。帆波ちゃんは、お利口さんだものね」
学生はお勉強が第一だものね。
うきうきと嬉しそうにうなずく母親の姿に、帆波はただ単純に『おめでたい人だ』と思う。
勉強のためだとか、将来のためだとか。適当な言い訳で、この人にはすべて簡単に説明がついてしまう。
我が子がこのままどこにも逸れることなく、まっとうな道へまっすぐに向かうものだと、信じて疑っちゃいないのだ、この人は。
そして、それらを矜持として生きている。
「今日はお父さん、歓迎会の幹事をするから遅くなると言っていたわ。新任式だったものね。先生も大変だわ」
既に昼食を済ませたのか、それとも外出先で食べてくるつもりなのかは知らないが、早速出掛ける準備を始めながら律子はのんびりと言う。
どうだか、と帆波は心の中でだけ嘲笑した。
――あの人は、うそつきだ。
この気持ち悪いくらい純真無垢な母親のことは騙せても、聡い自分には全てお見通し。
息をするように平気で嘘を吐く、ベテラン教師としての立場と周りの信頼に守られた父親のことを、帆波は快く思っていない。
あの男のことさえ『有能で優しく素晴らしい夫』であると純真に信じきっている母親の前では、もちろんそんなこと、おくびにも出さないけれど。
「あら、もうこんな時間」
壁に掛けられた時計を見て、律子は慌てて玄関へ急ぐ。棚に置かれた聖書もどきの分厚い本を手に取り、律子は靴を履きながらこちらを向いた。
「じゃあママ、行ってくるからね。いい子でお留守番よ」
帆波ちゃんはいい子だから、大丈夫だと思うけど。
反吐が出るような綺麗ごとを捨て置き、律子は出ていく。ぱたぱたと遠ざかる醜い足音を聞きながら、帆波は今日目にした美しい新任教師のことを思い出していた。
「どうして」
うつむいた彼女の口から出たのは、母親が聴いたら卒倒しそうなほど、禍々しく低い声。
「どうして、あんなにも――……」
帆波の呟きは誰にも届かぬまま、一人きりの広い家の中で、相応の悪意を残したままひっそりと消えた。
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