宮代亮太の休日

 簡素な、しかしそれなりにやかましい音に、亮太の意識はゆっくりと浮上する。重い瞼をこじ開け、枕元にあった目覚まし代わりの携帯電話を手に取ると、午前十一時前を示していた。

「うぅ……頭痛い」

 ガンガンと中から痛む頭を抱え、亮太は布団ごと身体を丸めた。

 結局昨夜は副島たちと四人で、朝方まで飲んでいた。案の定さんざん酔っ払った挙句八神と仁科に二人がかりで介抱されていた副島ほどではないものの、亮太も久しぶりにそれなりの量を呑んだため、酒焼けで喉がガラガラと不穏な音を紡ぐ。

 結局三人は、無事に家へ帰れたのだろうか。

 仁科は亮太と同じアパートに住んでいるのだが、昨夜亮太がアパートに辿り着いた時に、姿を見ることはなかった。八神と二人がかりで副島を送っていったと考えると、まっすぐ帰った自分より先に着くということはおそらくないだろうから、帰ってきたのならもう少し後のことだろう。

 連休で良かったなと思いながら、もう少し寝ていようと布団をかぶり直したところで、もう一度携帯電話が鳴った。響く頭を押さえ、唸りながら着信相手を見る。

 見覚えのある名前に小さく嘆息し、亮太は通話ボタンを押した。

『もしもし、亮ちゃん?』

 甘さのこもった高い声に、軽く顔をしかめる。努めて優しい声を出すために、軽く咳ばらいをした。

「おはよ、瑠璃るり

 電話の相手は、亮太の恋人である女性――二階堂にかいどう瑠璃だった。銀行員である彼女は亮太より三つ年上だが、年上らしさを微塵も感じさせず、どちらかというと亮太にとっては妹のような可愛らしい存在だ。

 相変わらずふわふわとした高い声で、甘えるように瑠璃は『亮ちゃん』ともう一度彼を呼んだ。

『ねぇ、お昼まだでしょ?』

「うん……っていうか、寝てた」

『だと思った』

 かと思えば、時折こんな風に色気のある大人の女性のような対応をする。つくづく、不思議な女だと思う。

『これから出てこれない? せっかく休みなんだし、会おうよ』

「……ん」

『ふふっ。じゃあ、十二時半に若槻わかつき駅ね』

「わかった」

 それじゃあ、と電話は切れた。ツー、ツー、と鳴る音に、亮太はもう一度嘆息する。重い身体を起き上がらせ、とりあえず顔でも洗おうと洗面所へ足を向かわせる。

 約束の時間までは、まだ一時間半ある。

 こちらは三十分前でも準備ができるからいいのだが、何せ女の身支度は長い。せっかくだからゆっくりさせてもらうことにした。

 だからといって、二度寝する時間までもはないし、そんなことをしたら瑠璃が不機嫌になるのは目に見えている。機嫌を損ねた女ほど、面倒くさい生き物はいない。

 こういった男と女の時間も後々のために大切なのだ、と自分に言い聞かせ、洗面所へ着いた亮太は、鈍く光る銀色の蛇口をひねった。


 顔を洗い、念入りに歯を磨き、日課を済ませ、適当な――しかしそれなりのいでたちに見える服に着替える。昨夜飲みすぎたせいで多少酒臭いだろうが、できる限り瑠璃に悟られないよう、体臭をお気に入りのコロンで誤魔化した。

 亮太の住むハイム・サンセリテから最寄である若槻駅までは、歩いて十分から十五分ほどかかる。一応待ち合わせ時間の五分前に着くことを仮定しつつ、亮太は余裕を持って部屋を出た。

 人通りが多く交通機関も発達しているこの街では、免許を持つ必要性もさほどない。だから、免許を持っているにもかかわらず亮太の移動手段はいつも徒歩か電車だ。いわゆる、ペーパードライバーというやつである。

 携帯電話で時間を確認しつつ、スニーカーの底を床に打ち付け、鈍い音を立てて廊下を歩く。まだ、急ぐほどの時間ではない……はずだ。

 丁度良くやって来たエレベーターに乗り込むと、先客がいた。いつかと同じ、黒いワンピースの女――新藤香澄が、こちらに気付いて淡く微笑む。

「先日はどうも」

「あ、こちらこそ……」

 お世話になりました、と何故か緊張気味に亮太は告げる。真っ赤なルージュを乗せた唇が、蠱惑的にゆるりと弧を描いた。

 それ以上、香澄は何も口にしなかった。一方の亮太も、一生懸命話題を探そうとはするものの、結局何も口をついて出てこない。沈黙が、狭い箱の中を支配する。

「あの……」

 何か、明確なことを言おうとしたわけではない。けれど、気付いたら口を開いていた。亮太より少し離れた位置に、うつむきがちに立っていた彼女は、ゆるゆると顔を上げる。

 彼女が何か言おうと口を開いたところで、チン、と簡素な音が鳴った。エレベーターが、一階に着いたのだ。

「では」

 一瞬だけ眉を下げた香澄は、立ち尽くす亮太を置いて先にエレベーターを出た。黒百合の花弁を思わせる、膝丈まで伸びる薄手のワンピースが、彼女の動きに合わせてひらりと揺れる。

 その時、ふわりと鼻を掠めたのは――初めて彼女に会った時に、そして昨日富広町に向かう最中に嗅いだ、腐臭のようなそれではなかった。けれど似た性質のそれを、亮太はよく知っている。

 睦み合った後の瑠璃が、そのくっきりしたラインの裸体に必ずと言っていいほど纏っている。男の劣情を少なからず刺激する、濃厚な蜜の香り。

 行為に及んだ者、独特の香り……有り体に言えば、雌の匂いだ。

「っ……」

 自らの身体に変化を感じて、亮太は軽くうずくまった。予定を変更しようと、ぼうっとする頭で考える。

 若槻駅に着いたら、食事の前に、まず。

 瑠璃なら了承するだろうと、根拠のない自信を胸に秘め、亮太は小さく溜息を吐き立ち上がった。あまりぐずぐずしていては、それこそ本当に時間に遅れてしまう。

 湧き上がる素直な劣情を宥め、足早にエレベーターを出た。


    ◆◆◆


 そして翌日、日曜日。

「んで……金曜は仕事明け祝いにしこたま飲み、土曜は思う存分瑠璃ちゃんとセックスして、日曜は腐れ縁であるこの俺と嗜み程度に呑むってか」

 まったく、いい御身分だねぇ。

 すっかり常連となった居酒屋の、カウンター席に座る亮太の隣で呆れたように呟く男の名は、忍海おしみ玲弥れいや。先ほど彼が口にした言葉通り、亮太とは腐れ縁――というか、幼馴染だ。

 この日亮太は、忍海と飲みに来ていた。ちょうど忍海の方も仕事が一段落ついたらしく、久しぶりに頑張った互いをねぎらい合うという名目のサシ飲みをすることにしたのだ。ただし明日からまた仕事なので、数杯程度でやめておくつもりだが。

 亮太は忍海に、近況報告としてここ最近起きたことを話していた。冒頭の台詞は、ひと通り彼の話を聞いた忍海の感想である。

 ただ、例の喪服を着た女に初めて会った日のことや、その独特な匂いに胸がざわめいたこと、挙句欲情してしまったことなどは、何となく後ろめたくて話せないままだった。

「そういうお前はどうなんだよ」

 話の矛先を変えるように、半ば無理やり問いかける。忍海はグラスを傾けると少量の酒を喉に流し、くあぁ、と豪快にあくびをした。

「相変わらず土日もクソもなければ、彼女作ってる暇さえないの、こっちは」

 そう語る彼の目もとには、確かにうっすらと隈ができている。

「雑誌記者って結構ハードなのよ」

「実質は高々ゴシップ記者のくせに、よく言うよ」

「分かっちゃねぇなぁ」

 亮太の皮肉など気にもかけず、ニヤリと忍海は笑った。

「他人の不幸は蜜の味、って。お前も知らないわけはなかろ?」

「……うーん」

 曖昧に笑って誤魔化す。確かに、どこかで報道される遠い他人のスキャンダルや汚職事件は、面白いことこの上ないが……。

「意外と、そういう泥臭いことは身近に隠れてるかもよ」

「そういうものかね」

「そうだよ。みんな、悪意を隠して生きてるだけ」

 グラスを持つ亮太の手が、一瞬止まる。

 思わず忍海の方を見れば、彼は笑っていた。意地悪く唇を吊り上げて、けれど瞳は凪のような静けさを保ったまま細まっている。ちぐはぐな表情に、ぞくりとした。

 自分の中の何もかも――その心の奥にしまい込んでいた負の感情さえも、全て見透かされているようで、怖くなる。

 亮太がじっと見つめていると、忍海は耐えきれなくなったようにフッ、と小さく吹き出した。静かな色を湛えた瞳に、いつもの色が戻ってくる。

「まぁ、せいぜい気を付けるこったな」

 俺みたいな職種の奴に勘付かれちゃ、やっかいだもんなぁ。

 あっけらかんと、忍海は笑う。「そうだなぁ」と生返事をし、亮太はグラスに注がれた酒を一気にあおった。

 ――みんな、悪意を隠して生きてるだけ。

 忍海の放った言葉が、しゅるしゅると音を立て、亮太の心に絡みついていく。

「……そう。隠し通せていればいいんだ」

 一気に曝け出せるチャンスが来る、その日まで。

「誰にもバレずに、温めていれば」

 隣の忍海に聞こえぬよう、グラス越しに、自分に言い聞かせるがごとく口の中で呟いた。

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