宮代亮太の平日

 税理士事務所というところは、一般的に確定申告の時期である三月が忙しさのピークだといわれている。顧客である企業から資料を受け取り、経理事務として働く職員に手伝ってもらいながら、一社ずつ決算書を仕上げて税務署に提出し、代表取締役である人間に報告をする。これが、確定申告時の税理士の仕事だ。

 保阪ほさか税理士事務所で働く税理士は、一人につき三十社ほどの顧客を担当している。とはいってもそのほとんどが小規模で非上場の企業ばかりなので、一社の決算書をまとめるのにそれほど時間は要しない。

 ただ、それはあくまできちんと整理された資料が届いていれば、の話だ。全部が全部そうしてくれていれば助かるのだが、なかなかそうはいかないのが現状で……。

 確定申告は三月十五日までに済ませなければならないと決まっているのだが、その期限の前日になってようやく資料を出してくれるようなズボラな社長も少なくない。

 しかもそういった企業が提出してくれた資料というものは、大抵がいくつかの大きな段ボールにでたらめに詰められており、全くもって整理などできていない。いつのものだか分からないような、皺くちゃのレシート類が出てくることもある。

 そういった企業の決算書を作成するには、まずそれらを日付ごとに整理するところから始まる。これがまた、骨の折れる作業なのだ。

 こんなことがあるからこそ、確定申告の締め切り――三月十五日が近くなると、税理士たちは忙しく立ち回ることになる。

 それはもちろん、保阪税理士事務所に勤める人間たちも例外ではなく……三月十五日を過ぎるまで、税理士を初めとした事務所の職員たちは、連日朝から晩までひたすら働いていた。


 そして、来たる三月十五日。

 無事担当する顧客たちの確定申告とその報告を全て終わらせた職員たちは、ぐったりと自分の席にしなだれかかったままピクリとも動かない。けれどもその表情は、まるで憑き物が取れたかのようにすっきりとしていた。

 そのうちの一人である亮太は、今年で入社三年目。現在は、税理士補助という役職を担っている。

 地元の商業高校を卒業後、税理士や公認会計士を多く輩出することで有名なこの街の商業大学で会計を学んだ。就職活動中にこの事務所の代表税理士である保阪みつると出会った彼は、その知識と熱意を見込まれ、大学を卒業してすぐ就職した。

 税理士試験には十一の科目があり、そのうち必須科目を二つ、選択必修科目を一つ、そして選択科目のうちどれか二つ――合計五科目を受験し、合格しなければならない。もちろん学位取得によって免除できる科目もあるが、その場合は大学院への進学など、様々な条件が必要になるので、それほど容易な選択ではない。

 亮太は学校を卒業するまでに必須科目を二つ取っており、現在は働きながら、少しずつ資格取得のための勉強を続けている。この事務所では隔週決まった日に税法のセミナーが開かれたり、試験日には特別休暇を取れるなど、特別仕事が忙しくない限りは基本的に待遇がいいので、亮太たち税理士受験生にとっては非常にありがたい。

 ……だが毎年この時期だけは、そういったことなどお構いなしに駆り出されるため、慣れてはいても正直辛い。

 疲れ切った身体を椅子に預け、目線を虚空に漂わせたままぼぅっとしていた亮太は、デスクに置かれていた電話がけたたましくなる音で我に返った。億劫に思いつつも、重い身体をどうにか動かし姿勢を正すと、ゆっくりとした動作で電話を取る。

「お電話ありがとうございます。保阪税理士事務所、宮代でございます」

 就職してからの数年ですっかり板についた、余所行きの口調。何度も繰り返してきた文句を告げれば、電話の相手はからからと快活に笑った。

『何だ宮代、疲れてるじゃないか』

「そりゃあ疲れますよ。確定申告が、やっと終わったばかりなんですから」

 少し力の抜けた口調で、相手に言葉を返す。自分のよく知る人物だと分かっているからこそ、できる所業だ。

『そりゃあご苦労さん』

「どうも。ところで、本日はどういった御用件でしょう――副島そえじまさん」

 電話の相手こと副島卓也たくやは、『あぁ、そうそう』とすっかり気を許したような口調で言った。

『久しぶりに、飲みに誘おうかと思ってなぁ』

「あぁ、いいですね」

 椅子の背凭れに背を預け、亮太はちらりと腕時計を見る。時刻は、そろそろ夜九時を指すところだった。

 毎年一度の大仕事も終わったことだし、亮太としては早いところ帰途につきたかったのだが、彼はこの事務所が担当する顧客の中でもひときわ大規模な企業である、副島商事の社長だ。無下にすることなどできるはずがない。

 副島商事を担当する税理士の付き添いで副島に会って以来、副島は何故か亮太のことをえらく気に入ったようだった。こうしてしばしば会社に電話がかかってきては、亮太を飲みに誘うのだ。

『今日は久しぶりに、八神やがみの奴も一緒だ』

「そうなんですか」

 副島の言う八神とは、この事務所の二階で開業している弁護士・八神しゅんのことだ。依頼者にいつも親身であり、どんな依頼にも真摯に向き合ってくれると評判で、彼自身もおっとりとした穏やかな性格をしており、周りから好かれている。

『まぁ、でも宮代は奴によく会ってるだろうから、久しぶりでもないか』

「そんなことないですよ。確かに同じビルの一階と二階で近いですけど、最近は向こうも忙しいみたいで」

『あいつもそんなこと言ってたな』

 弁護士も大変だなぁ、とまるで他人事のように――実際そうなのだから、責めたところで仕方ないのだが――告げる副島。八神はそんな彼の顧問弁護士で、かなり長い付き合いなのだという。

『とにかく、確定申告も終わったことだし、今日は四人でパーッと飲もう』

「四人? ということは、仁科にしなさんも御一緒なんですね」

『もちろんだ』

 副島の秘書である仁科るいは、彼が会社内で一番のお気に入りだという部下で、彼がどこで何をするにも常に傍に置いている。社長にどこまでも忠実であり、時には彼のためを思って臆せず意見してくれることもある。仁科の言うことにまず間違いはない、とは副島の弁だ。

「仁科さんにお逢いするのも久しぶりですね」

『そうだろう。久しぶりに盛り上がろう』

「いいですね。明日はちょうど、土曜日ですし」

『思う存分、潰れたって平気だ』

「ほどほどにしてくださいよ。またいつもみたいに、僕や他のお連れさんに介抱させる気ですか」

『ハハッ、冗談だって』

 今日はちゃんと、自分で帰れるように調整するからさ。

 何度同じ文句を聞いたかは分からないが、こっちだって慣れている。それに今日は八神も一緒だし、その分負担は減るだろう。

『じゃあ、九時半にいつものとこな』

富広とみひろ町の居酒屋ですね。わかりました」

『じゃ、また後でな』

「はい、失礼します」

 電話を切ると、疲労困憊の身体に鞭打って立ち上がる。見ると、他の職員たちもそれぞれ、少しずつのったりと動き始めているところだった。

 手早く荷物をまとめ、立ち上がる。腕時計を見ると、そろそろ九時十五分を指すところだった。

 ここから指定の居酒屋までは、歩いて十分もかからない。いつも電車で通勤している彼は、飲酒運転などという言葉とは無縁だった。

「じゃあ、お先に失礼します」

「おー、お疲れ宮代」

 何やらまだパソコンに向かっている保阪が、顔を上げて笑う。そこに疲れはほとんど見えず、さすが何度もこの修羅場を乗り越えているだけあるなぁと亮太はつい感動を覚えてしまう。

「お疲れ。また例の呼び出しか?」

 だが、次に口を開いた先輩職員に図星を突かれ、亮太はさすがに引きつった苦笑を浮かべた。『例の』と言葉を濁してはいるが、それがどのことを指すかなど一目瞭然だ。

「まぁ、そんなとこです」

「大事な顧問先だからなぁ。抜かりなくやれよ」

「お前なら、社長に気に入られてるから大丈夫だと思うけど」

「そうですね、ありがとうございます」

 話を聞いていたらしい職員たちに励ましの言葉……のようなものを貰ったあと、では失礼します、ともう一度告げ、亮太は事務所を出た。

「さて、少し急ぐか」

 あまり待つことが好きではない副島のことだ、万が一遅れてしまえば間違いなく機嫌を損ねるだろう。せっかく電話口では上機嫌そうだったのだ、ここで気分を害するわけにはいかない。

 時計を逐一確認しながら、亮太は富広町へ急いだ。

 途中で黒い何かが視界の端にちらつき、同時に覚えのあるあの匂いが、ふわりと鼻を掠めたような気がした。

 しかしその時の彼には、それを深く気にする余裕などなく……不自然な胸のざわめきが、かすかに残るだけだった。

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