0.平穏

ざわめく花の匂い

「よろしければ、この傘をお使いください」

 仕事帰りに遭遇した急な雨に、駅前で立ち往生していた青年――宮代みやしろ亮太りょうたに、たまたま鉢合わせたその女性は自らの差していた傘をそっと差しだし、柔らかく微笑んだ。

 黒っぽい服を着ているせいか、晒された白い肌と長い睫毛、肩まで切り揃えられた色素の薄い髪、そしてゆるりと弧を描いた鮮烈な紅い唇が、薄暗い闇からぼうっと浮かび上がって来るかのように見えた。言葉を失うほどの美しい光景に、しばし見惚れる。

「あ、いえ……その、お気遣いなく」

 ほとんど何の前触れもなく起こったその出来事に、当然ながら亮太は困惑した。ばちっ、と大きな雨粒が当たったような音がしたかと思うと、それは水滴となり、傾けられた黒い傘の上をするりと滑り落ちていく。

 無意識に握りこまれていた手に、白く繊細な彼女のそれが触れる。雨で気温が下がっていたせいか、冷たくなっていた部分に、彼女のものと思しき熱がじんわりと伝わってきた。

 甘い花の香り――おそらく、香水か何かだろう――に混じって、ふわり、と独特の匂いがわずかに鼻をくすぐる。決していいとは言えず、むしろ腐臭にも近いその匂いは、何故か亮太の気持ちを奇妙にざわつかせた。

「遠慮、なさらないで……」

 囁くようなねっとりした声とともに、導かれるがままゆっくりと手を引かれ、傘の柄を握らされる。戸惑いがちに、亮太は言葉を掛けた。

「いや、でも……これでは、あなたが濡れてしまう」

「簡単なことです。わたしと、そこまで相合傘をしていけばいいんですわ」

 ね? と首を傾げながらそう言いきられてしまえば、元も子もない。

 コツリ、と黒いハイヒールが、雨に濡れたアスファルトを鳴らす。彼女が一歩、こちらに近づいたのだ。

 ふわり、とまたあの匂いがした。

 改めて、至近距離で目を合わせる。濡れた漆黒の瞳は、無垢に光っているようで……同時にどこか、底のない暗さと切なさを帯びているようにも見えた。

 ふと、彼女が亮太の顔を見て、今にも泣き出しそうな子供っぽい顔になった。震わせた紅い唇が、何かを紡ぎかける。

 『お』……?

 葛藤するようなその表情は見ていられないほどに辛そうで、亮太の胸は引き絞られるように痛んだ。

「……どう、」

 どうしたんですか、と言い切る前に、彼女はもうその表情を消してしまっていた。まるで何もなかったとでも言うように、ショートカットを揺らし、瞬く間に柔らかな微笑みを作る。

「いつまでもこんなところにいないで、そろそろ行きましょうか。これ以上雨がひどくならないうちに」

「そう、ですね」

 これ以上の詮索は不要、と判断した亮太は、曖昧に微笑みを返した。

「お宅は、どのあたりですか。近くまでお送りしますよ」

「いえ、そこまでは……」

 言いかけて、亮太は不意に先ほどの言葉を思い出した。甘さを秘めた、耳にこびりついて離れないような、あの声。

『遠慮、なさらないで……』

 囚われたように、気付けば口を開いていた。

「朝ヶ原二丁目の、コンビニの近く……ハイム・サンセリテというアパートです」

「まぁ。それでしたら、わたしもご一緒していいですか。そのアパートに知り合いが住んでいるので、ちょうど訪ねようと思っていたところなんです」

 どうして、初対面の人間にそこまで言う必要があったのだろう。

 そう思った時には既に遅く、詳細までも聞いた彼女は把握した、とばかりにうなずいてみせた。そしてそのまま、再び光沢の帯びた黒いハイヒールを鳴らしながら、雨の中を一歩、踏みだす。亮太も慌てて、あとを追った。

 差された黒い傘に入ると、景色がさらに薄暗く映る。濡れたアスファルトの道を、亮太と彼女はゆっくりとした足取りで歩いていった。どちらも口を開きはしない。奇妙な沈黙が、傘の中という狭い空間に漂った。

 足元で薄いスカートがひらり、と揺れる。所在のなかった目が、何気なくその動きを追い……そこでようやく亮太は、先ほどから感じていた違和の正体に気が付いた。

 何の前触れもなくいきなり現れた美女。黒い小さなポシェットを肩に掛けた、その身に纏っているのは、喪服のような黒いツーピース。

「……あの」

「何か?」

 無邪気に首を傾げる彼女に、倒錯的な雰囲気を感じつつも、亮太は心に生まれた疑問をそのまま口にした。

「失礼ですが……今日は、お葬式か何かだったのでしょうか」

「いいえ?」

 にっこりと、彼女は笑う。屈託なく、子供のような顔で。

 嘘を言っているとはとても思えず、無礼なことを言ったと詫びを入れようとしたところで、彼女は気付いたようにあぁ、と声を上げた。

「この服を見て、そう思われたのかしら」

「……えぇ、まぁ」

 誤魔化すのも躊躇われ、素直に頷く。

 彼女は特に気に障ったような様子もなく、サラッと答えた。

「これは確かに、喪服です」

「え?」

 その答えに、亮太は目をぱちくりとさせた。失礼だとは分かっていても、問わずにはいられない。

「では何故、そのような」

 彼女は、その問いにすぐには答えなかった。しばらく亮太の顔をじっと見つめ、くしゃりと顔を歪ませる。

 途方に暮れた迷子の子供のような、頼りない表情に、やはり触れてはいけないことだったのだと亮太は悟った。

「……あの、」

 すみませんでした、と亮太が謝る前に、彼女は唐突に立ち止まった。彼女が図ったのか、たまたまそうだったのかは知らないが、そこはちょうど目的地であるアパート――ハイム・サンセリテの前だった。

 それから彼女は何も言わず、すっと顔を近づけてきた。強さを増す、独特なあの匂い。彼女の、匂い。

 突然の至近距離に亮太がどきりと胸を高鳴らせる間もなく、内緒話をするように小さく、哀しみを帯びた響きの声で囁く。

「何故、人が喪服を着るのか……御存知かしら?」

「えっ」

 明確な答えを得ることを、彼女は求めていないようだった。亮太の返事を待たず、あっさりと続きを口にする。

「故人へ、祈りを――心の全てを、捧げるためですわ」

 そう語った彼女には、大切な人がいるのだろうか。

 時が経っても忘れられない、かつて失った大切な人のために、今でも自らの心を……自らの全てを、捧げ続けているのだろうか。

 言葉少なに語った彼女は、とん、と亮太の肩を押した。身体を離し、もとあった距離へと戻る。湿った風が、一つの傘を分け合う二人の間をぬるりと行き過ぎた。

 目的地に着いていたことに気付いた亮太が、先に口を開く。

「あの、もうここで結構ですので」

「……えぇ」

「ありがとうございました」

 ごめんなさい、と付け加えるのは、何故か躊躇われた。彼女は答えるように、健気な笑みを浮かべる。どこか弱々しいのは、どうしてだろう。

「では……」

 踵を返そうとして、彼女は一瞬ぴたり、と動きを止めた。もう一度振り返ると、覇気のない笑みを浮かべながらこてん、と首を傾げる。

「そういえば、お名前を伺っていませんでしたわね」

 せっかくお近づきになれたのですし、もしかしたらまた会えるかもしれませんから、是非とも尋ねておきたいわ。

 表情とは裏腹な、積極的な言葉に戸惑いつつも、亮太は答える。

「み、宮代亮太です」

 亮太が名乗ると、彼女は分かったというようにこくり、と一つうなずいた。

「わたしは香澄かすみです。新藤しんどう、香澄」

 ではまた、お会いできる日まで。

 傘を閉じた彼女は一人、エレベーターへ向かう。亮太も向かう先は同じだったのだが、彼女の背中が同行することを許さないと語りかけているように思えて、足が竦んだ。

 形容しがたい彼女の残り香が、亮太の中を少しずつ満たしていく。

 小雨の降る中、亮太は彼女――新藤香澄の黒く華奢な後姿が見えなくなるまで、その背中を眺め続けた。

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