2 ソナチネに溺れて
虫のような眼が、薄暗い廊下を見ていた。その世界は、周囲の男達のそれよりも十四、五センチばかりほど低い。
周囲と当人の間で悩んでいることにズレがあるのは、そう珍しくも無い。ちょっとしたからかいやイジりというやつが時として繊細な少年の心を深く抉ることはままある。克洋も、そうした悪意の無い言葉を勝手に解釈して、勝手に傷つくことに慣れていた。
克洋はポップコーンを抱きかかえるように持つ手で、そっと顎を撫でる。剥くのに失敗した、ゆで卵のような感触だった。俳優のようなセクシーな髭には程遠い。廊下に飾られた安っぽい鏡が、彼の横顔を映す。
柔らかな髪質に日に焼けて薄く赤みが差した肌。すっきりと通った目鼻立ち。長く、カールした睫毛。精一杯それを誤魔化そうと、校則ギリギリの濃さのスモークが入った、サングラスをしている。
克洋という名前とは程遠い姿だ。よく言えば優しそうな、克洋の最も嫌う言い方をするならば、女性のような顔立ちをしていた。喉仏だってあるはずなのに、声も高い。
ただそれだけだった。けれど。
思春期の男にとっては受け入れがたい、残酷な事実だった。
サングラスを外してタバコ臭い座席に座る。十数年前から流しているのだろう、やる気のないCM。内容はロクに宣伝せず、何の権威があるのかも分からない多数の賞に出品したことを誇らしげに誇示する、退屈な映画の宣伝。
もう少しまともな宣伝方法があるだろうと一丁前に考えながら、克洋はラージサイズのポップコーンをひとつつまむ。手が油でべたついた。ご丁寧に、バターまでたっぷりとかけているようだった。
やがて映像が途切れ、世界が暗くなる。克洋はシートに深く沈み込み、これから始まる映像に沈み込むことにした。
読書であれ音楽であれ、映画であれ、娯楽作品に沈むことが少年は好きだった。全てを忘れることが出来るからだ。伸びない身長の事も、男らしさとは程遠い体格の事も。気分が沈むことがあると押井克洋は映画館へ行く。そうひとりごちた。二時間ばかり、現実から逃げるのだ。
映画自体は、淡泊に進む。けれども、克洋を夢中にさせた。静かな海沿いの光景。そこで不意に挟まれる、生々しい暴力。ヤクザであるはずの彼らが沖縄の海で無邪気にはしゃぐ。
しかし、その裏では別の組織に雇われたヒットマンが彼らの目の前に現れてはヤクザの部下たちが次々と消されていく。ほとんどの仲間を失った組長は、マシンガンを片手に決戦へと往く。
よくあるプロットだ。克洋もその手の映画は何本も見て来た。けれども、今日は違った。
まるでクラッカーのような軽い銃声で人が死ぬ。真っ赤な血の赤。そして海と空の青が残酷なまでに美しい。
その残酷さに、あまりの美しさに、克洋は静かに涙を流した。どうしてか、涙が止まらない。死や暴力はそれら以外の全てを壊して成立するひとつの秩序なのだと古い映画監督は言った。ぼくは、その成立を見ているのかもしれないと克洋は思う。
全てをぶち壊して、それでいてなお、成立するひとつの美しさ。そういうものがあるのかもしれない、と。
「失礼、隣。いいかな?」
ふと声が聞こえて、克洋は慌てて涙を拭った。横を見ると、彼は現実に引き戻された。
少女が、隣に座っていた。
同じ学校の制服を身に纏う少女だった。視線は大体同じ位置にあったが、それは彼女も自分も座っているからだと克洋は気が付いた。視線を下げれば、すらりと伸びた脚が組まれていた。
多分、一六〇の前半だろう。克洋は勘ぐる。自分よりも背の高い少女も、この世界にいるという、ごく当たり前の事実に克洋は悲しくなった。
けれども、そんなこともどうでもよいと思えるほど、彼女に目を奪われた。
薄い桃色をした形の良い唇に浮かぶのはどこか柔和な笑み。肩甲骨ほどまでに伸びた艶のある黒髪。暗い館内と映像の明るさが、顔に影を与える。強すぎる陰影の美しさが、彼女のミステリアスな雰囲気を強く印象付ける。克洋は頷くしかなかった。
「いいも何も、もう座っていますし……」
それもそうね。少女は軽く答えてからくすりと笑った。その佇まいはどこか超然としていた。現実離れと言ってもいいだろう。神話に出でくる女神に学校の制服を着せたらこんな感じになるんだろうと克洋は思いかけて、軽く首を振った。それは流石に言い過ぎだろうと自分に言い聞かせる。
少女は画面に映る暗い海と、克洋の抱えるバスケットを交互に眺めた。
「この映画、少し古いけれどいい趣味ね……あまり減っていないようだけれど?」
「ええ。ちょっと食べきれなくて……よければどうですか?」
「いただこうかしら」
少女は彼と同じようにシートに沈み込んで、差し出されたポップコーンをつまむ。結構なペースだ。儚げな外見に反して、遠慮も何もないらしい。
克洋は少女に視線を向けた。膨らんだブレザーの頂点に、青いアネモネをかたどったブローチが飾られていた。それが彼女の美しさを際立たせる。
二人は静かに映画を観続けた。ラスト。
克洋は頭から血を流して死んだ男と、なんとなく自分を重ねてみた。指で鉄砲を作ってみて、額に押し付けてみると、少しだけ心が落ち着くような気がした。
克洋は今日から人生が変わるような気がした。映画一本、名前も知らぬで人生が変わる程度の安い人生だ。克洋は目尻を拭いながら、自嘲気味に口許を歪めた。
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