第7話 ボリスの目覚め
エリンがターニャの部屋に行くと、そこにはサーシャの姿がなかった。かわりに侍女のリーザが、友人の介抱をしている。
室内は、気付けの効果がある香木が焚かれ、その煙と香りが漂っていた。
「サーシャはどうしました?」
彼女はめんくらった。
「エリンさま。サーシャでしたら、子竜のところですわ」
「子竜? いったい、なぜ」
エリンはあわてはしなかったものの、王子がサーシャを急いで連れてくるようにと言ったことを考え、早口になった。
「子竜がサーシャを──」
「解りました。あなたはここに、このままターニャを看ているように。いいですね」
急いでさえぎって、彼女はすぐに部屋を出た。残されたリーザは唖然とし、それから肩をすくめ、もう充分に香りをたちこめさせた細い香木を取りあげて振り、火を消した。
──── † † † ────
扉を開けて、大きな歩幅で入ってきた人物を見ると、侍医たちは瞠目した。
「殿下……!」
かつかつと靴音を響かせながら、彼は寝室を横切り、彼らのそばまで来て、足を止めた。
「彼女の具合は?」
彼は単刀直入に切りだした。驚きに固まっていた侍医たちは、すぐに冷静さを取りもどす。
「まだ、お目覚めではありません、殿下。わたくしどもがつねにご様子を診ておりますが、これといった変化もなく、ただ、脈は弱いながらも安定しております。どうかご安心を」
しかし、彼は軽く右手を振って寝台のまわりに並ぶ彼らに道をあけさせた。
「……意識は一度も?」
短い質問に、侍医の一人が頷く。
「呼びかけにも反応はありません、殿下」
それを聞くと彼は悩ましげな表情をし、左手を上げて広い額にあてた。銀髪がはらりと落ちてくるのをかきあげる。
「わかった。全員さがってくれ」
「……は」
ほんの一瞬、侍医たちの間に躊躇いの空気がながれたが、彼らはすぐに従った。
次々に退室し、最後の一人が寝室の扉を閉める。その音を聞くと、ボリスは膝を落としてしまった。
堪えていた苦痛が全身を震わせる。指先まで大きく揺れ、背筋に悪寒が走り、視界が揺らめいた。
意識が遠のきそうになるのを感じながら、必死におしとどめる。
しばらく寝台に背をもたせかけ、深い呼吸に集中し、少しでも落ちつくのを待つ。しかし、ゆっくりはしていられない。いつエリンが来るとも限らない。
震えがおさまると、彼はたちあがった。
瀕死の姫は、それでも美しく横たわっていた。
「エルダ……」
まだ小刻みに震える指先を、かたく閉じられたまぶたにすべらせる。長いまつげが指をくすぐり、彼は彼女を一目見たときから抑えてきた衝動が、枷を外され、飛びだすのを感じた。
「
天空の大地に古くから伝わっている言葉で、彼は囁いた。
「エルダ」
頬から顎へ、指先をすべらせていく。あまりに冷たい、その肌に、彼は顔を近づけた。
なにものも阻むことができないほど近くに、彼は接近した。弱々しい呼気が吹きかけてくるほど近くに。
彼女の碧い瞳を、その透けそうに白いまぶたの下に見る。そして、ばら色の頬と唇。
輝く瞳の中の、惧れで抑制した情熱。
幼いころに図書室の片隅で見つけた、地上の人々に伝わる不思議な物語の本。そのなかの、あるひとつの噺が唐突に浮かんだ。
魔法にかけられて眠りつづける娘に口づけをして目覚めさせる青年。
ボリスは半分目を閉じた。
はかないほどにやわらかな、とけるような感触。彼は夢中でそれを味わった。指にある氷のようなつめたさとは違い、唇からは激しい熱が伝わってくる。
つめたい、細いなにかが彼の髪の中にすべりこんだ。首筋を撫で、かき抱くようにしてからゆっくりと下りていく。受け入れるだけでいたつぼみが開いて、風の愛撫に応えるかのように激しく揺れ、花弁がもげてしまいそうなほどに強く、渦まく風を離さぬようにと背伸びする。
エルダの腕がボリスの首にからんだ。
腕全体がボリスの身体を撫で、おりていく。それを彼は難なくつかまえた。互いの指と指がからまり、しっかりと合わさる。
ながいながい時間、二人はそうして心のままに求め合った。
やがてボリスの頬を、エルダの涙がぬらした。
「どうしたんだい」
顔を離し、彼は囁いた。
ひんやりと、彼の唇に指先が触れる。
「エルダ?」
「おかわいそうな方」
声に出して、彼女は言った。
「私はもう、生きてはおりませんのに」
碧い瞳がみるみる生気を失って、輝きは白濁の中に沈み、焦点はボリスからそれた。白い肌が青ざめ、灰色となる。唇から艶が消え、青紫に変わった。
恐怖がボリスの全身を硬直させ、震え上がらせた。
エルダが死んだ!
眼前は吹雪となり、自由な心は永久に閉ざされた。
「エルダ……!」
絶叫とともに、彼は身を起こした。
驚愕で目を見開いた、見慣れた顔がふたつ、両側から彼をのぞきこんでいた。
「ボリスさま!」
あどけない少年の声が心配そうに彼を打つ。
両肩で息をしながら、彼は呆然とサーシャを見つめかえした。
「……サーシャ? エリン……」
幼いころから母親のような目をして見守ってくれている女官の手にある冷やしたタオルが、ボリスの火照った額にあてられた。
ゆっくりと、倒れこむように彼は横になる。
「……夢、か……?」
どこからが夢だったのか、と思うが早いか、サーシャの震え声が耳を貫いた。
「よかった、ボリスさま。ボリスさままで死んでしまったらと思ったら、ぼく、怖くてたまらなかった」
──ボリスさままで?
「サーシャ! どういう意味だ!?」
エリンの顔色が変わり、サーシャは両手で口を、叩きつぶさんばかりの勢いで覆った。
「サーシャ!」
まだ幼げな両目から、涙があふれる。
「エリン!」
額のタオルに添えられている手をつかんで、彼はその手の主を凝視した。
「……お体に障ります、殿下」
ボリスは、それ以上、この二人の口から事情を聞きだすために時間を費やすのはやめた。
勢いをつけて起き上がると、必死に制止する二人の叫ぶような懇願と腕をふりはらい、扉を叩き壊すようにして自室を飛びだした。
廊下に控えている二人の近衛兵が身構える前に、彼はその脇を駆けぬけた。ところがすぐに立ち止まった。ソーニャの甲冑がたてる金属音が近づいてきたのだ。彼女は簡単にはだしぬけない。
とっさに壁を叩いて、現れた空間に身を隠す。そこは一時的に隠れるには絶好の場所だった。しかし、城内に張りめぐらされている通路にはつながっていない。彼は苛立ちをこめたため息をついたが、すぐに気をとりなおして反対側の壁を叩いた。
開いた秘密の扉は、城内には通じていない。
彼は青空のもとに飛びだすと、運良く漂っていた霧雲の中にすべりこんだ。そして、そのまま雲をまとって下降する。
不自然に思われないうちに、彼は近くの窓から城内に戻った。無人の部屋に入り、廊下に出る扉に耳を当てる。ばたばたと足音が聞こえたが、扉の前を通過して去っていった。
素早く廊下に出ると、足音が向かった方角とは逆に飛行する。途中で階段を上がり、貴賓室のある階に出た。
闇のマントを取ってこられなかったことに彼は今更ながら気づいたが、取りにもどる気にはなれなかった。第一、捕まりに戻るようなものだ。
ボリスの心は震えていたが、身体はしっかりと彼を支えている。
廊下を駆けぬけて、彼は貴賓室の扉を開けた。
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