第8話 エルダの死

 細い光がさしこむ中に、エルダは座っていた。しおれて茶色く変色した花びらが、あたり一面に、まるで敷きつめられたように散乱している。そして、一枚、また一枚と、色あせた花びらは落ちてくる。


 靄がかかっているように暗く、寒い。


 エルダは座ったまま、周囲を見回した。

 そして、やっと私は死ねたのかしらと考えた。


「愛しい娘よ」


 なつかしい、しかし聴きたくなかった声が、足元からにじみでた。


「ようやく会えたな」


 エルダは戦慄した。

 枯れた花びらがもりあがり、その下から手がつきでた。埋葬された死体が甦ったように。


 腕、肩、そして頭が、ゆっくりと這い上がってくる。エルダは恐怖に体が凍りついている。まばたきもできず、逃げることさえ考えつかない。


 中心が赤黒く燃えている碧い瞳が、エルダをとらえた。


「魂の再会か。おまえの身体がいずこに在るものか判らぬが……ようやく逢えた……」


 鋭く尖った爪がエルダにのび、白いドレスを切り裂いた。

 あまりに激しい恐怖心で悲鳴すらあげることができない。そんな彼女の乾いた両目に、邪悪な笑みが映った。



 ──── † † † ────



 そこには重臣三人と、イワンが立っていた。

 エルダの寝台を囲み、沈鬱な表情で。


「……ボリス」


 父王の声を聴いたボリスは、初めてこれが現実であることを実感した。


 エルダは死んだ。


「残念です、殿下」


 ペトロフの声は、かすれている。

 フョードルの目は赤く泣きはれている。

 ナボコフの眉間に深いしわが刻まれている。

 イワンは悲嘆と哀れみの目で息子を見ている。

 そのどれもが、ボリスの中のエルダから生気を奪っていく。


「嘘だ」


 寝台に駆け寄り、飛びつくようにして覗きこむ。そこにはエルダが横たわっていた。そして、それでも彼女は美しかった。

 手首を握り、首筋に触れ、彼は脈を探した。そして口元に耳を寄せて、かぼそい呼吸を聞き取ろうとした。しかし、どこにも彼女の生存はみられなかった。


「うそだ!」


 黒い猫が静かに寄り添い、息絶えている。

 ボリスは首を横に振った。信じられなかった。

 さきほどの悪夢が甦る。


 ──おかわいそうな方、私はもう、生きてはおりませんのに。


 震える手でエルダの手を握ると、氷のように冷たい彼女の手は、いつもよりもこわばっていた。

 身震いと沈黙の中で、ボリスは今にも壊れそうな心を抱いて、何度も何度も魂の叫びを放った。それは悲鳴まじりの絶叫だった。


 彼の心を、父親であるイワンは、身が切り裂かれるような思いとともに理解しただろう。かつて、彼も同じ苦しみを味わい、それは今も続いている。彼は妻との永遠の別離とひきかえに、今の暮らしを得ていた。しかし、それは幸福であると同時に耐えがたい不幸でもあった。最愛の人は、彼には一人ではなかったからだ。


 イワンは静かに身を翻し、息子には聞こえないよう、かすかな声で重臣に命じた。


 彼らはイワンの言葉のすべてに従った。すなわち彼をエルダと二人だけにしてやることと、誰も彼の悲しみを邪魔しないようにすることを。


 音もなく出ていった彼らのことを、ボリスは一顧だにしなかった。金の髪と白い頬を撫で、細い肩を起こし、しっかりと抱きしめる。まだそのどこかに、彼女の意識が残っているような気がしてならない。


 深い絶望はボリスを朦朧とさせた。そして、彼はひどく緩慢に気を失った。


 闇の中に沈み、心が光を失う。

 そこには苦しみしかない。


 彼はもがいた。


 ところが、身体はどんどん沈んでいく。重く、つらく、痛い。


「エルダ……!」


 ボリスは両目を閉じ、ただ祈った。

 どうかこれこそが悪夢であれば良いのに。目が覚めたら、あの微笑が傍らにありますように、と。

 けれども、それが叶わない願いだとわかっている。だからこそ、ボリスは目を開けることを拒んだ。


 自分を捕らえた闇を、いつの間にかしっかりと纏ってしまっていた。その中から出ないように。


(そんなことはいけません)


 ボリスは、耳を疑った。



 ──── † † † ────



 茶色く乾燥した花びらが、エルダの魂を包んでいる。


「肉体を外してさえいれば、おまえの守護神に邪魔をされることはない」


 嬉々とした声に、エルダは震え上がった。


「エヴァリア。おまえは、すべてが彼女に似ている。愛しいエヴァリア。わたしだけのもの」


 熱風が吹きすさび、花びらを舞い上げる。

 恐怖と嫌悪でエルダが音のない悲鳴をあげた。その瞬間、まぶしい白い光が彼女の奥から噴きだして、あたりの空間、そのものを侵食し始める。


「なにっ」


 魔王に身を捧げてしまった邪悪な魔物の魂が弾き飛ばされ、はるか彼方へと消え去った。膨張していく光が空間全体に満ちていき、やがてはじけて飛び散ると、エルダは闇の中に放り出された。


 そして、そこで愛しい魂に邂逅した。



 ──── † † † ────


 ボリスの目の前に佇むのは、彼がはじめて魂すべてを捧げようとした女性だった。

「エルダ……」


(どうか己を見失わないで。現実を見捨てないでください。本来のあなたは、それほど弱い方ではないはず)


 碧い瞳が語る言葉を、彼は正確に聞き取ることができた。


(そして、どうか私を救ってください。私を、このまま闇に埋葬なさらないで)


「エルダ、僕は君のところにいきたい」


(それは無理です)


 エルダの碧い瞳は、しっかりとボリスを見据えている。


「エルダ」


 すると、悲しげだった彼女の表情に、わずかではあるが、輝きが見えた。

 ボリスが神人のもつ力──心を開いた相手の想いこころ精神こころで聴きとる──で聴いていたエルダの言葉にも、明るい響きがあらわれる。


(私は、まだ、死者の世界に行ってはおりません)


 その意味を理解するのに、ボリスは数秒間を要した。

「つまり……君は完全に死んだわけではない、と?」

(はい)


 過去の例が彼の記憶にひらめいた。

「つまり、あのときのサーシャのように、肉体の時間が止まっているということか」


 魔鳥襲来の折にエルダが城を出るため、サーシャの肉体にかけた、時間を止める魔法。そのとき少年の呼吸も心拍も、完全に停止していた。あの魔法と同じようなものが今のエルダにもかけられているとしたら。死んだように思われるのは不思議ではない。


 しかし、彼女はゆるやかに首を振った。


(いいえ。私の肉体の時は止まってはいません)


 ボリスは混乱した。

「どういうことだ?」


(私は、本来ならば死んでいるでしょう。

 人の魂は、肉体の死と同時にふたつに分かれるのです。そして片方は肉体にとどまり、もう片方は冥界へと旅立ちます。けれど、一定の期間を経ましたら、肉体に残っていたほうの魂は……つまり、からだが滅びて消え去るのとともに……大地に融け、そこで出逢ったべつの魂の半分と融合し、新たな命に宿るのです。

 けれど、今、私の魂は分かたれることなく、冥界に行くこともなく、肉体のある世界に漂っているのです。だからこそ、あなたの魂とも、こうしてお逢いできるのですが……)


 エルダの春の空のような瞳に、霜が降りた。


(その分、さまざまな魂とも接触をもってしまうことになります。それに、同じ場所に留まることは困難です)


「ということは、君とこうして話ができるのも、そう長い時間はできないということか」


(はい。ひとたび風に吹かれれば──その風というのも、むろん自然界でいう風とは異なるものではありますが──光に包まれると同時に、私自身にも制御はできず、今の場所とは違ったところに魂が移ってしまうようです)


「どうすればいい? 君をどこにもやらずに、君の魂を君の身体に戻すには、どんな方法がある?」


 ボリスの必死な声を、エルダは静かに聞いた。彼は、その問いに対する答えを半分しか聞くことができない。


(とにかく、あなたはここにいてはいけません。肉体が生きていない私とは違います。魂だけの存在である今の私には歌うことができないので、魔法は使えませんが、それでも魂には魂にしかできないことがあります。それに、貴方の身体は生きています。あなたをここから出して、肉体に戻すことはできるでしょう)


 ボリスは顔をしかめた。


「僕のことはいい。君の魂はどうなる」


 一瞬、エルダは唇をかたく閉じた。

「エルダ」

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