生きている死者
第6話 救い主
人間の姫がイワンを救った。
誰からともなく、その美談は城中に伝わった。そして、やがては城下町にも広がっていった。
悪夢に囚われ、昏睡状態にあった彼を目覚めさせるために王子を導き、その危機を身を挺して救った。自らは深い傷を負いながらも、立派に国王父子を救出した、と。
じつのところ、彼を眠りに閉じこめ、悪夢のなかに捕らえたのは、エルダの父だ。しかし、ボリスのほかに、その事実を知るものはいない。イワンは気づいているだろうが、彼がそれを他者に漏らすことなど考えられない。
だが、ボリスは口が裂けても、それを誰かに打ちあけはしなかった。せっかくエルダへの偏見が薄れようというときに、それを逆行させてしまいかねないことを言えるはずがなかったからだ。
よって、エルダは一部の民に英雄視された。
国王を救い、国を救った者として。
あの忌まわしい予言を放った占術師、リジアだけは冷淡な表情で伝聞を聞き流したが、多くの人々は耳を傾けずにはいられなかった。にわかには信じがたく、疑わしげに聞いた者たちもいたが、ナボコフ大臣の名による公式発表で事実であると認定されると、最終的には今までのようにエルダを危険視するわけにはいかなくなった。
しかし、エルダは、まだ意識を取りもどしていない。
傷はボリスの力で完全にふさがれている。それでも、流した血液の量を思えば、死が完全に去ったわけではないということは、医師でなくとも解ることだ。
イワンが目覚めてから3日。その間、エルダは指一本も動かさず、きつくまぶたを閉じ、沈黙の中で横たわっていた。折れそうに細い手首からは脈がとれず、首筋にかるく現れる鼓動だけが彼女の生存を肯定している。
エルダの傷を『光と闇の癒し』でふさいでから、ボリスもベッドから離れられずにいた。目が覚めても身体を起こすことができず、朦朧として、頭がはっきりしなかった。それほど、あの邪悪な人間の王の魔力が強烈なものだったのだろう。それがようやく回復してくると、彼は、最初に見えた顔に問うた。
「父上とエルダは?」
幼いころ、彼が母親の理想を投影した女官は、安心させようと温かい微笑を浮かべた。
「ご無事ですよ。陛下は、すでに国務に復帰しておいでです。以前のようにお健やかで、精力的にさまざまな問題に取り組まれ、国政を率いて次々に良き成案を──」
「エルダは?」
エリンの能弁をさえぎった彼の声は穏やかだったが、かすかに鋭い。
ごく短い沈黙の後に、女官は柔らかな口調で告げた。
「殿下。姫君には、まだ休息が必要かと思われます。殿下も3日ものあいだ、同じように休んでおられました。傷を負われた姫君はなおさらのことです」
「つまり……まだ意識が戻っていないと?」
ボリスは重たい身体を起こした。それをとどめようとエリンが両手をのばしたが、彼は軽く手を振って押しとどめる。
「僕は完全に癒していなかったのか」
「いけません、殿下」
肩を押さえて、立ち上がろうとしたボリスをエリンは止めた。いつもの彼なら簡単に払いのけることができる手が、このときは強く、断固としていた。
やはり、回復しきっていない。
銀の髪が揺れ、エリンの手の甲の上を流れる。
「姫君には侍医たちがついております。彼らが手を尽くしておりますれば、何も心配なさることなどありません。ですから、今はお休みください」
ボリスの頭が、がくりと揺れた。
「殿下!」
あわててエリンは彼を寝かせる。顔にかかった髪を横に落としてやると、憂悶で曇った紫の瞳が空を見つめていた。眉間にはしわが刻まれている。
「エリン」
「はい」
ボリスの目には悲痛な懇願が浮かんでいる。
「サーシャはどこにいる?」
「姉の部屋におります。彼女がショックのあまり、寝こんでしまいましたもので……」
「それなら、あの子を呼びに行ってくれ。頼みたいことがある」
「わたくしではできぬことですか」
エリンがボリスのシーツを直しながら思わず口走ったことを、彼は取りあわなかった。
「おまえは女官で、あの子は童僕だ」
そのひとことを聞くと、エリンはそれ以上、逆らわなかった。
「では、すぐに誰かに呼びにいかせましょう」
「いや、おまえが行くのだ」
ボリスは両目を閉じた。
「おまえが行って、サーシャの代理としてターニャのそばについていなければ、あの子は安心できない。頼む、エリン。サーシャにできるだけ急いでくるよう、伝えてくれ。でないと、また眠ってしまいそうだ」
エリンは頷き、すぐに命令に従って彼の寝室から出て行った。広い歩幅で、大急ぎに彼女は歩いたが、足音はまったくしない。長年の女官としての働きぶりが伺えるような早足だった。
扉が閉まると、ボリスは深呼吸をひとつして、目を開けた。
ターニャの部屋がある階は、ここからは遠い。エリンがどんなに急いでも、サーシャが来るまで30分はかかるだろう。その間に貴賓室まで行くことは、それほど難しくないはずだ。
ボリスは左腕に力をこめ、ゆっくりと起き上がった。それから両腕で身体を支え、足を床におろす。床はつり橋のように揺れている。
──しっかりしろ。
自分に言いきかせながら、両足を踏ん張る。なんとか立つことはできた。
右足を前に踏み出すと、壁が二重に見えた。思わず首を振り、バランスを崩しそうになる。あまりに視界が揺れるので、彼は目を閉じたまま進んだ。
何がどの位置にあるかは体が覚えているので、進むのは簡単だ。それよりも、雲海のように波打つ床のほうが問題だった。
ゆっくりと、床の動きにあわせるように歩いていく。部屋を出るまでに、数分が費やされてしまった。彼は若干の焦りを感じたが、そのせいで余計に動作が危うくなるのに気がついて、深く呼吸をして落ちつきを取りもどした。
廊下に人の気配がなかったのが幸いだった。誰かに見咎められたら、ベッドに戻されてしまいかねない。
そこまで考えて、はっとした。
エルダのそばには侍医たちがいる。
彼らはボリスが入ってきた瞬間、彼の様子をさぐり、まだ体が回復しきっていないと看破し、部屋に無理矢理、連れ戻すだろう。
それは、なんとしても避けたかった。
それには、彼が健康であると信じさせなければならない。
侍医は、ほんの一瞬で相手の健康状態を探ろうとする。瞬時の判断が医術には不可欠だからだ。的確で、迅速な処置をしなければならない彼らの仕事に、余分な時間などない。だから、その一瞬で、彼らにボリスが元気であることを判断させれば良いのだ。
右腕で肩を抱き、ボリスは廊下の壁に凭れて意識をこらした。何度か深い呼吸をして多くの空気をとりこむ。身体は重く、ひどい倦怠感に縛られている。しかし、彼の心は逸っていた。急かせる心のままに再び歩きだし、廊下を曲がる。
貴賓室の扉の前には、いつもいるはずの近衛兵がいない。それを確認すると、ボリスは薄く微笑んだ。
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