第5話 エル・ベラ・リーニオ
イワンは無事に目をさました。そしてボリスの身にも、さしたる傷害は見あたらない。それは明らかに、エルダの尽力の賜物と思われた。
今回の危険な冒険で、生命の危機に瀕するほどの被害をこうむったのは、彼女だけだ。おそらく彼女は、あの魔鳥来襲のときと同じように、自らをまったく顧みずに行動したのだろう。
彼女はあまりにも自分の命を軽んじすぎる。ボリスはそのことに怒りを感じてもいた。
自分を愛する者のために犠牲になることが、その者をどれほど傷つけ、悲しませることか。彼女の心には、それが微塵すらよぎらないのだろう。
ボリスは背後で息をのんでいる者たちや、目前で痛ましげに自分を見守るエリンの気配を感じないほど、エルダのことで頭がいっぱいだった。彼はこのとき、もう父親のことは案じていなかった。ただひたすら、エルダを助けることだけに集中していた。
ほんの一瞬、彼は己が手を見つめた。
それから、その手をエルダの左胸の鎖骨あたりにあてた。じわじわと、ぬるい血が溢れて指を濡らす。
彼女の脈動を感じとろうと、ボリスは両目を閉じた。意識を凝らし、エルダが持つ生命の輝きを探す。なんとか見つけ出したそれは、あまりに小さく、そして弱かった。とても人のものとは思えないほどに、かすかな光だ。
ボリスの心が光に近づく。すると、彼の手のひらから真珠色の光がこぼれた。
『光と闇の癒し』。そう呼ばれる光だ。
彼の生まれながらの力。
全員が、固唾をのんで見守った。ある者は期待を、ある者は恐れを、ある者は敬意をこめたまなざしで、その様子を見つめつづけた。
空気が膨張し、流れて、広がる。ボリスの髪がふわりと舞い、広がって、たなびいた。
真珠色の光が強くなる。
ボリスはまぶたを半分おろし、深い呼吸の後に開いた。強いまなざしでエルダを見つめる。若々しい輝きをもつ紫の瞳には、断固とした意志と、不動の自負が漲っていた。
心の中で彼は呼びかける。
──エルダ……エルダ……聴いてくれ。
手のひらに、いつものような感覚がない。闇が盾のように渦を巻いて、患者の苦痛がボリスの身体に吸いこまれるのを防ぐ、あの感覚が。そのせいで、胸を重たくするような、黒く澱んだイメージを持たせる何かがボリスの身体に流れ入ってきた。
ボリスの額に汗が浮いた。
──エルダ、君を決して死なせない。
しかし、彼の心にある熱望をこめても、エルダの傷はふさがらなかった。
黒い血は依然として流れつづけている。
彼は焦りはじめた。
真珠色の光が、いっそう強くエルダを照らす。生きろ、生きろと訴える。それでもボリスの手は新たな血に濡れ、かわくことがない。彼女を失うかもしれないという恐怖が迫りくる。それを打ち消すために、彼は目を閉じた。その瞬間、ひらめくものがあり、彼は姉の腕の中でマーロウを抱いているサーシャに振り向いた。
「サーシャ!」
じっと王子を見守っていた童僕は、ぴくっと反応した。
マーロウが受けた攻撃は、エルダの身体を傷つけた。それはつまり、彼女らが一心同体であるということだ。
だとすれば。
「マーロウをここへ」
少年の顔はこわばっていたが、それは恐れのためというよりも緊張によるものだった。だが、ターニャはわずかに弟から手を離すことを躊躇った。王子の命令に逆らうことは、彼女の信念に反する。それでも、人間の姫のそばに大切な家族を近寄らせるのは嫌だった。
姉の葛藤をサーシャは本能的に察した。その奥にある考えや思いを理解するまでにはいたらないまでも。
サーシャは姉の手が硬くなり、しかしそれでも自分を軽く前に押しやるのを感じた。
マーロウを抱いて、彼はボリスの前に進み出る。真珠色の光を放つ王子の手がエルダの血で黒く染まっているのを見て、サーシャはぎくりとした。
「ボリスさま……」
サーシャの声はかすれていた。
ボリスは少年を安心させるために微笑もうとして失敗した。顔の筋肉がこわばり、思うように動かせなかった。
「大丈夫だ、サーシャ。もう、ここまででいい。マーロウを寝台の上にのせなさい」
ボリスには、サーシャの不安を払拭させるだけの余裕がない。その声も、濃い憂愁にひびわれていた。
少年は黙ったまま頷き、横たわるエルダのかたわらに黒猫を静かにおろした。それから、ゆっくり後ずさりして離れていく。まるで、不用意な動きひとつで部屋全体が崩れてしまう、というように、慎重に。
ペトロフ将軍も、フョードルも、そしてエリンも、一声も発さずに王子の動作を見守っている。フョードルは、内心ではイワン王のそばに行きたいのだろうが、今はまだ体力の回復しきっていない王よりもボリスのそばにいたほうが安心とでも思ったものか、おとなしく控えていた。しかし、彼の両手の指先は落ちつかなげに動きまわっている。
ボリスは、黒い毛皮の上に右手をのせた。左手はエルダから離さずに。
両手のむこうで弱々しく細い息をしているエルダとマーロウは、まったく同じリズムと強さで脈動している。それは、今にも途切れそうなほど、かすかな脈だった。
──うまくいってくれ。
どちらも助かれと、ボリスは強く祈った。
両手から真珠色の光が迸る。それはまず、マーロウを包んだ。
闇を練ったような不快なエネルギーが手のひらから吸いこまれてきた。どろどろとしたそれが腕を昇り、螺旋状に上がってくる。それがもたらす、あまりにも激しい生理的嫌悪感に、ボリスは耐えた。耐える以外に、彼には選択肢がなかったのだ。
邪悪な力。あの邪王の魔法が彼の中に吸い上げられてくる。それは時に永久凍土に吹く風のように冷たく、彼を凍えさせ、時に火山口から噴き上げる岩漿のように熱く、彼を蒸発させそうになった。
唇を噛み、ボリスは肉体と精神をさいなむ苦痛に耐えた。
右手の下でマーロウの体温がごくわずかに上がったように思える。そして、エルダのほうは出血が弱まった。それを支えに彼は力をふりしぼった。もう、ずいぶんと無理をしている。吸いこんでいる負のエネルギー量が、身体の許容量をとうに超えているのはわかっていたが、それでもここで止めるわけにはいかない。
ボリスの眉は苦痛にゆがんだ。
「殿下!」
異変にいちはやく気づいたのはエリンだったが、最初に叫んだのは将軍だった。
「いけません、もうこれ以上は、殿下が危険です!」
フョードルが悲鳴をあげた。彼はその場で凍りつき、指一本、動かせないほどの恐怖に襲われていた。
ターニャが弟にしがみつく。
駆け寄ろうとしたペトロフとエリンに、ボリスは鋭い眼光を送った。その焼きつくような視線に、思わず二人の足が止まる。
額から汗を流しながら、ボリスはマーロウとエルダを同時に癒そうと、力を揮った。
ボリスの髪が大きく膨らんだかと思うと、次の瞬間には激しく翻る。強い風が彼の身体から噴出していた。
凄絶な苦しみに耐えかねたボリスは、つきあげてくる衝動に絶叫した。その叫びと同時に、放出が始まった。
漆黒の、どろどろした影のようなものが、王子の両肩から噴き上げている。それは彼にまとわりつきながらも、何かに引っ張られているかのように立ち昇り、やがて天井を抜けて消えていく。それからどこへ行くものか、つきとめようと思う者はいなかった。
ターニャが両目を閉じ、顔をそむける。室内で荒れ狂う嵐に叩かれて、全員がかがんで暴風に耐えた。
誰もが永遠のように感じた数十秒が過ぎると、静寂の中に立ちつくす王子の、疲れ果てた姿があった。
がくりと揺れ、倒れかけながらも、彼はなんとか持ちこたえた。
「殿下!」
近づいてくる気配に右手を挙げて制止をすると、彼は身をかがめ、エルダの耳元に顔を寄せた。
出血は完全に止まっている。それどころか、傷跡も残っていない。それを確認したボリスは、ようやく小さな笑みを浮かべた。なんとかうまくいった。あとは意識を回復させれば良い。
エルダにしか聞こえない声量で、彼は囁いた。
「……目を覚ましてくれ、
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