第4話 瀕死の姫
「エルダ……! 何故、こんなことに」
弱々しい息をしながら、彼女は瀕死の小鳥のように、ただ、耐えていた。そばには黒い猫が横たわっている。
「マーロウ……!」
ボリスは黒猫を抱き上げ、それからエルダの頬に触れた。さっきまで握っていた彼女の手と同じように、凍えるほど冷たい。
「将軍。これは、どういうことだ」
ペトロフは落ちついていたが、論理的な説明など、できようはずもなかった。
「わかりません。突然、猫が弾き飛ばされたように宙に飛びあがり、それと同時に、姫のお体から血が吹き出したのです。まるで見えない矢に射られたようでした」
ボリスの全身から、血の気が引いた。
あの、邪悪な人間の王が射た矢がマーロウを貫いた。抱き上げたマーロウは傷を負ってはいないが、血を流しているエルダと同じように、息も絶え絶えだ。
攻撃を受けたのは確かにマーロウだ。しかし、実際に傷ついたのはエルダで、それでも両者ともに倒れている。
ボリスは混乱した。
「……どうした、ボリス」
静かな声に、全員が飛び上がった。
「陛下!」
「イワンさま!」
寝台の上に、物憂げな顔をしたイワンが上体を起こしていた。
「ああ、お目覚めになられて。なんと喜ばしいこと。陛下、よくぞ、ご無事で」
「ご気分はいかがです、陛下」
「奇跡だ。おお、お体は、なんともないのでございますか」
次々と、家臣や女官、侍女たちが王の寝台に押し寄せた。いつものイワンなら、優しい声で一人一人に返事をするが、彼は厳しい表情で彼らを退けた。
「私は心配いらぬ。それよりも、ボリスよ。どうしたのだ」
しかし、ボリスは声が出なかった。
血に染まったエルダは、もはや手遅れのようにしか見えない。
「……なんということだ」
さすがにイワンも、エルダを一目見て、しぼりだすような声しか出なくなった。
「僕を庇って負った傷です」
咽喉を切り裂くようにして、ボリスは声を押し出した。
それを聞いた全員が、息をのむ。
どこからか、エリンが進み出て、ボリスの腕からそっとマーロウを取りあげた。
ボリスはマーロウを託すと、ペトロフの腕からエルダを抱き上げた。
「エリン。僕と来てくれ」
ボリスの腕のあいだから、新たな血が流れ落ちた。それは床にしたたり、黒い川と池をいくつもつくった。それを見た侍従がすばやく駆けよってエルダに毛布をかぶせ、ボリスの手を助けて、彼女をしっかりとくるんだ。
貴賓室にエルダとマーロウを連れて行くと、サーシャとその姉が立ち上がった。
「エルダさま!」
姉弟はともに驚き、うろたえたが、それはまったく性質の違うものだった。
「ひどい怪我だ!」
「でも、どうして……寝室にいらっしゃるはずじゃ……」
ターニャは編んでいたレースが床に落ちたのも気づかないほど、動揺していた。
「君に責任はない。彼女を連れだして、こんな目にあわせたのは僕だ。それよりも寝室の扉を開けなさい」
硬く厳しいボリスの声に、ターニャは我に返った。すぐさまエルダの寝室に飛びこみ、彼女の寝台に敷いた毛織物をはいで、横になれるように整えた。
弱りきった細い身体を、そっと静かに横たえさせる。しとどに血をふくんだ毛布を取ると、それはボリスの手にも重く感じられた。
ターニャがそれを見て怯んだので、マーロウをサーシャに預けたエリンが受けとった。彼女はそれをできるだけ持ちやすくなるまでたたみ、部屋から出て行った。
エルダの胸元からは、まだ血が流れつづけている。それを見てターニャは顔をしかめた。
「傷にあてる布をお持ちします」
ボリスはターニャを止めなかった。それどころか、彼女の動きをまったく気にも止めていなかった。ただ、エルダのかぼそい息づかいと、手首からつたわる果敢なげな鼓動に、じっと意識をこらしている。
サーシャの予感はあたってしまった。彼が恐れていたように、エルダは危険に晒され、深い傷を負って戻ってきた。
「ボリスさま……」
小さなかすれ声で呼びかけると、けわしいしわを刻んだボリスの眉間が、ほんの少しだけ緩んだ。
「大丈夫だ」
確信に満ちた声だった。
しかし、それだけではサーシャは安心できなかった。今まで、ボリスの力は幾度も目にしてきたけれども、これほどの重篤に陥っている者を回復させたことはない。彼の『光と闇の癒し』は、患者の怪我や病、疲労を癒すが、死を祓うことはできないのだ。
青白いエルダの顔に浮かんだ苦痛に、ふと思いがけない表情が現れた。碧い瞳の奥からあふれでる強固な輝きは、戦いに臨む戦士の闘志を思わせる。眉間には勇壮さが漂い、ほとばしる生命力が死をはねのけようと燃えていた。
力なく横たわっていた細い腕が、ゆっくりと上がった。かぼそい指がひらいて胸元までいくと、何かをつかむように曲がる。すると、その手の中で赤黒い閃光がひらめいた。
それは、イワン王の夢の中で邪王が放った魔法の矢だった。現実世界にまで形をとどめていられるとは驚きだったが、さらにそれをつかんだエルダの手の力強さにも、ボリスは瞠目した。サーシャの両目も彼と同じように大きく見開かれている。
エルダはもう一方の手も、矢に絡めた。
しっかりと握られた指のあいだから、白い煙が立ちのぼる。
「エルダ……!」
ボリスは思わず、彼女の手を矢から離そうと、手をのばしたが、それは届かなかった。空気がまるでゼリーのように固まって、柔らかく、しかし断固として、彼の動きを拒んだようだった。
煙の色が白から灰色へ、そして黒へと次第に変わっていく。やがて弱々しい、白い光が指のあいだからこぼれた。煙とともに出現したそれは、けれどもやがては煙を圧していくようだった。黒くなった煙は細くなり、少しずつ弱まる。それに反して光は勢いを強めた。
そこで突然、絹を裂くような悲鳴があがった。
足元にはぎれの山をつくったターニャが、口を両手で覆っている。その目は恐怖で凍りつき、全身は震えていた。いつもはリンゴのように赤い頬が青ざめている。
彼女は床に縫いつけられたように動けず、ただエルダを凝視した。
姉を心配したサーシャが一気に駆けより、彼女のスカートをぎゅっとつかんだ。それで硬直が解けた彼女は、弟を抱きしめた。
だが、ボリスはエルダのそばから一歩たりとも離れなかった。
エルダの両手の中で、魔法の矢は少しずつ細くなっているように見える。白く輝く光の中で、あたかも若枝が老いて枯れていくように、節くれだって痩せていく。
その光の白さに、ボリスは父の夢の中にいたときに見た光景を思い出した。舞うように降っては積もる花びらに、はるか上からさしこむ光のすじ。そして、全身くまなく白い光をまとった女性の姿。
顔を見たわけではない。しかし、ボリスは彼女をエルダだと感じた。だが、今となっては、あまり自信がなかった。あの姿には傷ついた様子など微塵もなかったのだ。
枯れ枝のようになった矢を、エルダは最後の力をふりしぼって引き抜いた。その瞬間、矢は、ぱきんと音をたてて砕け散った。
「……!」
粉塵となった魔法の破片が飛び散り、ボリスの身体を打つ。それはまだ、火の粉と感じるほど熱かった。
力尽きたエルダの両腕がマットに沈む。
長いまつげが伏せられ、ゆりかごの中の子どもを夜気から守る織物のように瞳を覆った。血色のあせた唇から、疲れきった、深い吐息が放たれる。
「エルダ」
空気にあった異常な粘度が低くなり、やがて消えた。ボリスとエルダのあいだにあった、その見えない壁がなくなると、彼は目も開けられなくなった彼女の頬を手のひらでそっとつつんだ。呼びかけにも、彼女は反応しない。もう聞こえていないようだった。
そこに、ペトロフが現れた。
「殿下」
彼は無理矢理、フョードルを連れてきていた。その後ろにはエリンが控えている。彼女はサーシャを抱いたまま震えているターニャの足もとに布の山が出来ているのを見て、その一番上の清潔なものを取りあげた。そして、しっかりとした足どりで寝台の横、ボリスの向かいにやってくると、それをエルダの傷にあてた。だが、すぐに、それは血で染まっていく。
フョードルはペトロフ将軍にエルダの治療をするようにと連れてこられていたが、どうみても役に立ちそうになかった。そもそも、冷静に傷の状態を診察することすら、できそうにない。彼は怯えきっていた。
侍医の頭の様子から見てとったことは口に出さず、ボリスは彼を退けた。
「……医術では、間に合わない」
静かで、きっぱりとした口調だった。
「しかし、殿下」
「これがただの負傷ではないということは、私にも解っている、将軍。魔法によって負わされた傷を癒せるかどうかは賭けだ。だが、このままでは彼女を救えない」
誇りたかい声音が、ペトロフの懸念を遮った。彼は王子の高貴な威圧におされて黙り、眉間にしわをよせて唇を噛んだ。
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