第3話 犠牲
イワンとボリスの寝台のあいだに座り、目を閉じていたエルダが、不意にまぶたをあげた。そして、その眉がひそめられた瞬間。
ボリスの胸の上で丸くなっていたマーロウが赤黒い光に包まれたかと思うと、弾き飛ばされるように、高い天井まで跳ね上がった。四肢が苦しげに曲がり、長い尾は力なく垂れ下がっている。それから、なすすべもなく、その黒い体は、どさりと床に落ちた。
全員が息をのみ、声も出なかった。
そして、マーロウが宙に浮いた、その同じ一瞬に、エルダの背にも同じ光が現れた。
「……!」
光の中央が破れ、黒い血が細い筋となって噴きだす。勢いよく溢れ、エルダはわずかに身を傾かせた。
「姫……!」
ペトロフが叫び、彼女のほうへ駆け寄ろうとした。それをナボコフとフョードルが慌てて止める。
「よすんだ、ペトロフ!」
「そうです、何があるか……」
金髪が広がり、黒い血液がまたも噴出した。
エルダはボリスとイワンの手を強く握り、左胸から背中に刺し貫いた魔法の矢を見つめた。赤黒い光を帯びた矢は、エルダの身体をじりじりと焼くように高い熱を放つ。だが、彼女はそれに耐えた。もしもこの手を離せば、イワンの夢から遠く離れ、ボリスをも見失う。
「姫! 何が起きているのです!」
しかし、彼女は答える術を持たなかった。
胸の奥で燃える闇の光が、じりじりと熱くたぎっていた。彼女の中に与えられた魔力がランプの油としたなら、その矢の光はそれに点火する火種だった。邪悪なあるじが彼女のために生み出した炎。それは、彼の意図せぬところで、彼女に届いてしまった。しかし、彼女は全身全霊で、それを拒絶した。
──おまえの名を呼べ。
深い地の底から聞こえてくるような声が、彼女の体の中から響いた。心臓のあたりから、強く、激しく。
──さあ、呼べ。叫べ。おまえの名を。
彼女は唇を噛みしめた。それでも、呼び声を抑えきれなくなりそうだった。
マーロウは床に横たわり、ぴくりともしない。彼女の身体を使ってエルダがイワンの夢の中に意識を飛ばすことはできなくなった。そして、同時にボリスを目覚めさせることも叶わなくなってしまった。
進退窮まった彼女は、ついに唇を開いた。
そして、白く強烈な光が彼女の身体を包んだ。
「エルダ姫……!」
人々の目の前で、エルダをのみこんだ光は膨張し、イワンとボリスをも抱いてしまった。
──── † † † ────
ボリスは、間一髪で稲妻を避けた。
哄笑が轟く。
「どうしたのだ、天空の王子! 逃げてばかりいても、どうにもならぬぞ」
イワンの両手に雷が宿る。それが一度に、ボリスに向かってのびた。片方を避けたが、もう片方が迫ってくる。
「……!」
ボリスは父の剣で雷電を受けた。しかし、その強さに弾かれてしまう。彼は何メートルも飛ばされ、背中から落ちた。
やはり、氷牙刀ではイワンの攻撃を完全に防ぐことはできない。もともとの持ち主による攻撃にまごついているのだ。そして、ボリスの備える力と扱い方に戸惑ってもいるようだった。
空の民の刀剣は生きている。使い手の心に反応し、その能力を発揮するのだ。よって、扱いに慣れぬ腕に振るわれれば、それ相応にしか働かない。価値を充分に知らなければ、使いみちも思いつかないのだ。
ボリスは愛剣で戦うとき、何ひとつ迷わず、深く考えもしない。どう振るい、どう突きたてれば良いか、まるで剣自身が知っているかのように、その動きに従えばよかった。だが、父の剣は彼に常に深く考えることを要求した。
どの角度で、どれだけの力加減で握るべきか、いつ、どのようにして振り上げ、振り下ろすべきなのか、相手の出方を見ていると、剣にまで判断を伝えるのに手間取った。
邪王の闇の魔法をかけられたイワン王は、我が子に容赦ない攻撃をしかけてくる。剣を渡してしまったが故に非武装のように見えるが、彼には法力という、強大な力があった。それは剣よりも、はるかに恐ろしい武力となりえるものだった。
イワンの紫の瞳は、紅く光っている。
邪悪な笑顔で、彼は右手を挙げた。
たちまち暴風が起こり、ボリスを吹き飛ばさんばかりに荒れ狂う。
「いつまで耐えられる?」
陰惨な喜びの声が降りそそぐ。
ボリスは両耳をおさえた。激しい風の音に、鼓膜が裂かれるのではないかと思ったのだ。
けれど、聴覚を気にしている暇はなかった。
吹きすさぶ風の中に、イワンは平然と立っていた。自然の力を自在に操る彼には、自然の猛威は及ばない。
その手に、雷が宿っている。
風の渦に身体を締めつけられ、ボリスには、もう身動きすら自由にできない。
「さあ、殺すのだ。天空の王よ。あまりにも弱き、あわれで無力な王子を、その手で殺せ。命を奪うのは、与えし者にのみ許しを得られる罪だ。ひとおもいに楽にしてやるがいい。しかし、案ずることはない」
渦巻く風の向こう側に、勝利に酔う邪王の姿が見えた。淡い金髪から炎が舞い上がる。それは赤く、そして青かった。
「その体が滅びることはないのだ。我がためにのみ働くしもべとして、永遠にその美しさを保つだろう」
ボリスは慄然とした。しかし、なすすべもない。
「永遠に目覚めぬ。しかし真の死ではない。彼は転生もせず、この私の忠実な家臣となる。その身があるかぎり、永遠に」
邪王に操られた父は闇の魔力を雷に宿らせている。本来ならば、雷電はボリスにとって無害だが、その魔力を持った雷は、見るだけでも彼の身体を傷つける。黒い光は、すでに彼の眼に鋭い痛みを起こしていた。
イワンは雷を乗せた手を息子に向ける。
ボリスは両目を閉じた。
「父上……申し訳ありません。僕はあなたを救うことが出来なかった」
暗い闇の中で、ボリスはエルダの姿を思い浮かべた。そして、彼を庇い、ここから消えたマーロウを。
「マーロウ、君は無事だろうか。すまない、エルダ。君の大切な友を守れず、君との約束も果たせなかった。弱い僕を許してくれ」
イワンが手を振り上げた。そのとき。
すがすがしい、優美な声がかすかに聞こえた。
神を讃え、その庇護を乞いねがう歌だ。
「なに……!?」
細く白い光がひとすじ、ボリスに降り注いできた。そのあたたかさに、彼は眼を開く。白い花びらが雪のように舞い散り、積もっていく。そして、もうひとすじ、もうひとすじと、白い光がつぎつぎに射してきた。花びらと一緒に天からはなたれたようだった。
「これは……この光はなんだ……」
邪王に初めて、狼狽が見えた。自信に満ちた態度が崩れ、声に震えがはしっている。その碧い瞳が、きょろきょろと動きだした。
光のすじは次第に太くなり、あたりを明るく覆っていく。
イワンが倒れ、光の中に身を横たえた。
闇が光に浸食されていく。
あまりの眩しさにボリスは目を開けていられない。だが、父がどうなったのか確かめなければならない、という一心で、あたり一帯に目を走らせた。
ふと、その光の中に気高い女性の影が現れた。長い髪をゆるやかに波打たせ、頭には、大きな花の冠をいただいているらしい。髪も、服も、なにもかもが白い。そして、顔立ちもわからぬほど眩しい光に包まれていた。
「エルダ……?」
ボリスは目を細めて光から目を庇い、その女性を見つめた。しかし彼女はボリスに一瞥しただけで、すぐに背を向けてしまった。
かがんだ彼女は、そっとイワンを抱き起こした。そして、彼を仰向けに寝かせ、その額に手をあてた。
「父上!」
ボリスは叫んだ。そして、二人のところに駆けようとしたが、まるで光に押し戻されるかのように、ちっとも前に進めなかった。
女性はイワンの頬に手をすべらせ、頭の冠から、花を一輪、ぬきとった。
「父上! エルダ!」
必死に叫んだが、彼女は振り向かなかった。
邪王の姿は、すでにどこにもない。気配すら残さず、消えてしまった。
彼女は花をイワンの胸の上に置いた。そうしておいて、顔をイワンの耳元に近づける。彼の頭がわずかに動いた。彼女の手が、もう一度、彼の頬を撫でる。
ボリスは二人のほうに何とか行こうとしたが、強い力に押さえられて、少しも動けない。
やがて光は輝きを増し、二人の姿も見えなくなった。ボリス自身の足の先や、胸すらも。
ボリスは真っ白になった視界の隅に、小さな影を見た。それは夏の夜空のように蒼い、美しい薔薇の花だった。
そして、すべてを完全に光が満たした。
目を閉じても白い世界が、次の瞬間には、よく知っている部屋に変わっていた。
「殿下……?」
その声に、彼は身を起こした。
見慣れた顔がいくつも並んでいる。その表情はどれもが不安そうで、彼を案じている。氷のように冷たい手が、彼の右手を握っていた。
「お目覚めになったのですね……?」
ナボコフが、興奮を抑えて両手を揉みながら、かすれた声で言った。
「首尾よく、いったのですな」
すぐそばから、ペトロフ将軍の声がした。
ボリスは声のほうを見て、それから瞠目し、息を止めた。
ペトロフの腕の中で、エルダがぐったりとしている。その身体は黒々とした血に染まっていた。
「エルダ!」
氷のように冷たい手が、耐えかねたように、ボリスの手からするりと抜けた。
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