第2話 狂王との闘い

「父上!」


 彼女の胸を赤みの強い黄色の光が貫いた。


 けたたましい悲鳴。


 フィオが、長い爪のある手で頭を抱えて、ぐるぐると回りだした。その衣服の下からは細長い蛇の尾がくねって悶えている。回りながら、その身体が醜く変貌していく。

 呆然と、イワンは見上げていた。


「父上! お怪我は」


 黒い猫が走りよってきて、柔らかな毛を、彼の手にすりつけた。

「おのれ……!」

 魔物が再び翼を現し、強く羽ばたいた。布地が切り裂け、腐りかけた木材のような色の皮膚があらわになる。血管のような筋が全身に浮いており、脈打っている。

 ボリスはマーロウの中で、エルダの心から直接ながれでる声を聞いた。


(気をつけて! じきに、あなたをマーロウの身体で守れなくなります。私の魔力が彼に遮られたら、あなたはマーロウの外にはじき出されてしまう)


 のぞむところだ、とボリスは思った。

 戦うには、猫よりも人の姿でいるほうが、ずっと良い。本来の自分の姿に戻るほうが。


(でも、そうなれば魔物の力をまともに受けます。マーロウの中にいれば打撃は緩和されますが……外では私の魔力があなたの身体に反射されてしまうのです)


 そうはいっても、ここはイワンの夢の中だ。ボリスも、マーロウも、実体を伴ってここに来たわけではない。身体のように感じるものもここでは幻の一部にすぎず、本当の肉体は現実世界にあり、眠っている。

 だが、エルダは気を緩めなかった。


(幻とはいえ、そこで受けた攻撃は、精神を直接、傷つけます。夢の中での肉体は現実のものよりも魔力に弱いのです。どうか)


「貧弱な獣が私に楯突くとはな! 思い知らせてやるぞ、覚悟するがいい!」


 エルダの言葉が途切れた。

 ボリスにも、とても強く感じる。全身が総毛立つような魔の気配。

 次の瞬間、ボリスは突風に吹き飛ばされたような感覚に襲われた。

 いきなりのことで両目を閉じてしまったが、彼はすぐに瞼を開いた。


「……!」


 彼は、本来の姿に戻っていた。銀の髪と、紫の瞳。神人の証。

 倒れているイワンと、彼に寄りそうマーロウが、ひどく遠くに見える。ボリスは生まれながらの力で、飛ばされるのを止めようとした。いつも空を飛んでいるときに風に逆らうような要領で。だが、完全に止まるまで、いつもよりもエネルギーと時間がかかった。


「わが悪夢の中に自ら来るとは、なんと向こう見ずな者だ。それほど父親が大切か?」


 ボリスの心臓が高く鳴った。

 燃えさかる赤い炎を立ちのぼらせた、淡い金色の髪に、碧眼。整った顔は邪悪に歪んでいる。形のよい唇のあいだからのぞく歯は白く光っていたが、犬歯が非常に発達していた。


 闇夜色のマントを羽織った貴人。しかし、その全身はまがまがしさで覆われている。


「その勇気には賛辞を惜しまぬが」


 彼が両手を広げた。マントが揺れ、その奥から熱い風が吹き出した。紅の飾り帯がはためき、群青色の衣裳が揺らめく。

 風はボリスの頬を焼きながら、その周囲に渦巻いた。

 ボリスは目を落とし、父と黒猫の姿を探した。彼らの無事は、すぐに確認できた。

 父の髪も、マントも、まったく揺れていない。熱風に晒されているのは、ボリスだけのようだった。


「愚かな者は、死に急ぐことになるだろうとは考えもせず、ただ英雄のようにふるまうことを望み、危険を承知で飛びこんでくる!

 だが、わたしという存在を甘く見たものは、たとえ何者であっても、死をも救いと思うほどの苦痛の中で、永遠に悔いることとなるのだ!」


 狂王の声が、空間全体にとどろいた。

 ボリスの耳の奥で、その太い声がこだまする。

 闇夜色のマントが広がり、風にはためきながらうねって、翼となった。蝙蝠のそれを思わせる、黒くて薄い皮。


「闇に堕ちよ!」


 その声と同時に、邪悪な王がボリスに襲いかかった。長い爪のある手のひらから、紅い光の剣が出現する。


 ボリスは『雷光剣』を抜いた。そして、肉薄する魔力の結晶に立ち向かった。

 刃がふれあい、澄んだ音が響く。夢の中とは思えない、確かな力が両腕を走った。痺れるような衝撃は現実の世界で戦うときとなんら変わりない。そして、血よりも紅い、その剣の表面には、黒い糸のようなものがまとわりついていた。


「おまえにも問わねばならぬな。天空の王子よ」


 彼の髪にまとわりつく炎が勢いを弱めた。そして本来の色が現れる。


 剣のそばに顔を近づけ、彼は言った。


「わたしと同じ色の髪と瞳をもつ娘を知っているのではないか?」


 ボリスは動揺を表情には出さなかった。


「……そんな色の髪と眼は、見れば忘れない」


 静かな返答に、彼は一瞬、まぶたを閉じた。


「そうか」

 そのまま顔を遠ざからせる。

「では、堕ちるがいい!」


 翼が広がって、すさまじい勢いでボリスを叩いた。背中に激しい痛みが広がり、呼吸が止まる。その瞬間、彼は剣を取り落とし、バランスを崩して墜落をはじめた。

 耳元で風が鳴る。


 ボリスは体内に存在する揚力を高めて落ちていく身体を支えようとしたが、布でできた袋が水面に浮かばないのと同じように、ただ沈むしかないといったぐあいに落ちていった。


 夢の中で地表に激突しても、無事でいられるものなのか。

 意識が朦朧としてきたボリスが、かすかにそう思った瞬間、なにかに襟首をつかまれた。


「……! マーロウ」


 だが、その姿はいつもの小さな黒い猫ではなかった。

 しなやかな、ほそい身体の黒豹。強靭な筋肉に生命力をたぎらせ、大きく鋭い牙と爪が、剣と槍のように光っている。


「お怪我はありませんか、殿下」


 ボリスを下ろして、彼女は言った。


「大丈夫だ、ありがとう」

「剣は、どこに?」

 黄金の瞳がボリスの手を見る。彼は、その言葉にはっとした。

 落とした剣は、あたりには見当たらない。薄い闇の広がる空間を切り裂いて、そのままどこかに消え去ってしまったようだった。


「しまった」


 大切な武器をひとつ、失ってしまった。これで、ボリスに残された力は、生まれた時に授かった雷だけとなってしまった。それだけで、どこまで戦えるものか。

 赤黒い光の矢が、ボリスの足元に突きたった。見上げると、自らの放つ魔力に身を包んだ人間の王が、弓に矢を番えてボリスを狙っている。


 ボリスが落ちていったので、魔法の剣を弓矢に変えたのだ。


「殿下、気をつけて!」

「ボリス!」

 マーロウとイワンが同時に叫んだ。

 暗い血の色をした矢が、次々と降ってくる。ボリスは身をひねり、跳躍して避けた。ぎりぎりのところでかわしながら、父王から離れる。


「危ない!」


 ボリスの眼前に飛びこんできたマーロウの黒い身体に、矢が命中した。

 避けきれなかったボリスを庇ったのだ。

 音のない悲鳴。

 一瞬で、マーロウの姿は消えた。


「マーロウ!」


「ボリス!」


 動きを止めた息子の身体にイワンは両手を伸ばし、突きとばしながら矢を避ける。父子は転がって、何本もの矢から逃れた。

 邪悪な喜びの声が降りそそいだ。


「なかなか愉しませてくれるな。しぶとい者は好ましい。私を長い時間、喜びにとどまらせてくれる」


 イワンが黙ったまま、手に雷を宿らせた。神人に代々引き継がれる力。法力によるものだ。

 金色の雷はイワンの手のひらの上で球体となった。


「ここで、おまえたちの魂を悪夢に封じ、いずれは肉体も私が手に入れる。それまでは、この夢の世界で生きることを許してやろう」

 イワンが腕を振り、雷の球を放った。金の尾を引いて、彗星のように空を疾走する。だが、邪王には届かなかった。彼の魔法の矢に射抜かれて、砕けたのだ。その光景を、ボリスは信じがたいものを見る目で見上げた。


 かつて、父の雷がこれほど無力だったことがあるだろうか。そんな記憶はボリスにはない。


 深い闇をふくんだ低く暗い声が、重苦しい誇りを放つ。その不快な響きは、ボリスの耳の奥を、やすりで削るようにこすった。


「ここは私の統べる世界。空の民を治める、天空城の主の悪夢。囚われている王のいかなる力も、私を傷つけることはできぬ。なにをしようとも無駄なこと」


 この夢は、イワンのものだ。だが、それは呪いによって、この邪王の手の内にある。


 彼は唇をゆがめ、微笑んだ。しかし、その碧い瞳は邪悪な熱情に燃えている。口元だけに笑みをうかべ、邪王は独語のように言う。


「だが、そうだな……神人がどのようにして戦うものか、じっくりと見物してみたいものだ……」


 青白い手が闇の中をうごめいた。その手にある赤黒い光が、さらに黒くなる。

 なにをされるのか、イワンには正確に予測できた。


「ボリス!」


 闇の光が迫る前に、彼は腰の氷牙刀を息子に向けて投げた。これを持ったままでは、万に一つも、助かる道はない。


「逃げろ……!」


 イワンは赤黒い、邪悪な光に全身を飲みこまれ、あまりにも激しい痛みとおぞましさにのけぞり、絶叫した。

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