悪夢からの生還

第1話 甘美な悪夢

 過去の日々は、それが美しければ美しいほど、希望ある未来さえ霞ませてしまう。現在すらも色を失い、落ちていく。


 花の中にうずもれていた、愛しい人の姿。日ごとに強まる陽ざしの中で微笑む、恋しい人の顔。誰よりも、何よりも大切で、必要な存在。


 風の中に甘い花の芳香が満ちはじめたころ。イワンは彼女に出会った。


 蜂蜜色の髪と空色の瞳、ばら色の頬と唇。そして、光り輝かんばかりに白い肢体。彼女の全身は、不思議な光につつまれていた。それはイワンにとって、世界で最高の、そして唯一の光だった。


 ──フィオ。


 彼女はそう呼んで欲しいと言った。

 初めて会った日。

 春の陽が優しい木漏れ日をつくっていた日。


 針葉樹ロンドールの森で散策中に、『星の洞窟』の前で二人は出会った。


「何者だ? 空の民ではないな」


 氷牙刀に手をかけ、イワンは木陰に向かって呼びかけた。


「姿を見せよ」


 ふわり、と若葉色のスカートが広がる。

 木立の合間から現れたのは、黄みの強い茶色の髪の毛に空色の瞳をもった、若く、美しい女性だった。


 細い眉のしたで大きな瞳は生き生きと輝き、希望に満ちた光を放つ。そして、咲きはじめた花のつぼみのような唇や、仄かに染まったばら色の頬は、たまらなく愛らしい。


「お初にお目にかかります、イワン王」


 香り高い、優雅そのものの声だった。

 気品に満ちたお辞儀をし、彼女は風に髪を遊ばせている。


「わたくしは、空を旅する者。この地に花をお届けしに参りました」


 彼女の指さした先に、虹水晶を取りつけた船がある。古ぼけて、何度も修理した形跡があり、既に耐久力が尽きているように見える。


「では……天空人か? だが、その髪と瞳の色は……」

 娘は目を伏せ、静かに言った。


「わたくしには、異種の血が混じっているのです」

 その声が小さく、弱かったので、イワンは憐れみを誘われた。

 はるかな太古。天空人狩りよりも古い昔に人間と親しんだといわれる天空人の子孫。それは、まず目にすることのない存在ではあるが、イワンの父は、生前に一度だけ、それを語ったことがあった。

 しかし、その空の民は、いてはならない存在。だから、身を隠しながら空を旅するのだ。


「わたくしは、最後の一人」


「そうか」


 イワンは剣から手を離した。

 そして、それをきっかけに、二人は何度も逢った。イワンは彼女に新しい船を与えると約束したが、それで彼女が旅立ってしまうことを恐れて、なかなか渡しはしなかった。

 イワンは彼女に夢中になっていた。

 そして、フィオも、勇ましい王に心を捧げるようになった。

 だが、花の時期が終わり、彼女は、やがて時が尽きたのを知った。


「陛下。わたくしは、もう、ここにはいられません」


 あるとき、彼女はイワンの腕の中でささやいた。彼は驚いて、抱きしめた恋人の顔を見た。美しい顔がかげり、笑みは消えている。


「何を言う?」

「わたくしは、もう去らねばならないのです。明日は、お約束の船をいただけますわね」


 悲痛な声が、イワンの耳にこだました。


「フィオ。私は、そなたを手放せない。そなたを花嫁にすると決めたのだ」


 彼女はイワンの胸に顔を伏せた。


「私の妃になってくれ。天空城の女王に」


 彼女は震えだした。

「フィオ」

 苦しげな嗚咽の下から、かすかに笑いが漏れた。


「フィオ?」


 小さな忍び笑いは次第に大きくなり、やがて哄笑となった。イワンはぞっとして彼女から離れる。美しい顔は、醜くゆがんでいた。

「陛下? わたくしを妃にですって! 何もご存じないのね」


「貴様、フィオではないな!」


 蜂蜜色の髪の間から、尖った灰色の耳が飛び出した。


「いいえ、フィオよ。おまえはわたくしの正体を知らないのだもの。ずっと疑っていたのでしょう? 王子の母親が何者か」

 細い背中から、うすい皮膜を貼りつけた、おぞましい翼がつきやぶって広がった。


「ずっと疑ってきたのだろう! 愛した女が魔族の者ではないかと!」


 強風が渦巻いて、イワンの周りで狂ったように吹く。


「光の中から生まれた王子の背に、このような翼が無いか! かわいいおつむに、このような耳と角が無いか! あどけない唇の奥にこのような牙は無いか! 何時間も確かめただろう、天空の王よ!」


 魔物はぱっくり開いた口から炎を吹き上げた。その熱がイワンのマントを焦がす。彼は腕を上げ、顔を庇った。

 目が焼けるように痛い。


「……フィオ!」

 彼は叫んだ。

「見るがいい、おまえの花嫁の、真の姿を!」


 ──違う!


 イワンは心の中で激しく否定した。

 彼はフィオが本当は何者であるかを知っている。だが、それはこのようなものではない。彼女は空の民でも人間でもないが、決して魔族ではない。彼女は……。


「まだ、私を愛せるか」


「おまえは……フィオではない!」


 魔物は高く笑った。巨大な深紅の瞳が青く澄み、腕は細く、髪はしなやかさを取りもどしていく。翼が折りたたまれ、非力な背中に吸いこまれた。


「いいえ。わたくしですわ、国王陛下。わたくしをお忘れ?」


 蜂蜜色の髪が風に吹かれて、舞い上がった。白い顔を隠し、たなびいている。


「ボリスを産んだのは、わたくし。あなたの子を産み落としたのは……このフィオですわ。

 さあ、その腕で、わたくしを抱いてくださいまし。そうすれば思い出してくださいますわ。わたくしと過ごした日々のこと。あなたも、わたくしが恋しいのでしょう?」


 かぼそく、はかなげな両腕が開かれて、イワンを誘った。その微笑が彼には懐かしい。

 強風と炎に倒れたイワンは、全身をつつむ痺れを感じながら、初めて全霊で愛した人を見上げている。

 目の前の、幾度となく切望した愛しい者の姿に、彼は理性をなくした。


 こんなところに、彼女がいるはずが無い。

 平素の彼であったら、それが判ったはずだ。しかし、彼は餓えきっていた。

 もう永いあいだ、耐えてきたのだ。

 そばに彼女がいない寂しさに。


「──フィオ……」


 止めるすべを持たず、彼は腕をのばした。懐かしい、優しくて美しい身体に。懐かしい、あたたかくて清い心に。


 彼女が身をかがめ、手をさしのべた。

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