完璧に犯罪が消え去った世界

 今から数百年前、歴史的な海底に眠っている建造物を調査していた青年が偶々流れてきた氷山に閉じ込められてしまった。当時の技術では蘇生するのは不可能であったが、最新の医療を持って生き返らせる事に成功したと政府が発表すると世界中から賞賛の声が上がったのだった。こんな生命の奇跡は二度と起こらないであろうと全メディアが褒め称え、いかなる人種も惜しみない拍手を蘇った青年に送り続けたのだ。


 誰かが言った。

「ウエルカム、この世の天国に―――」

 

 しかし、蘇った青年Aは初めこそ全ての人類と関係者に感謝していたのだが、やがて、その顔からゆっくりと表情が曇り始めていったのだった。

「どうしたのだね? この所ずっと上の空だが」

 いつもの回診時、青年Aのカウンセリングを担当している医者がそう尋ねた。

「……いえ」

「何もないっていう表情じゃないだろう」

「……そうかもしれません」

「何が心に引っかかっているのか話してくれないか?」

「でも」

「話しにくいか」

「だって、確か先生は世界的な名医なんですよね。だから、そんな先生に、こんな事は」

「こんなこと?」

「た、大したことではないんですよ」

「ふむ」

「僕なんて偶々こんな状況でもなかったら医者にすら行けない程に貧乏でしたし。偉い先生にこんな小さい事は言いにくいというか」

 するとカウンセラーは頭を上げると屈託のない笑顔を浮かべていた。

「そんな事は気にしないでくれよ。確かに長い眠りから目覚めた君には昔からの友人と呼べる人は誰もいないのかもしれない。しかし、これから先の事は分からないだろう。もしかしたら3分後には君と私で酒を飲んでいるかもしれないだろ」

「え。先生は勤務中じゃ……」

「勤務中だから酒は美味いんじゃないか」

「……変な人ですね、先生は」

 気が緩んだのか。青年は少し笑顔を浮かべると、コールドスリープから目覚めた後ポツポツ気になった事を話し始めたのだった。


「ふむ。要するに言ってしまえば、君の目からすると、この世界はとても歪に思えると?」

 話しを聞き終えたカウンセラーは呟いた。

「はい。世界の人から助けていただいて何なんですが」

「いやいや、そんな事はないよ。それに何世代も時代が移り変わってしまったんだ。違和感があって当たり前というか」


「しかし、それにしても、この世界では全ての犯罪がなくなってしまった、なんて変じゃないですか」

 青年Aは等々我慢できずに言い切ってしまった。

「……」

「確かに僕が生まれた時代は平和じゃなかったですよ。貧困、戦争、差別、全くと言っていいほどなくなりはしなかった。僕らが子供の頃に夢見た平和な未来は殆ど存在しなかった。

 でも、ですよ。そこには確かな思いやりや人を助けようという気持ちがあったんです。どんなに否定しようとも、昔ながらの方法が好きな自分も居たんですよ」

「……苛ついているね」

「いや、そういう訳では」

「しかし、今の時代がイヤなんだろ」

「イヤというか。胡散臭くないですか」

「そうかい?」

「だって、こうして僕と普通に話している全ての人が犯罪を犯さなくなった、なんて信じられませんよ。僕と変わらないのに。僕と似たようなのに。僕と同じ世界なのに。貴方たちだけ全ての犯罪だけが無くなったなんて」

「許せない?」

「……そうは言いませんけど。信用できないというか」

「私達が全員でウソを付いているように感じている訳か」

「はい。率直に言えば」

「……数百年で犯罪行為そのものが無くなるほど人類が進化した、とは思えないかい?」

「思えません」

「なるほど。歪んでいるね、君は」 

 それは、ほんの小さな呟きだった。

 カウンセラーの、さらりとした成功者の視線が青年Aの心を刺激した。目がカッと開かれて一瞬にして顔が赤く染まっていった。どう考えても自分の時代がバカにされたと感じた。


「歪んでなんて、いませんよ」

「そうかな」

「だって可笑しいでしょう。人間だって獣ですよ。冷静さを失えば、誰だって犯罪犯す可能性はある訳で」

「いや、ない」

「なんで、そんな断言できるんですか」

「できるからだよ」

「……じゃあ、僕が、ここで先生を殺したら、どうなるんですか?」

「む」

「僕はこの時代に生まれた訳ではないが、今こうして、この時代に存在している訳ですよ。この時代の教育は受けていないが、この時代の人間でもある。その人間が先生を殺す、これは犯罪ですよね」


「その可能性すらない」

 カウンセラーは言い切った。


「なっ」

「なぜなら、この時代の教育を受けていなくても君は犯罪を犯さないからだ」

「……そんなバカな」

「そんなに気になるのなら試しにやってみると良い」

「バカげてる」

「ほら」

 カウンセラーは貧乏人を見下す視線を向けた。挑発に我慢できなくなった青年はカウンセラーの首に目掛けて犬のように飛びかかろうとしたのだ。殺さないまでもボコボコにしてやれば暴行罪になるのだから何も問題はないと考えていた。


 しかし、次の瞬間、青年Aは倒れてしまったのだ。

 悶絶して動けなくなってしまった。


 その哀れな姿を見てカウンセラーは言った。

「2016年、既に監視カメラによって怪しい動きをした人間を特定する、というプログラムは現実に設置されていた。

 今は犯罪を犯そうとした瞬間の脳の電気信号のパターンは解明されているんだよ。空気中に撒かれたサンプルによって、犯罪を犯そうとした瞬間、脳を停止させるようになっている。つまりどんな人間でも犯罪は犯せないようになった訳だ」

 青年Aはゾッとした。

「……そ、そんな、それじゃあ自由なんてない。生きていない。まるで死んでいるようなものじゃないですか」


「そうさ。だから、あの時に言ったろ。―――ウエルカム、この「世」の天国に」

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