ババアリンクシステム

 僕らは結婚を控えていた。

 相手の名前はアヤという女性であり、半年ほど前に喫茶店でバイトをしていた所で出合っていた。初めは普段しているナンパの延長線上にあるような会話で僕はウエイトレスをしていたアヤに話し掛けていたのだが、それとなく時間が過ぎ去っていくと、いつの間にか僕らは惹かれ合うようになっていった。

 他人に対する気の使い方や物を選ぶセンス、控えめな外見、どれをとっても僕らは相性が良かった。イヤな事なんてなにもない。お互いに自然でいられる事がとても心地よかったし、何よりアヤの笑顔はとても魅力的だった。


「結婚しよう」

 本当ならもっと演出したほうが感動的だったかも知れないが、僕は彼女のバイトを送り迎えしていた帰り道に告白していた。辺りは人気のない路地、街灯が一つ二つ建ち並んでいるだけでとてもオシャレな空間ではなかったし、僕は指輪すら用意していなかった。たぶん、誰に聞いたとしても結婚を申し出るには適さない状況だったと思う。でも、変に気張らずに自然な感じで言えたのはアヤのお陰だった。アヤも僕との結婚をずっと待っていてくれた。アヤは泣きながら僕との結婚してくれという問いに何度も頷いてくれたのだった。


 問題が起きたのは、結婚の報告を二人の両親報告した後だった。これからの未来を想像するだけで笑顔になってしまう帰り道、結婚式や同居する場所を探す事についてアヤと話していた所、近所に住んでいるおばさん達が話し掛けてきたのだ。なんでも僕らが出合って半年で結婚した事を聞きつけたらしい。

 というのも、アヤは喫茶店でウエイトレスのアルバイトを始めるまでの数年間、ソープランドで働いていた。その事について聞きたい顔をして近寄ってきたのだった。

「ねえ、貴方達、大丈夫なの?」

「何がですか」

「ほら、だってねぇ」「そうよ、そうよ」

「?」

「だって貴方の奥さん人には言えない仕事をしていたんでしょう」

「え」

「ほら体を売っていたとか」

 おばさん達は困った顔をしているアヤを見てニヤニヤとした笑みを浮かべていた。集団でアヤの過去をほじくり出して痛めつけようとしているのだ。その顔を見て僕は思わずカッと頭に血が上りそうなになった。その空気を察したアヤが僕の手をギュッと握りしめてくれなかったら、近所のおばさん達に怒鳴り散らしてしまったかもしれない。

 アヤがソープで働いていた事は僕はとっくに知ってた。付き合う前、アヤから説明された時はショックだったけれど、きちんと僕自身も受け入れた二人の問題であって、他人からとやかく言われるような問題ではないと考えていた。だから今更ほじくり出された所で関心はなかったが、それを利用して他人を嬲ろうとしているババアが気に入らなかったのだ。

「失礼します」

「あ」

 僕はアヤの手を引っぱって強引にババア達から距離を取っていった。こんな腐った場所になんか長居したくなかったからだ。


 ムカムカした気持ちを引きずったまま駅前に差しかかった所だったか。僕の高校時代の担任教師である女性と10年以上ぶりに出合ったのだ。当時と比べたら流石に年齢を重ねていたが、それでも現役教師という風格からか、僕の顔を見て直ぐに誰だか気がついた様子であった。

「あら、お久しぶりねぇ。元気だった?」

「はい、先生も変わらず」

「いやねぇ。それじゃあ昔からオバーサンだったみたいじゃないの」

「はははは」

「卒業してから10年で愛想笑いぐらいは身に付けたという事ね」

「手厳しいですよ。あ、こっち僕の妻になるアヤです」

 と言って僕が紹介しようとしていた時の事である。先生は真剣な顔でズイッと僕に近寄ってきた。

「知ってるわ。ソープランドで働いていた子よね」

「え。どうして、それを」

「皆知ってるわよ。貴方、そんな子と結婚しても大丈夫なの? ちゃんとした家庭を作れるの? 子供が出来てから不幸にならない?」

 矢継ぎ早に話し掛けてくる先生を見て僕は訳が分からなかった。久々に出合っただけで近況の報告などしてこなかったし、この出会いだって偶々でしかない。それなのにどうやって僕らの過去を知り得たというのだろうか。少し気味が悪かった。

「……」

「そんな警戒しないでよ」と先生。

「……」

「みんな心配してるのよ」

 みんな?

「みんなよ。貴方たちの結婚について」

「皆って?」

「みんなはみんなよ。これからの事を考えれば不安な要素は減らした方が良いでしょう。結婚するというのはそういう事なんですから」

「……」

「しかも、そのアヤって子は、ソープで働く前はネットで売春をしていたのよ」

「え」

「家出サイト系で出会いを求めては転々としていたらしいのよ。普通の女の子がする事じゃないでしょう。怪しい人とかとの繋がりもあるかもしれないわよ」

 これは知らなかった。僕は思わず「本当なの?」という目でアヤの事を見てしまった。するとアヤは申し訳なさそうに目を伏せて、今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべていたのだった。

 婚約したというのに。

 これから幸せな結婚生活が待っているというのに。

 愛している人に対して、こんな顔をさせてしまった自分を僕は恥じた。そして直ぐにアヤの手を引っぱって改札を通り抜けていったのだった。背後から先生のどす黒い声が届きそうになったが、僕らは耳を閉じるようにして全力で駆け抜けていったのだった。


 電車に飛び乗って時間ができたが、僕はアヤを問い詰めるような真似はしなかった。過去がどうあれ、今は100パーセント相手を思い遣っている心が通じていると信じていた。それだけは揺るぎなかった。だから今更僕の知らなかった過去が一つ二つ出てきた所でボクのアヤに対する愛情が揺らぐ事はなかった。それはアヤも同じ気持ちだったのだろう。隣に座る彼女は隠していて申し訳ないという顔はしていたが、僕に全ての過去を説明しようとする素振りはみせなかった。僕もそれで良いと思った。今の彼女の気持ちに疑問が浮かばない限りどんな過去があっても関係ないからだ。

「……ただ、1つ、不思議なのよ」

 電車にゆられて数十分、ふとアヤは呟いた。

「なにが」

「私がネットでしていた事を誰かに話した事はないの」

「え」

「……若気の至り、というか恥だと感じていたから話してこなかったの。それなのにどうやってあの担任の人は知ったのかしら」

「それは……」

 アヤの昔のお客が僕の同級生だったという可能性ならあり得るかもしれないが、それにしてもあの先生の口ぶりは詳しすぎるんじゃないだろうか。まるで当事者だ。実際にアヤと関係した人と話しているかのような気分にさせられた。流石にあまり良い感じではなかった。僕とアヤは電車に揺られている間、どちらから話し掛けると言う事は無かったのだった。


 僕が住んでいるマンションにアヤとたどり着いたの深夜になった頃であった。遠方の両親に結婚報告した後だったので疲れも溜まっており、ビールを飲んだら今すぐにでもベッドに倒れ込んでしまい気持ちであった。

 ただ、アヤと同居している間に作ったルールで、帰宅後して直ぐに明日の準備をする、というものがあった。過去に、ゴミ捨てとか、どっちかがやるだろうとあぐらを掻いてしまうと生活が上手くいかなくなってしまう事があったからであった。どんなに疲れていても今日の事は今日の内にやればケンカする事も減っていく。いつまでも二人で愛し合っていたからこそのルールであった。

 ゴミ捨てが任されていた僕は袋を閉じると、24時間管理されているゴミステーションまで運んでいったのである。その間に皿洗い担当のアヤが台所の掃除を始めている事だろう。早く戻って手伝ってあげよう。階段を登っていく僕は少し駆け足になっていた。

「ねえ、ちょっと」

 その時だった。背後からマンションの管理人さんに話し掛けられたのである。

「ああ、どうも今晩は」

「今晩わ」

「何か用ですか?」

「ええ。ちょっと話したい事があってね」

 僕はイヤな予感がした。というのも管理人とは名ばかりで、この人は殆ど姿を見掛ける事は無かったのだ。廊下の蛍光灯が切れていると管理組合に電話すると交換して貰えるし、掃除は週に一回業者の方が入っているし、それ以外の面倒事はマンションの住民会で対処している。そして、そもそも管理人なのにマンションに常駐していないのだから、その姿を見掛ける事は珍しかったのだった。

 しかも、その上、話し掛けられた事などいままで一度もなかった。

「僕に話したい事?」

「ええ、そう」

「なんですか」

「最近、結婚するらしいじゃないの」

「……ああ、はい。それで来月か再来月かには引っ越しするという胸を住民会で話しましたが」

「らしいわね」

「それが?」

 すると、管理人のババアはこう言った。

「だって相手は元とはいえ風俗嬢でしょう。そんな結婚やめなさいよ」

「……」

「もし二人に子供でもできてみなさい。お母さんが風俗で働いていたなど分かったらショックを受けるんじゃないの? 誰かまわず又を開いてたのよ。イヤらしいわ」

「……」

「ネットで相手を見つけて金を取っていたなんてヤクザと繋がりが合っても不思議じゃない相手なのよ。今すぐ別れた方が二人の為よ。風俗者が付き合えるのはヒモか犯罪者と相場が決まってるんだから」

「……」

「しかもよ。あの子は学生時代、教師とだって寝ていたらしいじゃないの。信じられる? 十代の子が大人に媚び売ってお金を稼いでいたなんて。そんな大人がまともな筈ないじゃないの」

「……」

「絶対にあの女には裏があるのよ」

 管理人のババアは一人でブツブツと呟いていた。確かにアヤが学生時代にやっていた事など僕は知らない。もしかしたら、この薄気味悪いババアが言っている事は本当なのかもしれない。それは何れ本人から聞いてみるのも良いし、聞かなくたってどうでもいい。僕らの結婚にはなんら関わり合いがないからだ。 

 でも、1つだけ僕は聞いた。

「どうして、そんなにアヤの事を知っているんですか?」

「そんなのみんな知ってるわよ」

 ババアは平然としていた。

「みんなって?」

「みんなはみんなよ。貴方の周りにいるみんなよ」

「失礼ですが、管理人さんの事、僕は名前だって知らないんですよ。それを、そんな親しげに言われても」

「親しいも何も、私は知っているんだもの。だから心配しているのよ。貴方のために心配しているの。みんな」

「なんですか、それ。失礼じゃないんですか」

「失礼じゃないわよ」

「だって心配しているんだもの」

「お節介ですよ」

「いいえ。地域の為よ。そうやってみんなで輪を守っていくの。そうやってきたんだから。これからもそうやっていくのよ」

「……だからアヤの事を調べてもしかたないと?」

「そうよ。売春なんて怪しい事をしている人が悪いんだから。そういう怪しい人からは守らないと。みんなで繋げて」

「繋げて?」

「ええ。そうよ。それがババアだもの」

 管理人は冷たく笑っていた。


 僕は一人で部屋に戻った。管理人のババアはいかれている。あの元担任もいかれている。近所のババアだっていかれている。よく仕組みは分からないが、皆で地域住人を監視しているのが普通な訳ないじゃないか。まるでストーカーのように婚約者の情報を全てを知られていく、そして、ババの口から婚約者の過去を知っていくなんて気味が悪かったのだ。側にだって居たくなかった。

「ったく、あれがババアの正体かよ」

 僕は靴を脱いだ。そして玄関から、台所で食器を洗っているであろうアヤの元に近寄っていった。彼女はカチャカチャとお皿をすすいでいた。二人分の量なので全てを任せっきりにさせるのは悪いだろう。

 いずれ結婚すれば、この二人の作業が当たり前になっていくのだろう。

 子が生まれ、子が育ち。

 そして、月日を重ねていく内に本当の夫婦となり。

 僕らはゆっくりと老いていくのだ。

 アヤの方が僕より一回りほど年上ではあったが、こうやって二人で年取っていくのもいいのかもしれない。


「ねえ」

 ふと食器を洗ったままアヤがポツリと呟いた。

 それだけで僕は背筋がゾッとした。まずビールを飲もうと冷蔵庫に向かって伸ばしていた手を止めてしまった。イヤな予感がしたのだ。偶発的なものではなく、また、こっちの勝手な被害妄想でもない。今日という短い間、イヤになるほど繰り返し体験してきたから僕には直ぐ分かったのだった。幽霊の存在など信じられないが、それの体験を繰り返せば誰だって似た現象には敏感になるというものではないか。


 アヤは言った。

「貴方って学生の頃、友達を自殺に追い込むほど虐めをしていたらしいわね」


 僕は冷や汗が止まらなかった。

 それは司法の力によって封印された僕の過去だった。当時の関係者以外は知りようもない事実だった。興信所に大金を支払おうが、絶対にたどり着けない筈のゴールであった。それを何故、アヤは知ったのか。

 僕にはもう分かっていた。

 指先が震えていた。

 恐ろしい。

 でも、納得できた。


 今日出合って来た人達と同じく。  

 彼女も又、ババアなのだから。

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