エヴァーランドへ

 その街は疲れていた。

 戦争が始まって既に十五年、前線からは遠く離れたセデの街も、その影響を免れ得なかった。男達は次々と兵隊にとられ、街に残っているのは老人と女子供ばかり。食糧の供給も滞るようになり、ここ何年もの間誰一人満足に食べたという覚えはない。

 だが、戦争が始まってから生まれた少年にとっては、それが普通なのだ。

 カルツは今年十二歳。父親は、彼が物心つく前に戦地へ行ってしまったので、顔も覚えていない。母親は、いつもぼんやりと窓辺に腰かけて、外を眺めている。カルツが話しかけても聞いていないか、生返事をするだけ。そうではない母の姿を見たことがないので、そういうものなのだとカルツは思っている。

 配給の食糧を受け取りに行くのも、カルツの仕事だ。いつあるか分からない次の配給まで母子二人が生きのびねばならない、その割には十二の子供にでも軽すぎる食糧を抱えて、埃っぽい通りを歩いて帰る。窓辺にいる母の目にカルツの姿は映っている筈だが、いつも母は気付かない。薄暗い家の中に入り、食卓の上に袋を置く。それから、袋の中身を狭い家のあちこちに分散して隠す。お腹をすかせた街の住民が勝手に入ってきて食糧を盗んでいっても、母は全く気付かないからだ。

 小さなパンが一つ。それが今日初めて彼が口にするもの。無言でむしゃむしゃと食べる。

 食べ終えて、彼は立ち上がる。

「出かけてくるよ、母さん」

 母は窓の外を眺めたまま、返事はない。

「帰りは、遅くなるかもしれない」

「――ああ」

 ああ、以外の言葉を前に聞いたのは、いつだったろう。尤も、別にカルツも期待はしていない。

 カルツが家を出ると、向こうの角のあたりで人影が見え隠れした。彼がいなくなるのを待って、食糧を盗みに入るつもりなのだろう。今日配給されたばかりだから数日は飢える筈はないのだが、食糧は多いにこしたことはない、ということらしい。彼らの目的は分かっていたが、カルツは構わずに歩いていった。一日中家に張りついていろと言うのか? 「ああ」しか言わない母のそばで?

 出かけるとは言ったが、別に行かなければならない所がある訳でもないし、帰りが遅くなるような用事がある訳でもない。街の中はどこも似たような物だ。食糧のとりあい、呆けたように道端に座っている老人、遠くの子供の泣き声。カルツの知る、いつもの街の光景だ。だから彼は、そうではないものを見に行く。

 街の外は砂漠。どこまでも続く砂漠。これも彼が知る限り姿を変えたことはないが、少なくともここは街の中ではない。昼は、風が砂丘の光と影の形を変え、夜は満天の星が彼の頭上を巡る。飽きるまでそれを眺めて、家に帰る。どんな時間に帰っても、母は窓辺に座っている。きっと母は窓の外の埃っぽい通りに、まだ飽きていないのだろう。

 あの向こうには何があるの、と尋ねたことがある。母は答えてはくれなかった。

 街の中の老人の一人は、こう答えた。

「砂漠じゃよ。あの向こうは、どこまでいっても砂漠なんじゃ」

 でも、その向こうは? そう尋ねても、老人は首を振るばかりで何も言わなかった。

「戦争だよ」

 そう教えてくれたのは、光を失って戦地から街に戻ってきた男だった。「砂漠の向こうから、戦争がやって来るのさ」それがカルツが今までに聞いた、一番具体的な答えだった。戦争の名前は、ハランと言うという。

 だが、違う答えを返した者がいた。

 カルツが行くより先に彼は街の外に立っていて、砂漠を見つめていた。年は多分、カルツより二、三歳上。この街の者ではない。

「何をしているの?」

 カルツが尋ねると、少年は言った。

「砂漠の向こうへ、行くんだ」

「あの向こうには何があるの?」

「エヴァーランド」それが、少年の答えだ。

 エヴァーランド? エヴァーランドって何? カルツが尋ねると、少年は言った。

「ここではないところ。この向こうのどこかに、きっとあるんだ」

 そう言うと、歩き出す。

 砂漠。どこまでも続く砂漠。見渡す限り、空と砂以外何もない。けれども。

 あの向こうには何があるの?

 何かがある、といつもカルツは思っていた。少年は言った。エヴァーランド。

 ここではないところ。

「待……待って。僕も、行くよ」

 カルツは少年を追いかけた。少年は立ち止まって、彼を待ってくれた。

 追いついてから、カルツは後ろを振り返る。セデの街。埃っぽい通りを眺めている母。どんなに帰りが遅くなっても、母は気付かないだろう。

 砂漠の向こうを目指して、カルツと少年は歩く。砂の上に残る足跡が、太陽に照らされている。

 ここではないところに、僕は行く。

 エヴァーランドへ。

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