幸福
小さい頃から、良く言われたものでございますよ。
お前は幸福の中にいる子だ、お前を見ているとこちらまで幸せな気分になるって。
私は、三人姉妹の末娘として生まれました。私を産んだ直後に、母様は亡くなってしまいました。もともと、身体の弱い人だったそうです。母様の顔を知らない私を、父様はとりわけ可愛がって下さいました。私に〝幸福〟という意味の名をつけて下すったのも父様でございます。父様は私の頭をなでながら、何度も私の名を読んで下さいました。
〝幸福〟、〝幸福〟って。
だから私は、本当に幸福だったのでございます。母様はいなくとも、優しい父様と二人の姉様のふりそそぐ春の日射しのようなあたたかな愛情が、私の周囲にはいつもあふれていたのですもの。
私の父様は、まあ大したものもない田舎ではございますが、そのあたりの領主をしておりました。けれども、幼い頃の私にとりましては、そこは全く楽園でございましたよ。私達家族の住んでおりました小さなお城の裏門を抜けて、外へ走っていきますと、川のせせらぎとゆるやかにうねる丘の向こうに、緑豊かな森が広がっているのでございます。よく姉様達と森へ遊びに行ったものですよ。本当は父様も一緒に行きたかったのですけれど、さすがに父様にはお仕事がありましたから。
シラーヌ姉様は、ああ、これは一番上の姉様なのですけれど、あまり遠くに行かないようにね、と良く私に注意なさいました。私はすぐに姉様達とはぐれてしまうのですよ、森の中があんまり楽しかったものですから、ついつい一人で勝手に歩いて行ってしまって。けれども、はぐれてしまったことに気付いても、私はあまり不安がったり泣いたりはしませんでした。私にはわかっていたのです。そういう時はいつも、シラーヌ姉様が私とはぐれたところに残っていらして、下のサリナ姉様が人を呼びにお城に戻るのです。そうすると、何のお仕事をなさっている時でも、父様は必ず仕事の手をとめて私を探しに来て下さるのです。私は森の中で、父様が迎えに来て下さるのをただ待っていればよかったのです。
私が八歳のとき、一番上のシラーヌ姉様は、父様と同じような近隣の地方領主の方のもとへ嫁いでゆかれました。花嫁衣装に身を包んだ姉様の美しさと言ったら、それはもう言葉では表しようもございません。いつか自分もこれを着る日が来るのかと、その日に思いをめぐらせてはうっとりとしたものです。
どうやら父様は、私に婿をとらせて領主を継がせるつもりだったようでございます。それから四年後、私が十二歳の時に下のサリナ姉様も嫁いでゆかれました。
花嫁衣装のサリナ姉様を、結婚相手の方の領地から馬車が迎えにいらっしゃいます。田舎のことですから婚礼の馬車と言っても質素なものですが、それに乗り込む姉様はとても幸せそうで、私は姉様を迎えにこの馬車をよこされた方のことを想像しました。そして、どなたかがこのように私を迎えに来て下さるのを、心の中で夢見たのです。
一人残った私を、父様はそれまで以上に可愛がってくださいました。姉様がいなくなって少しお城も淋しくなりましたが、日々は幸福にゆるやかに過ぎていきます。
十五の夏のことでございました。中央の方から、高貴な方々が父様の領地に避暑にいらっしゃいました。何でも、中央の方にはこんなに緑がないのだそうでございます。淋しかったお城は一気に華やかになりました。
その方々の中に、あの方がいらっしゃったのです。
私を妻に、というあの方の望みを、父様は快く許して下さいました。三人の娘の全てが父様のもとを離れて行ってしまうのは悲しんでいらしたに違いありませんが、田舎で一生を終えるより高貴な方と共に都に行った方が私にとって幸福だろうと、父様はお考えになったらしいのです。
あの方の馬車が私を迎えに来て下さった日の喜びを、私は忘れることができません。父様も私もその地方の誰も見たことのないような、それはそれは素晴らしい馬車が父様の小さなお城の前に止まったのです。私は幸福でした。私は世界一幸福な人間でした。
生まれて初めて見た都は、確かに私の田舎に比べると少し乾燥した緑の少ないところでしたが、夢のような壮麗な建物の立ち並ぶ素晴らしい都でした。そして何より、〝幸福〟、〝幸福〟と私の名を呼んで下さるあの方がいらっしゃいました。私が嫁いですぐにあの方のお父上がお亡くなりになり、少しの間あの方のお顔は暗く沈んだのですけれど、私とあの方の間の初めての子供が産まれると、私達の生活にも輝きが戻って参りました。
その日々が、不意に断ち切られてしまいました。ある日突然、見慣れぬ服装の男達が押し寄せて、あの方に無理難題をつきつけたのです。できなければ、殺すと彼らは言いました。だから私は彼らに言ってやったのです、あの方を殺すくらいなら、私を連れていきなさいって。ええ、あの方のお役に立てるのですもの、怖くなんてありませんでしたわ。それにあの方は、必ず私を迎えに行くと、約束して下すったのです。あの、婚礼の時のように。何とうれしいことでしょう。
私は、彼らの国に連れていかれました。私のいた都よりも更に緑の少ない、荒涼とした所です。彼らは初めのうち私をちやほやしましたけれど、次第に構いつけなくなりました。どうやら、私の名前は異国では〝幸福〟ではなく、違うことを意味するようです。私を連れてきてそばに置いていた王が急な病で死に、戦争が始まると、皆私を疎むようになり、砂漠の方へと追いやりました。砂漠の中で私、迷子になってしまいました。でも私、子供の頃からよく分かっておりますのよ。じっと待っていれば、必ず誰かが迎えに来てくれるのです。かつては父様が……そして今は、あの方が。だって、あの方は、必ず迎えに行くと言って下すったのですもの。
私は、世界一の幸福者でございます。
「で、あんたのいい人はいつ迎えに来てくれるんだい?」
話を聞いていた男達の一人がからかい気味に尋ねた。
薄汚れた白髪、ほとんど盲いたその老婆は、唇の端にしわを寄せて答えた。
この戦争が終わったら、きっと迎えに来て下さいますわ……あの方が。
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