I3 真銅 葉月

 何かに押し潰される夢を見ていた。

 夢だということがわかっているのに、どうしても逃れられなかった。重い。とにかく身体が重い。まるで、自分の身体じゃないみたいだ。

(何だ。そんなのいつものことじゃない)

 そう思うと、ふっと身体が軽くなった。

(起きなさい)

 誰かの呼ぶ声がする。

(起きなさい、早く起きなさい……)


「いい加減に起きなさい!」

 誰かが強く、私を揺り起こす感触があった。うっすらと目を開くと、見慣れない中年の女性の顔がすぐそばにある。

「どうしたの?」

 目をこすりつつ私がつぶやくと、女性は言う。

「どうしたのじゃないわよ。早く起きないと、学校遅れるわよ」

 時計を見る。――七時半。

 学校がどこにあるのか知らないが、よっぽど近所でない限り絶対に間に合わない時間である。

「何でもっと早く起こしてくれなかったの!?」

 いつも思うのだが、どうしてこう何処の親も、本当に危ない時間になるまで起こしてくれないのだろう?

「七時からずっと起こしてたわよ。あんたの寝起きが悪すぎるんじゃないの」

 言われてみると、確かに寝起きは悪い。妙に布団が重いし、上体を起こすのも億劫である。頭も何だかすっきりしない。相当この身体は疲れているようだ。きっと連日夜更かしでもしていたのだろう、迷惑な話だ。

 遅刻して評価が下がるのは私ではないが、他人のことで怒られるのは嫌である。とにかく起き上がって、急いで壁にかけてあった制服に手を伸ばした。

「ご飯は、葉月」

「いらない、時間ない」

 着替えて即、鞄を持って飛び出そうとしたところを、後ろから呼び止められる。

「カギ、カギ。どうやって自転車乗るつもりなの」

(知るわけないでしょ、そんなこと)

 と言いたいのをこらえて、鍵を受け取って玄関から出る。マンションの一室だったらしく、似たようなドアがいくつも並んでいる。

 振り返ると、やはり同じドアの上に、部屋番号と「真銅」というネームプレートがかかっていた。どうやらこの少女の名前は、真銅シンドウ 葉月ハヅキというようだ。それだけ確認すると、「私」は葉月の自転車の置いてあるところへと階段を駆け降りていった。


 ――疲れた。

 幸い(?)葉月の学校は自転車で四十分のところにあったので、全速力で走らせて何とか間に合ったのだが……疲れたのは葉月の身体でも、「疲れた」と感じるのは私なのだからたまったものではない。

 私の名前はアイ。ただしこれは、自分でつけた名前である。今は、一時的に真銅葉月の身体を借りる身だ。

 私自身の身体が何処にあるのか、私は知らない。というより、私は自分については何も知らない。覚えていない。ただ、朝目が覚めると誰かの身体の中にいて、「これは私じゃない」と思う生活がしばらく続いている。

 どうでもいいが、できればもう少し健康的な生活を送っている人の身体をお借りしたいものだ。寝不足に朝食抜き、全力疾走なんてきつすぎる。

 こんな苦労をしてまで、他人のために学校に来る必要もないのではないか、と時々感じる。別に学校に遅刻しようとさぼろうと、名前に傷がつくのは葉月であって「私」ではないんだし。でも、いくら私が宿主を選んだのではないとは言え、勝手に身体を借りている以上できるかぎり「葉月」として生活するのが最低限の義務ではないかと思うのだ。私が抜けた後、もし葉月が戻ってきても、なるべく困らないように。

 だが、葉月自身の記憶をしっかり把握してくる暇がなかったので、学校への道順しかまだフィードバックしていない。自転車置き場で、彼女のクラスとか教室の場所とかを「思い出す」のに時間がかかり、校門は無事に通過したにもかかわらず結局ホームルームには遅刻してしまった。教室に駆け込むと、担任教師と思われる男性が一言。

「お、今日は1限には間に合ったな」

 ……葉月っていつもこんな風なの……?

「はーづきー、今日も重役出勤ごくろーさまー」

 教室後方の女子から声がかかり、全員がどっと笑う。遅刻しちゃいけないと思って頑張った私って一体……。

 でも。私が「葉月」として生活するのは、葉月のためだけではない。

 私のため。どこかに忘れてきてしまった「私」を見つけ出すためでもあるのだ。

 いくら葉月として生活しようとしても、私が葉月でない以上絶対に無理が生じる。葉月にはできるはずなのに、私にはできないこと。逆に、葉月ができてはいけないのに、私にはできてしまうこと。その矛盾した部分こそが、本当の「私」なのだ。

 ……とりあえず。

 本当の「私」は、葉月よりはまともな生活を送っているはずだ。絶対。それだけは自信ある。

 心の中で強く断言すると、私は葉月の席についた。


 1限目は英語。どうやら担任が英語の先生だったらしい。授業が始まると、一番前に座っていた男子に英文を読ませている。

「じゃ、今日は珍しくこの時間にいるから、真銅」

 ……いきなり和訳を当てられた。

 こういう性格の子だから、予習もちゃんとしてないんじゃないかとちょっと心配したが、葉月のノートには綺麗な字で和訳が書かれていた。であれば、下手に途中で当てられるよりは今やっているところがわかりやすくて有難い。私は葉月のノートを持って立ち上がると、予習の最初の行を読み上げた。

「キティが台所に行ったとき、母は手に揚げパンを持って料理をしていた」

 ――?

 ちょーっと違和感。

 ―― 一瞬の沈黙の後、教室中に大爆笑が巻き起こった。

 慌てて教科書の方を見る。そこに書いてあったのは、frying punの文字。……勿論「フライパン」である。

(葉月のバカーッ!!)

 内心わめいてももう遅い。

 顔から火が出るとはこのことである。自分の間違いではないとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。というより、自分の間違いであれば反省の余地もあるが、この場合はっきり言って怒るしかない。しばらく私は、葉月に対する非難の言葉の数々を心の中で叫び続けた。

「いやー、やっぱあんたって最高だわ」

 授業後、周囲に寄ってくるクラスメート達。お願い、そのことには触れないで。

「真銅がいると英語の授業でも面白いよなー」

 私はちっとも面白くない。

 しかし、生活態度はどうあれ、この葉月という少女はクラスでは結構人気者のようである。女子ばかりでなく、男子まで彼女の机の回りに集まって輪を作っている。

「漢文の時間も期待してるわよ、葉月」

 ……え? 今日、漢文もあるの?

 急いで鞄の中身をチェックする。起き抜けにそのまま鞄を掴んで飛び出してきた割には、忘れ物一つなく全部揃っている。前日のうちに準備してあったらしい。ちょっと意外。

 漢文のノートを開く。……絶句。

 英語もそうだったが、書き直しもほとんどなく綺麗な字で書かれているくせに、何か訳が的外れなのである。気付かずにそのまま読み上げたら、間違いなくまた爆笑を誘う。事前に気付いてよかったと、しみじみ思う私だった。


 とにかく大変な一日だった。

「このクラスの授業が進まないのは、真銅がいるからだ」

 と先生達が嘆くほど、葉月という少女はいつもにぎやかで、変なことばかり言ってクラスを沸かせていたらしい。しかも、どうも持ちネタの類いまであったらしく、「私」にまでそれを要求されたのだ。

 いくら葉月として生活しようとしても、私にだってできることとできないことがある。困った挙げ句、

「今日、私、記憶喪失だから」

 の一言で全部済ませた。葉月の日頃の言動から判断して、それくらいの妙なことは言っても大丈夫と思ったからだ。確かに大丈夫だったが、周囲は新しいネタの一つと解釈したらしい。そうなると、今度は

「ここは何処、私は誰?」

 などとオーバーに記憶喪失のふりをして見せなければいけない状況になってしまった。私にとってはあまり笑い事ではないのだが。

 それにしても、クラスで葉月は人気者だったようなのに、誰一人「私」が葉月ではないことに気がつかない。まさか赤の他人が乗り移ってますなんて考えないにしても、葉月の様子がいつもと違うとすら感じないらしい。周囲の期待にこたえて笑いをとり続けるのは、かなり疲れた。自転車全力疾走の方がまだいい。

 葉月ってパワフルな子だったんだなぁ……。つくづくそう思う。

 家に帰ってきた時にはクタクタだった。このまま寝てしまいたいくらいだったが、とりあえず明日の鞄の支度だけは済ませておこうと、葉月の机の引き出しを開ける。

 妙にノートの冊数が多い。一つ一つ見ていると、時々教科名がだぶっているものがある。そんなに、二冊目に突入した科目があるのだろうか。

「――あれ?」

 まだ鞄から出していないはずの、英語のノート。名前もクラスも書いていないあたり、学校へ持っていくためのものではない。

 ページを開くと、こちらには消ゴムで消したり書き直したり、試行錯誤の跡が見える。予習のしてある最後のページ、今日の授業でやったところを開いた。

「キティが台所に行ったとき、母は手にフライパンを持って料理をしていた」

 ――ちゃんと訳してある。

(どういうこと?)

 慌てて漢文のノートを探した。こちらも同じだった。家で予習した分は、普通に訳してある。なのに、学校用のノートではわざとめちゃくちゃな訳に変えてあるのだ。

「どう、して……」

 ずっと、かみあわないものは感じていた。遅刻魔で、授業妨害とまで言われるおしゃべりで、常にクラスの笑いの中心にいた葉月。一方で、前日のうちに予習も鞄の支度もきちんと済ませる几帳面さを持ち、誰にも彼女が私と替わっていることを気付いてもらえない……。

 もしかして、学校での「葉月」は本当の葉月と違うのではないだろうか?

 クラスメート達が見ていたのは、実は、彼女が演じていた道化の「葉月」。そして、私もその「葉月」を演じていた。だから、誰も役者が替わっていることに気付かなかったのではないか?

 ――今朝見た夢を、思い出す。

 何かに押し潰される夢。あの夢は、「私」が見ていたんじゃない。

 夢の中、これは自分の身体ではないと思った瞬間に私は身体から抜け出して、他人事のようにその光景を見下ろしていたのだ。

 あの時、私は確かに見た。

 見えない何かに押し潰されそうになっていた少女。あれは、葉月だった……。

 漢文のノートに、目を戻す。ノートの隅に、小さな字で走り書きがある。

 多分葉月は、ありのままの自分を表に出すことができなかった。周囲の期待にこたえているうちに、役と実像がかけはなれてしまったのかも知れないし、本当の姿を人に見られるのが怖かったのかも知れない。

 どちらにせよ、その「葉月」が彼女には重くなり過ぎてしまったのだと思う。だから彼女は、起き上がることができなくなってしまった。夢の中でも、そして現実でも……。

 そこにはただ一言、こう書かれていた。

 ツカレタ。

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