I2 夏秋 麻由美
ヒュンという空を切る音がして、何かが頭に当たった。反射的にガバッと起き上がる。
「こらっ夏秋! 聞いとるのかお前は!」
私はきょとんとした。真正面には、左手に何か本を持った知らない男の人が立っている。その後ろには黒板があり、春はあけぼのだの何だのと書いてあることから推測するに、どうやらここは教室で今は古文の授業中らしい。シチュエーションとしては、「居眠りを見つかって怒られた」といった感じか。先生の左手が空のところを見ると、さっき飛んできたのは恐らくチョークだろう。古典的と言えば古典的な展開だ。
「いまどこやってるかわかるか!? 訳してみろ!」
周囲からクスクスという笑い声が聞こえる。「わからない」ということをわかった上で、あえて先生は言っているのだ。全く質が悪い。
だが私が戸惑っているのはそんなことではなかった。
(――ナツアキ?)
机の上に置いてあった古文の教科書を閉じて、裏を見る。大抵の場合、ここに持ち主の名前が書いてあるものだ。
だがこれで、私はやっと状況を理解した。仕方なく、ふう、とため息をつくと、立ち上がって頭を下げる。
「すみません、寝てました」
(「私」が悪いんじゃないんだけどなぁ……)
心の中で、一人グチる。
「もういい。次、原田」
先生が次の生徒を当てた途端に、キンコンカンコンというチャイムが鳴った。どこの学校でも、授業終了の合図は同じらしい。諦めて先生は教科書を閉じると、来週は十六ページからだと言って教室を出ていった。
「ナツアキィ、よく寝てたじゃん」
「そーそー、岡村の奴ずっとにらんでたよ」
「ほんっといい度胸してるよねー、麻由美って」
先生の姿が消えるなり、三人の女子生徒が席の回りに寄ってきた。それはそうだ。前から二列目の教卓の真ん前で寝ていたら、私だってそう思う。でも、何も先生もたかだか二列目に座っている麻由美に、チョークを投げることもない気がするのだが。
皆は、私を夏秋麻由美と呼ぶ。でもそれは、私の名前ではない。少なくとも、今そう呼ばれて違和感を抱いている、この「私」の名前ではない。
「私」の名前はアイ。いつの頃からか、精神だけが他人の身体を渡り歩く日々を送っている。
では、自分自身の身体はどうしたのかというと、「わからない」。何も、覚えていないのだ。この状況に陥ってからの記憶は蓄積されているのだが、普通に生活していた頃のことは何一つ、どうしてこんなことになったのかも、私にはわからない。
わかるのはただ、私が夏秋麻由美ではないということ。私が、「私」であるということ。それだけ。アイというのは、自分でつけた名だ。
――ひとつ、わかったことがあるのに気づいて、フッと私は笑みを浮かべた。
前から二列目で寝ていた麻由美を「いい度胸」だと感じるのだから、きっと本当の私は前から二列目では寝ないのだろう。三列目だったら、もしかしたら寝るのかもしれないけれど。
「麻由美ィ、何一人で笑ってんの?」
「何でもない、何でもない」
私は慌ててごまかした。
古文の授業は6限目だったので、そのまま麻由美の友人達と、私は帰途についた。といっても、途中でカラオケなんかに寄っているので、麻由美の家に辿り着くのはまだまだ先になりそうだが。
本当は断って早く一人になりたいところなのだが、どうも誘ったのが麻由美自身で、しかも言い出したのが今日の昼休みらしいので、流石にそうもいかなかったのだ。麻由美と「私」の行動があまりにも矛盾していたら、後で麻由美本人が戻ってきたときに困るだろう――もっとも、「私」が抜けた後、本人が戻ってくるのかどうか確認したことがないから、そういうことが本当にあるのかも知らないのだけれど。
目が覚めると違う人の身体の中だった、というのはこれが初めてではないので、そのこと自体には既に驚かなくなっている。ただ、これまでの経験では、「朝、布団の中」という原則が成り立っていた。だから、いつもより状況把握に時間がかかったのだ。今回のことも考え合わせると、恐らく本人が眠ってさえいれば、いつでも乗り移ることは可能なのだろう。
とにかく、今の私には麻由美としてやっていく心の準備がまだできていない。これが、結構大変なのである。
麻由美自身の記憶は、この身体の中に残っている。ただ、麻由美がどんな記憶を持っているのかを、私は一切知らない。どんなデータが記録されているかわからないパソコンを、1台ポンと渡されたようなものである。麻由美が何を知っているのか、彼女にどんなことができるのか、手当たり次第に検索していくしかないのだ。
麻由美の、カラオケでの最近の十八番は、「イロトリドリ ノ セカイ」という曲らしい。確かに彼女は、この曲の歌詞もメロディも覚えている。しかし、だからといって一度も聞いたことのない私に、いきなりこの曲を歌えというのは無理な話だ。仕方なく、以前に別の少女の身体の中にいたときに、彼女の持っていたCDを聞いて「私」が覚えた曲を歌う。
「あれー、ナツアキそんな曲聞いてたっけ?」
こういうのは聞こえなかった振りをする。どうせカラオケボックスの中なんてうるさくて、ろくに話などできないのだから。
今一緒にいるこの子達だって、「麻由美のクラスメート」という条件のもとに「思い出」そうとしたから誰だかわかるのであって、これがもしそこいらの路上で、麻由美の小学校時代くらいの友人に「私よ私! 覚えてる?」などとやられたら、完全にお手上げなのだ。
まあ多少の苦労はあったが、それでもカラオケはそれなりに楽しかった。カラオケで歌うのは初めてなのだ(あくまで「アイ」の記憶の範囲での話だが)。何と言うか、そういう友達のいない少女の身体に入ることが多かったのだと、今になって気付く。そして、そのことに気付くと今度は、一つの疑問が浮かんでくる。
何故、麻由美は目覚めなかったのだろう?
放課後に、友人達とカラオケに行く約束までしていたのに、楽しみにしていただろうに、何故?
カラオケボックスを出ると、外は既に真っ暗だった。学校帰りに三時間も歌えば、当然といえば当然だけれど。麻由美一人だけ逆方向らしく、店の前で友人達に手を振って別れる。
麻由美の家はここからさして遠くないのだが、時間が時間だけにきっと家族は心配しているだろう。自分の親ではないが、一応電話して「今から帰る」くらいのことは言っておいた方がいいに違いない。
勿論麻由美は自分の家の電話番号を覚えているだろうが、記憶をあさるのが面倒だったので、鞄から手帳を出して、公衆電話で家に電話をかけた。
――誰も出ない。
こんな時間に?
不思議に思ってもう一度かけ直してみたが、やっぱりつながらない。一人暮らしではない筈なのだが。
考えていても始まらない。とにかく帰ろうと、歩き出す。
歩いているうちに、周囲は段々閑静な住宅街へと変わっていった。しかも、並んでいる家々がかなり立派だ。結構高級な住宅街らしい。
辿り着いた麻由美の家も、両隣にひけをとらないくらいの門構えだった。だが、明かりがついていない。二階建ての家の、どの窓にも。
まさか、本当に誰もいない?
私は制服のポケットから鍵を出し、玄関を開けた。
――静寂。
「ただいま」という言葉すらも拒むような、絶対の沈黙。
玄関前から長く真っ直ぐに伸びる廊下の向こうに、微かに窓から月明かりが射し込んでいた。青ざめた光。それに照らし出される家の中の様子も、綺麗に片付いてはいてもどこか乾いた感じがして、私は玄関先に立ちつくした。
(ああ、そうか)
その瞬間、突き抜けるように私にはわかった。
(麻由美は、この家に帰ってきたくなかったんだ)
だから彼女は、友達をカラオケに誘ったのだ。でも、カラオケは済んだら帰らなくちゃいけない、だから、だから……。
どうしてこの家がこうなってしまったのかは、まだわからない。その答えは、きっと麻由美の記憶を探せばあるのだろう。でも、そんなものいらないような気がした。そんなものなくても、麻由美の気持ちが痛いくらいにわかる気がした。
静まり返った家の中を見つめているうちに、次第にその輪郭がぼやけてきた。
それは「私」ではなく、麻由美が泣いているのかも知れなかった。
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