耳の中の創世記

   初めに、神は天地を創造された。

   地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

   神は言われた。

   「光あれ。」

   こうして、光があった。


             ――旧約聖書 創世記


   初めにことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。

   この言は、初めに神と共にあった。

   万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは

   何一つなかった。


             ――新約聖書 ヨハネによる福音書


               日本聖書協会 新共同訳(一九八七)


「――つまりね、神様が『光あれ』って言ったから、光ができたの。光ができる前に〝ヒカリ〟って言葉が存在したのよ。

 でもね、これは文字言語じゃなくって音声言語なのよね。だって神様が〝言った〟って言ってるんだもん。だから、神様が何か言う前に、世界にもともと音はあったんじゃないかと思うの。それが、神様が『光あれ』って言った瞬間に意味を持って……」

 そこで、麻美あさみは言葉を切った。「聞いてる?」

「あー聞いてる、聞いてるわよ」

 奈津子なつこはぱたぱたと手を振って答えた。

「にしても、あんたってよくそーゆーこと一生懸命考えるわねー」

「――変?」

「変じゃないけど……変わってる」

「それって変ってことじゃない」

「バレた?」

 麻美が奈津子をぶつまねをして、あはは、と二人は笑った。と。

「――んっ」

 不意に麻美が顔をしかめた。

「何? ……あー、またいつもの」奈津子が訊く。

「まぁね」

「っとに何の脈絡もなく来るわねー、あんたの耳鳴りって」

「いいかげん、慣れてるっちゃ慣れてるんだけどね。

 あ、奈津子席戻ったほうがいいよ。センセ来た」

「あ、ほんとだ。じゃまた」

 そう言って、奈津子は目の前から去っていった。麻美はそっと、右耳に手をやる。

 耳鳴り。

 学校で時々ある聴力検査のような音、と言えばいいのだろうか? ピーッという、高い音。耳に機械を当てて、聞こえたら手を上げろとかボタンを押せとか言われるアレだ。

 いやちょっと違うな、と麻美は思う。聴力検査の音は一定の強度のまま、ピ――――と長く続く。それに比べるとこの耳鳴りは、ピィィィィとでもいうのか、同じ高さの音があとからあとから迫ってくる。

 何にせよ、そんな音が耳元で鳴っているのだから、結構うざったい。しかもこの耳鳴り毎日のように、時と場所お構いなしにやってくる。授業中とか、テレビを見ているときとか。夜ベッドで横になっているときなんてのは最悪だ。他の音がほとんどしないせいもあって、耳鳴りだけがやたら神経に触るのだ。

 いったいいつ鳴りやむんだろうと、以前授業中に来たときに、時計を見ながら計ったことがある。しかし、一時限四十五分の授業が終わってしまってもまだ続いていた時点で、諦めた。次の授業の時間、もはや耳鳴りのことなんか気にするのも飽きた頃に、いつのまにか収まっていたようだ。

 耳鳴り。

 昔は、きっとみんなも同じ音を聞いているのだろうと思っていた。でも途中から、いやそうじゃないな、と思い直した。

 なぜならこの音は、右の耳にしか訪れないのだから。


 ――麻美の右耳は、人の声が聞こえない。


 インターネットで、〝化膿性髄膜炎〟と検索してみると、こんなような言葉がひっかかってくる。

「新生児、乳幼児に多い病気」

「けいれん、意識障害など」

「死亡率も高く、後遺症も二十から三十パーセント」

「臨床死亡例」

「後遺症・てんかん、知能障害、聴力障害など」

 ――本人が言うのも何だが、見事にそのとおりだ、と麻美は思う。もちろん、一歳の頃のことなので、自分で覚えているわけではないけれど。

 〝化膿性髄膜炎〟というのは、細菌が脳や脊髄などの髄膜に入って炎症を起こす病気だということである。一見カゼのような症状から始まるが、熱が、高いときには四十度以上にまで上がるのだそうだ。

 ちょっと様子が変だと思って連れて行った小児科の先生がそれと気づいてくれて、すぐに入院させたから手遅れにならなかったのだ――と、母親から聞かされた。もしその先生がいなかったなら、麻美は今頃ここにいなかったかもしれない。

 二ヶ月の病院生活の末に無事退院――だが、全く〝無事〟というわけにはいかなかった。

 右耳の難聴。完全に聞こえなくなってしまったわけではないが、人の声の辺りの音域の聴力はゼロに近い。

 しかし、物心ついたとき既にその状態であった麻美に、右耳が聞こえないという感覚はなかった。左耳がほぼ正常に残ったため、特に不自由も生じていない。麻美と日頃直接接している人達も、大半がそのことに気づかずにいるだろう。

 もちろん麻美も、事実としては小さい頃から知っていた。学校の聴力検査のたびに〝要精密〟というハンコを押されることとか、それで毎回大学病院まで精密検査を受けに行くこととか。それが自分がナンチョウであることと関係あるのだとはわかっていたけれど、日常生活のレベルで実感がなかったのである。

 ただ、耳鳴りだけはずっと聞こえていた――


 バラバラに知っていた〝事実〟が、麻美の中で有機的につながり始めたのは、高校生になってからだろう。右側から人に話しかけられたら身体全体でその人のほうを向くとか、人の話が聞き取りにくいときは左耳にだけ手を添えるとか、無意識のうちに自分の身体がとっていた行動に、気づいてしまった。

 ――ああ、あたしってやっぱり右耳が聞こえないんだなあ。

 ショックというほどでもないが、何となくそう思ったものだ。

 気づくと、いろいろなことが気になるようになってくる。

 ある推理アニメで、普段右利きのフリをしている犯人が電話がかかってきたときとっさに左手でとって、左利きだとバレた。麻美は右利きだが、絶対に電話は左手でとる。左耳でないと相手の声が聞こえないからである。片方の耳が聞こえない人間のことなんて考慮に入れてないんだろうなあ、当たり前だけど、と思う。

 耳鳴りは、今もまだ続いている。

 これは、あたしの耳がイジョウだから?


 ――ううん。

 絶え間なく響く高音に耳を傾けながら、麻美は思う。

 これはきっと、特別な音。あたしの右の耳だけに届く、違う世界の音なのよ。

 自分でそれを、信じていないのは知っている。でも夜の闇の中で、果てなく続く音を聞いているとき、麻美は考える。

 きっとこれは、まだ始まっていない世界の、原初の音なの。

 遥かなる未来――いつか必ず訪れる、遠い遠い世界。

 そこはまだ混沌としていて、けれども無限の可能性を秘めた音が、辺りを占めているのよ。それが何の意味も持たないように聞こえるのは、そこにはまだコトバがないから。あたしがそれを理解することができないから……。


 でもきっと。

 いつかきっと神様が現れて、『光あれ』って言うの。光が差して、天地を照らし出すの。


 その瞬間。あたしの耳の中で、

 世界が始まるのよ。

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