臨界点
「ねえ、こういう実験知ってる?」
「何?」
「ねずみの母親と子供を、一緒に、ものすごく熱い鉄板の上に乗せるんだって。そしたら、ねずみはどういう行動をとるか」
「知らない。どうするの?」
「母親が自分の背中に子供を乗せて、熱さから守ってやるの」
「ふうん。ねずみでも母性本能なんて、あるんだ」
「――始めのうちはね」
「始めのうち?」
「鉄板の熱さがある温度、母親ねずみの耐えられる限界を越えてしまったら、母親は背中のねずみを振り落として、自分がその背中に乗るんだ。自分だけ助かろうとしてね」
「本当に?」
「本当だよ。結局母性本能なんてのはね、種の保存のために必要なだけであって、自分の身が危ない場合は、母性本能よりも自分が生き続けようとする〈生物〉としての本能のほうが勝るんだって」
「理屈としては理解できないこともないけど……何か、割り切れないよね」
「私、昨日変な夢見たんだ」
「どんな夢?」
「見渡す限りの草原に、ところどころすごく高い電柱みたいなのが立ってるの。その電柱と電柱の間に黒くて太いワイヤーが渡してあって、リフトに乗ってそれをどこまでもどこまでも滑るの。びゅううって、ものすごい速さでね」
「気持ち良さそうな夢じゃない。それのどこが変なの?」
「――夢の中で、私は母親だったんだ。リフトに、娘と一緒に乗ってたの。前の方でワイヤーが切れかかってるのが見えて、このまま突っ込んでいったらやばいな、ワイヤー切れちゃうなって思ってたら」
「やっぱり切れたか」
「うん。私はとっさに切れたワイヤーの片方に捕まったんだけどね。けど、娘はリフトもろとも落っこちてっちゃって。落ちながら、私の方に手を伸ばしてるの。私も血相変えて娘の名前叫んでた。でもね、両手はしっかりワイヤーをつかんだままで、一度だって娘の方に差しのべなかった」
「……」
「朝起きた時、何かふっとねずみの話を思い出したんだ。私もね、最初聞いた時はあの話、もやもやしたものが胸のあたりに残ってたんだ。割り切れなかった。でも、今は違う。ああ、そうなんだって思える。だって、私もあの母親ねずみと同じだから」
「そんなの、ただの夢じゃない。気にすることないよ」
「知ってる? 夢には無意識の自分が出るんだって。私はね、普段はたとえ親切そうな人の良さそうな顔をしてても、いざとなったら自分の子供でも見捨てるような人間なんだ。ううん、私だけじゃないよ。誰だって、生きるか死ぬかの状況に追い込まれて、それがある限界を越えたら、母親とか父親とか、人間とかから〈生物〉に変わるんだ。誰だって、そういう臨界点を持ってるんだよ」
「考え過ぎだよ。もうやめなってば」
「じゃあ……じゃああんたは、自分は違うって言い切れる?」
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