序章
始まりはいつも暗闇
彼はふと手を止め、顔を見上げました。
そしてボソリと『光を感じる……』と呟いたのです。
暗黒の空、そんなことはあり得ない。しかし、また違う場所で同じ言葉を呟くものがいた。彼女はその言葉を懐かしそうに、なにか特別な呪文のように感じたのです――。
これはいつのことだったのでしょうか。
その世界は二種類の種族しかいませんでした。
魔族と人間という二つの種族は長い長い間、本当に長い間、戦争をしていました。それは終わることはなく、天上の神様は困り果ててしまいました。どうにかして戦争が終わるようにできないか? 神様は知恵を出し合い考えました。
そして、ある結論に辿り着くのです。
――戦争を起こそうとした愚か者を殺す兵器があればいい。
戦争が起きる前に火種を消すものが在ればいい。
だから、次に戦争を起こした人間の魂を自分たちのものにして、そして、次に生まれ変わったその時に契約を結ばせよう。
そして神は何回も何回も繰り返しました。
ああ、ちょうどいい。次は、あいつがいい。
「美しい……」
暗黒の空を見上げていた彼は、自分が見た光の正体を知りました。それは白く美しい羽根を広げた天使でした。
彼の声に呼ばれた天使は、彼にそっと囁きます。
「哀れな人。けれど罪なき人。優しく勇ましい人。――私は貴方を救いましょう。けれど、貴方が抱える罪は地獄も煉獄も天界すらも、貴方を許さず縛り付けるでしょう。貴方に罪はない。貴方の運が悪かっただけなのですから」
彼はその後、不運にも命を落とします。
英雄王と呼ばれた彼は、いくつもの戦争を指揮した軍神でした。その行いは神々の禁忌に触れてしまったのです。
彼が悪人であろうがなかろうが――。
それは、神を恐れぬ所業であると。
「貴方は誰からも愛され、そして嫌われる」
けれどその運命から、私は貴方を救いましょう――。
◇◆◇◆◇
「おかあさま、またそのご本をお読みになるの」
「嫌?」
「ううん。いやではないけど、またなのかなって」
「――大切なお話だから。絶対に貴方たちは知らなければならないお話だから。だから繰り返すのよ」
「それは何度も聞いた。でも、たまには違うものを読みたいの。だめ? お願い」
「だめ。今日もこのお話をします」
「なんでぇー? ね! いいでしょ! ピアノの先生のことちゃんと聞くし、メイドに悪戯しないから!」
「だめ。それに、私の大切な人のお話だから……ちゃんと聞いて? これはね、繰り返してはいけないの。絶対に、二度と繰り返してはいけない、この国と隣の国の、実際に起きてしまった話なのだから――、貴方たちが、私の子どもである貴方たちが、絶対に将来役に立つお話なのだから――。背負わせるなんて、そんな大層なものではないけれど、きっと役に立つわ。絶対に、絶対に繰り返してはいけないの。誰が悪で、誰が善なんて言えないわ。だってそれを考えてしまったら、そんなこと初めからとしか言えないもの。ねぇ――」
私は、私の腕の中ですやすや寝ている少女に微笑みかけた。
「ああ。寝てしまったのね。もう、最後まで聞いたためしなんてないんだから……。だから何度も繰り返すのに。仕方ない子ね。続きはまた今度。――ゆっくりおやすみ」
静かに床に寝かせ、私はその部屋から離れた。部屋から出るとバタバタと騒がしい声がする。一瞬逃げたくなるのは、幼い時からの癖のせいだろう。もう直さなければならない。さすがに。
「陛下!」
声の主はメイドだった。
「陛下、こんなところにいたんですね。なぜここに」
「……末っ子ちゃんが寝ちゃったみたいなの」
「姫殿下様ですか!」
「うん。だから、お布団を持ってきてあげようと思ったんだけど、どこに仕舞っていたかしら」
「ああっ! そんなもの、わたくしめのお仕事でありますゆえ、陛下は執務室に戻ってくださいまし!」
執務室にいたくないから逃げ出したのだが、それは置いておこう。そんなことを言ってもこのメイドに怒られるだけだ。
それより、気になることがある。そちらの方が先だろう。
「それよりも、貴方の私への用事は何かしら」
「ああっ! すみません。それを忘れておりました!」
そっちの方が先だろうに、なんとも慌ただしいメイドだ。彼女はここまでずっと持っていた紙の束を開いて渡した。
「明日いらっしゃる隣国の殿方にお出しするお食事のメニューなんですが、これで大丈夫かと料理長が陛下にお伺いを立てよと、私は陛下の元に参った次第でございます!」
私はチラリとそれを見た。それは紛れもなく食事メニューだった。紛れもなく。ただのメニューだ。
明日は隣国との調印式。
長年争いを起こし続けた両国の和平条約を結ぶ日。
ここまで来たのも、私が大切だったあの人がいたからで、この話を伝えていく使命を得た私は死ぬまでこの話を伝えていく。もう決めた事。絶対なんて、そんなことができない事も知っている。
ああ、ありがとう。私が大好きだった人。
それだけ言うならいいでしょう?
「陛下?」
「いいの、気にしないで。私の息子たちも来るんでしょう」
「……あっ、ええ……。皇太子様も、その他殿下も、全員ご出席なされるそうです。ですから、久しぶりに全員集まりますね……」
ああ、なんてうれしい日なのに。
「陛下?」
なんで貴方はいないのですか。なぜ、世間はハッピーエンドで終わっているのに。私の中ではハッピーエンドではないのですか。貴方がいないこのエンドでは、私は満足できないの。なんで。このお話の中ではハッピーエンドなのに。
現実ではそうではないのですか。
ここから話すのは私が体験した過去なのだ。終わった話を繰り返すことしかできない、私の過去。平和になった今だから繰り返せるこの国の歴史。その歴史のどこにでも貴方がいるのに、貴方は私の前には居ない。
なんでだろう。
貴方がそう願ったから?
そんな最後なんて私は信じない。
ねぇ。
私がいま幸せなのは、貴方が私の中にいたからなの。
「陛下! 大丈夫ですか、なぜ泣いっ……て……」
メイドは忙しく声を荒げている。
「このメニューがお気に召さないとかですか! ああ、どうしましょう! 料理長に掛け合ってみまっ!」
「――……大丈夫だからぁ」
慌ただしく走り去ろうとするメイドの服を掴んで、メニュー表を押し付けた。メイドは慌てた顔だが、私はもうどうでもいい。
「――」
もし、神さまがいるなら。――会ったことがあるみたいな言い方をしていた貴方はそんな尊敬できるような人ではないと言っていたけれど――。非情で意地悪な人だと思う。
一生懸命な人が不幸になるような世の中なんて理不尽だ。
私の中ではバッドエンドでも、世の中にはハッピーエンドだと胸を張らなければならないなんて辛すぎる。
きっと貴方ならどうしただろう。
私の目の前から消えた貴方は、いまどうしているの。
私には分からないの。貴方はこの結末で満足しているの。
私が愛していた貴方はどこにいるの。
A.A 1495.9.1
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