第43話:違いすぎる、羽化。
[星暦1551年 11月3日。アマレク共和国、首都メンフィス。]
スネフェルは喜びに心が震えていた。ついにこの日が来たのだ。弟が無惨に殺害された時、彼はその亡骸を抱きしめてやることさえできなかった。それは無惨にも切り刻まれていたからだ。弟を殺した憎っくき仇。それが今、『戦死判定』という仮初めの死を味わっている、この男だ。
タケロットも、平然とそれを見守っている。タケロットにとっても、この男は目の上のタンコブ、邪魔な存在でしかない。
スネフェルは足でトムを転がした。いまだ保護モードで重力子バリアで守られている身体。それを確認するともう一度足で転がしてうつ伏せにさせ、トムの腰についている天使のデバイスを粉砕する。重力子バリアは消失した。
「ジャン。これで俺は、やっとお前に顔向けができる。」
スネフェルが死んだ弟の名をつぶやき、トムの背中から心臓めがけて刃をつき降ろそうとした、その時。
意識のないはずのトムの背中から黒い翼が4枚現れ、その刃を防いだのである。
「アヌビス⋯⋯起動しました。」
ゼルが告げる。
「こいつは⋯⋯『出木杉くん』⋯⋯だな。」
凜が唸る。
意識の無いトムの身体を漆黒の重力子甲冑が包み込んだ。
「な⋯⋯!?」
信じられない、と言わんばかりの顔でスネフェルが後ずさった。
ゆっくりとアヌビスの身体が宙に浮いた。
アヌビスの前に少女が現れる。薄いペパーミントグリーンの肌に濃いエメラルドグリーンのショートヘア。黒いゴシックロリータ調のドレスに背中には「からすあげは」蝶に似た黒とメタリックグリーンの羽が生えている。
「リコリス⋯⋯ついに、羽化⋯⋯したのか。」
凜が呟く。
「羽化ではありません。完全変態です。完全に『ヘンタイ』です。これまで、うんともすんとも言わなかったのは、彼女が蛹の状態にあったからです。」
ゼルが間違ったイントネーションで言う。ワザとだが。
「カーメス風情が。」
スネフェルはもう一度刀を振るい、弟の仇に刃を立てようとする。しかし、重力子硬化により、どんな物質よりも硬くなっているはずの刃でさえアヌビスには全くと言って良いほど歯が立たない。
リコリスは青と赤のオッドアイの瞳をスネフェルとタケロットに向けた。
「私の名はリコリス。このアヌビスに寄り添うものです。一見、あなた方はお味方、と思いましたが、向ける刃の
突然の展開に、凜も、凜を攻撃していた隊員たちも手が止まっていた。
「リコ、久しぶり。あなたは自分と宿主の身を護ることだけを考えて。大人しくしてなさい。」
ゼルがリコリスに言った。
「はい、アザゼル。」
「さあ、続きをはじめましょう。幕間狂言は終了です。」
凜が宣言すると、インプ隊は思い直したように凜に襲いかかった。
しかし、ここからが凜の独壇場であった。「
「駄目です。全く歯が立ちません。」
悲鳴にもにた報告がが部隊長であるスネフェルとタケロットの耳に響いた。
(くそ、強いとは聞いていたが、これほどまでとは聞いていない。)
かと言って、凜から積極的に攻撃を仕掛けるわけでは無いので、彼らの攻撃の停止は、戦闘の「膠着」ということになってしまうのだ。
「スネ夫くん、タケさん。この膠着状態はちょうど100体あるインプのキルレシオがスフィアの兵器と比べて100対1ということになってしまうのだが、それでも構わないのかな?存外、『最強兵器』とやらも大したことがないね。大きいのはお二方の口だけでしょうか? 」
凜が二人を煽る。
「凜、すごく悪役っぽいです。」
ゼルが囁く。
「そうだよ、彼らにとってはね。立派なラスボスだよ。……恰好は天使だけどね。」
凜が苦笑する。そして二人に提案する。
「そう、ギアをもう一段上げる、という選択肢はまだ教わってはいないのかな? 今のままでは束になっても僕に敵わないどころか、後ろにいるアトゥムにも歯がたたない、と思うんだけど。どうやらこれまで僕に手加減されていることに気がついていないようだね。僕の背中の翼は6枚。あなた方の背中の翼は2枚。この差はヴィジュアルだけのものではないのですよ。戦士としての『格の差』を表しているのです。」
凜が煽ると二人の顔が怒りに歪む。
「くそ、バカにしやがって。いいか、見てろよ。俺たちの本気を。」
スネフェルとタケロットが合図を送ると、皆、左肩につけられた徽章を押した。
「何かの注射器でも仕込まれているのか?」
無論、スネフェルもタケロットもこの段階は初めて取るものであった。しかし、国家の威信をかけて、多額の費用と歳月を注ぎ込んだプロジェクトを失敗に終わらすことはできない、そんなことをしたら、せっかくつかんだエリートへの道も潰えてしまう。誤った愛国心と栄達心が彼らを突き動かしていたのだ。
変化、いや異変といったものはすぐに現れはじめた。隊員たちが頭を抱えて苦しみだす。
「もっと、もっとだ。もっと力を。俺に力を。誰にもバカにされなくて済む力を。」
獣のような雄叫びを上げながら、彼らの背にもう一対の翼が追加された。
「なんだ、いったい、何が起こっているんだ。」
ラドラーは眉をひそめる。
「アヌビスは元々は
モニターを見つめるマーリンが説明するように呟く。
ラドラーは興味深そうに聞き返す。
「天使の
「ええ。」
マーリンは説明を続けた。
「先ほどまではそれより格下の
「ゼルやリコのような?」
「そうです。
ラドラーはふと尋ねる。
「じゃあ、凜もそうなのか?」
「そうです。彼の脳は数百年の間、生体コンピューターの一部品として繋がれていたのです。彼の脳、その大脳皮質の一部は変化を起こし、独立したスーパーコンピューターのようになりました。そしてその構造は
ラドラーは恐る恐る尋ねる。
「しかし、もし、適性の無い者が
マーリンは残酷な現実を述べた。
「残念ながら、天使に喰われてしまうでしょう。人格も意識も記憶も全てね。人間らしさを司る大脳皮質を有人格アプリが自分の住まいとして勝手に改変してしまうわけですから。
ただし、戦士としては漏れなく強くなります。それこそ全く『人』が変わってしまったのですから。」
マーリンは深くため息をついた。
「羽化」が終わったインプたちはゆっくりとたちあがる。まるで黒い瘴気のようなオーラが全身から立ち上っているかのようであった。
「なんだかずいぶんと凶悪になってきたな? あんなの相手にして大丈夫なのか?」
ラドラーははぶるっと震えた。マーリンは
「まあ、さすがの凜もここからは本気を出さないとやられますね。⋯⋯まさか、こんなところであの『コード;エデン』の再現がなされるとは。」
インプが重力子弾を発動させる。それは光の球のような姿になる。重力子が物質界と反応して光子を発生させるからである。しかし、さきほどのものとは比べものにならないほど大きく、一度に複数操れるようになっているのだ。
獣のような咆哮をあげながらインプ隊は凜に襲いかかる。反対に凜は刀も弓もしまってしまっていた。
一人のインプが重力子弾を凜に叩き込んだ。しかし、そこには凜ではなく別のインプがいる。嫌な音と匂いが立った。インプは胴体を黒い霧のようなものに蝕まれながら斃れた。次のインプの重力子弾を打ち込まれた先は、自らの後頭部であった。
「どうなっているんだ?」
ラドラーは気分が悪くなりながらも尋ねる。
「空間を自由につなげたり、入れ替えたりできるのが、『ガブリエル』が最強兵器たる所以です。」
凜を10体以上のインプが囲う。しかし、次の瞬間、ばたばたと倒れていく。
「ガブリエルは空間を入れ替える、ということは空間ごとなんでも切断できます。物質でありさえすれば、空間ごとなんでも斬れるのです。重力子体の鎧は切れませんが、その中身の身体は真っ二つでしょう。」
マーリンの説明にラドラーは背筋が凍りつくように感じた。
「あまりに理不尽すぎる。こんな兵器が量産でもされたらとんでもない災厄になるぞ。」
「ええ、だからおいそれと他人には渡せないのですよ。この技術だけはね。」
今度は次々とインプが同士討ちを始める。これは、彼らが狂ったわけではなく、凜が次々と空間を入れ替えるため、凜への攻撃がすべて互いに向けられるのである。
「残念ながらインプ隊のみなさんはもはや人としての意識を喰われているのでしょう。もはやただの闘牛と闘牛士ですよ。」
インプ同士が、同士討ちさせられるシーンが延々と続き、あまりの凄惨な光景にラドラーは思わず、目を背けた。
「闘牛士も牛とは真剣にやり合いますからね。凜とて、一瞬でも気を抜けばやられてしまいますよ。」
今度は重力子弾を振り回すインプの手からそれが消えるとインプが倒れる。
「あれはインプの重力子弾をインプの中に『転送』しているんです。きっと鎧の下はかなりむごいことになっているでしょうね。」
マーリンの説明にラドラーは絶句したままであった。
やがて、形勢が決まった。
誰一人として行動不能になるまで攻撃を止めなかったのだ。それはもはや凜だけを狩るように訓練されている上、しかも理性を持って彼らを指揮するもの、冷静になって撤退を指示できる者もいなかったのだ。
やがて、2体のインプを残し、残りは全滅させられていた。残ったインプは、スネフェルとタケロットのものであった。凜は二人に通告した。
「もう、お二人さん。これ以上の戦闘は無用でしょう。ここはそろそろ互いに矛を収め、負傷者の救出にかかるべきではありませんか?」
しかし、二人から返答はなかった。ふー、ふー、という荒い息遣いだけが通信機を通して伝わってくる。
「凜、もう話は通じないです。二人ともすでにインプに完全に喰われています。……だから、『魂の無い人形』は危険なのです。その人形に自分の『魂』を喰われてしまいますから。」
ゼルの言葉には、無表情ながらにも寂寥感の漂うものであった。
そして、すすり泣く声が聞こえた。
「トム、目を醒ましたんだね?」
生死不明ではあるがたくさんの兵士が倒れており、いつぞやのテロ事件に巻き込まれた日の記憶が蘇ってきたのかもしれなかった。
「トム、しっかりするんだ。リコ、トムに状況と情報を正確、かつ公正に。」
リコがトムの額に自分の額を当てる。トムは徐々に落ち着いていった。
その時だった。スネフェルとタケロットが奇声をあげながらトムに向かって突進していった。タケロットが槍で突進し、スネフェルが重力子弾でそれを援護していた。戦闘に関してだけはその意識は鮮明であった。
「そうか。あの二人は凜よりも、トムを憎み、恨んでいるんだ。ずっと深く、そしてずっと大きく。」
ラドラーが呟く。
トムは重力子弾を大鎌を風車のように回転させて弾き飛ばした。続いて突進するタケロットの動きに合わせて槍を鎌で絡め取ると柄でタケロットを突き上げる。そして、身体の浮き上がった彼に何度も斬撃を浴びせる。そして、そのまま上昇旋回すると、スネフェルに向かって急降下する。
スネフェルの放つ重力子弾を皮一枚で躱すとそのまま大鎌の柄でスネフェルを打ち、よろめいたその身体に斬撃を加えた。
「お見事。さすがはリコ。」
ゼルは戦闘補助のリコを褒める。ミクロン単位の正確な動きは、彼女たちに頼る以外に方法はないのだ。
二人は血しぶきを上げながら地に突っ伏した。
「これにて戦闘は終了しました。トム、その……負傷者の救助の指揮を執ってください。」
どれほどの人間が生きているのだろうか。生きていても、元の生活に戻ることができるのだろうか。本来、
それだけに、希望に満ちた若者たちを斃さねばならなかった凜は、祈るような気持ちでトムに救助を要請したのである。
「悪いのはいつも大人だ。若者たちをチェスの駒程度にしか考えていないバカどもだ。」
凜はそう毒づくと広場から会見を行っていた部屋に戻った。
「逃げたか、ハワード卿は。さすがは武人。『転進』の速さはピカイチだな。」
凜は元の会見場に戻ると、ハワードは既に逃げた後でその姿はなかった。
クレメンス大統領はソファに力なく腰掛け、ゲラシウス総督は失神寸前のような体で、プルプルと身体を震わせていた。
(惨めなものです。)
ゼルの論評に凜は苦笑する。
(仕方ないさ。国家の威信をかけて取り組んできた一大プロジェクトが完膚なきまでに叩きのめされてしまったのだから。たった一体の兵器にね。)
凜は再び背中の翼に包まれると元の姿に戻った。そして、ラムセス・クレメンスの元に近づく。
「大統領閣下。」
凜が話しかけると
「ひいっ。」
ラムセスは鬼や悪魔でも見ているような、恐怖と憎悪の眼差しを凜に向けた。
「アトゥムに、隊員たちの救命活動の指揮を取らせました。越権ではありますが、緊急事態ゆえにご容赦を。」
「は、はい。」
ラムセスの目は泳いでいる。無残に死んでいったインプをまとった若者たちのなかには親族も多く、将来を嘱望された者も少なくなかったからだ。
(やれやれ。こちらの二人にも救助が必要か。)
凜はかぶりをふる。
「総督閣下。総督閣下。」
凜が話しかけるとゲラシウスは虚空を見つめ、何やら呟いている。
「どうやら、『悪魔退散』のおまじないのようです。」
ゼルが説明する。
「おやおや、科学至上主義のアマレクにもそんなロマンチックなものが残っていたのですね。少しほっとしました。ところで閣下。アヌビスは最強兵器です。最強というのは一つしかないから最強なんです。つまり、それはコピーが効かない、という意味でもあります。……ですからもう、危険な
総督は恐怖のあまり凜の言葉にコクコクと人形のように首を縦にふった。
「では御二方。私の案、全面的に受け入れて頂けますよね。」
こうして、アマレク政府と新惑星防御システムの導入と構築を推進する条約が締結されることが確定したのだった。
[星暦1551年 11月4日]
「なんだって、。またアヌビスが起動しないのか?」
グラストンベリーに戻るフォルネウスの中で、ラドラーが声を上げる。
「そりゃそうでしょう。トムは『戦死判定』をくったんですから。2年は動きませんよ。例外はありません。」
マーリンが半ば呆れたように説明する。
「しかし、凜の強さは理不尽すぎるな。アヌビスでも敵わないものなのか?」
ラドラーが凛に文句を言う。
「ラドラー卿。地震のリヒター・スケールが1つあがると、エネルギーはどれくらい変わるかご存知ですか?」
マーリンが唐突に尋ねる。
「いや、知らんね。」
ちなみにリヒター・スケールとはマグニチュードとしても知られている。
「約31.5倍違うんです。天使に関していえば一階級の違いはもっとあると思いますよ。」
わかりにくい例えだ。ラドラーはそう思った。
「そんなもんかね。」
ようやく、長期に渡ったアマレク政府との交渉が一段落つき、「
[星暦1551年 11月7日]
「あの、俺をアヴァロンに連れていって貰えませんか?」
トムの申し出に凜は戸惑いを隠せなかった。
「団長(マスター)とも相談したんだ。『戦死』してしまったんで、これから2年間はなんの役にも立たないけど、俺は凜やみんなとだったら、もっと強くなれると思うんだ。これまでのように、ただ親戚の
深々と頭を下げる。そこにはかつてイジメにあって性格も根性も捻くれきってしまった少年の姿はどこにもなかった。むしろ、自分を真摯に見つめ、前を向いて歩こうする、一層成長を目指す少年のものであった。
「おい、ウチに来たって、取り柄といえば俺が作るメシが美味いぐらいだぞ。」
リックがからかうように言う。
「そいつは楽しみだな。」
リックとトムはハイタッチを交わす。
「超かわいい『研ぎ師』さんのメンテもあるもん。」
ビアンカが意味不明の対抗心を燃やす。
「ああ、そろそろカフェ(・ド・シュバリエ)のコーヒーが恋しくなったところだな。」
灼熱のメンフィスから急に秋めいたグラストンベリーの空を見ながらメグが相づちを打った。
「まあ、僕の一存では決められないけどね。ま、大丈夫でしょう。よろしく、トム。」
「ああ」
凜もトムと握手を交わす。
「ラドラー卿、ホントにいいんですか?」
凜の問いに、ラドラーも苦笑しながら答える。
「ああ。できれば、アヌビスを一人前に使いこなせるようにさせてやってくれ。ラムセスの叔父貴が、そう頼み込んできたんでな。一つ、よろしく頼むよ。凜。」
[星暦1551年 11月10日]
空母フォルネウスは一路アヴァロンを目指した。
(リコリスの孵化、そして羽化はこどもから少年へ、そして青年へとはばたこうとする、トムの心の成長そのものだったのかもしれないな。)
凜はそうおもいながら、モニター越しに遠ざかるグラストンベリーの街を見ていた。
[星暦1551年 11月20日]
カフェ・ド・シュバリエの2階に新たなメンバーが加わることになった。
「新しいボーイさんが入ったんだねえ。」
リックと共にヘンリーの家に住み込むことになったトムは、繁忙期や休日はリックと共に店を手伝ったりしている。
「トム、コーヒーのお代わりをお願いします。」
まかないを食べにやってきたマーリンがお代わりを注文する。
「マーリン、自分で注いでよ、こっちは忙しいんだから。」
しかし、トムににべもなく断られる。
「ええっ、セルフサービスですか?この店最近サービス悪いんじゃないですか?」
マーリンがブツブツ文句を言いながら立ち上がる。
「じゃあマーリン、僕の分もお願い。」
すかさず凜が便乗する。
「凜、3番テーブルにこの
リックが凜にもボーイの仕事を振る。
「ええっ、僕も?」
「おかしいです店主(マスター)。ちゃんと旅団から食費はお支払いしているはずなのですが。」
ゼルがヘンリーに言う。
「おい、トム! 7番テーブル、コーヒー追加だ。」
ヘンリーはそれには聞こえないフリをした。
もうすぐ、1551年が終わろうとしている。
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