第37話:いきなりすぎる、エピソード1。

[星暦1551年 5月21日。主都グラストンベリー。伝令使杖カドゥケウス騎士団本部]


ドーン、という大きな音とともにトムの身体は宙に舞うと道場の床にたたきつけられた。

「立て、カーメス! 修練はまだ終わりではないぞ。」

アマレクの名門貴族、クレメンス家の惣領息子であるタケロット・クレメンスが木槍を持ってトムの傍らで仁王立ちをしている。カーメスとはトムがアトゥムの名を襲名する前の名である。


 よろよろと立ち上がるトムはやっとの思いで木槍を構える。

「腰が入っていない。カーメス。貴様は武術をなめているのか。そして、脇も締めろ。みっともない。」

タケロットが再びトムに撃ちかかった。無論、トムもそれなりに強いのであるが、力量の差は歴然としていた。トムが打ち据えられて再び床に沈むまでそれほど時間はかからなかった。


 あまりの光景に、修練を続ける騎士たちも委縮してしまっており、普段の闊達とした道場の雰囲気は全く感じられなかった。

「いい加減にしてくれ、タケ。これじゃトムが潰れちまう。」

見かねたラドラーがタケロットに抗議する。

「ラドラー、これがお前の指導法なのか? ますます弱くなっているではないか。誰も甘やかすように言った覚えはないぞ。」

道場にタケロットの怒号が響く。

 そして、道場の真ん中で、ボロボロになったトム(アトゥム)が仰向けになって横たわっていた。痛みのあまり大きく息を吸うことさえ辛いようで、肩でせわしなく浅い呼吸を続けていた。

 

 そこに凜が、メグとマーリンを伴い、道場に入ってきた。

「何か様子がおかしいですね。凜。」

マーリンが道場の異様な雰囲気を察知した。


「おい、あれはトムじゃないか?」

凜はトムの惨状に気付き、駆け寄った。凜はトムを抱き上げる。

「これはひどいな。」

メグが惨状から目を背けた。

「トム、どうしたんだ? ボロボロじゃないか。おい、誰か、トムを医務室に連れて行ってくれ。」

凜が道場のトムの同僚たちに声をかけた。しかし、トムは弱弱しく片手をあげると、凜を制した。

「大丈夫だ……。凜。アヌビスの回復機能はまだ働いている。なんとか今日中には回復できる。問題は無い。」


 凜は、トムが天使「マルドゥーク」をを展開していないことに気づいた。

「トム、まさか天使無しでやっていたのか。無茶だ。……こんなになるまで。」

凜は木槍を肩に背負い、にやにやとしているタケロットを睨みつけた。肌の色ですぐにトムと同じアマレク人であると判別したからだ。

「あんた一体、どういうつもりだ。あんたが腕が立つのはわかる。しかし、これはただの『しごき』だ。なんの修練にもならないだろう。」


タケロットは凜を見下ろしたまま口を開いた。

「そうか。貴様が、件のトリスタンか? そういう貴様こそ、いったいアヌビスをどうするつもりだ? アヌビスはな、カーメスの所有物などではない。我がクレメンス家のものなのだ。共和国『最強兵器』がこの有様では困るのだよ。」

凜は彼がクレメンス家の者であることを理解した。


「悪いが、トムはまだもう少し時間がかかる。もう少し待ってやってくれないか?」

凜の言葉にタケロットは首をかしげてみせた。

「タケ、少し頭を冷やせ。凜、彼はタケロット・クレメンス。間違いなくクレメンス家の騎士団では最強の男だ。そして、アトゥムの称号は本来は彼に譲られるはずのものだったのだ。」

ラドラーが手短に事情を説明する。

(なるほど、あれがクレメンス家の次期当主、と言われている男か。トムが憎くて仕方がない、といったところか。)


 アヌビスが起動しないということが、不明なルートでクレメンス家に伝わり、騎士団長の名である「アモン」の名をまもなく襲名すると言われているタケロットが直接自ら乗り込んで来たのである。おそらく団員に情報提供者がいるのだろう。

 タケロットはアヌビスが発動しないことを確認した上で、修練と称し、天使無しでトムを痛めつけていた、という訳だ。


「リコは?」

凜が道場を見回してリコリスを探す。リコはリックに抱かれたまま眠りこんでいた。トムが痛め付けられている間ずっと泣いていて、泣き疲れたのか、眠ってしまったのだと言う。


凜はタケロットにアヌビスの再起動のための事情を説明する。

「タケロットさん、もう少しトムに時間をいただけませんか? 彼には武の天凛があります。そして、今は、アヌビスの補助システムを育てなければならないのです。今が大事な時なのです。」


「あの、赤ん坊がか?」

タケロットはリコを見て鼻で笑った。凜は続ける。

「ええ、トムはこれまでこの有人格アプリであるリコリスを育てていませんでした。だからこそ、これまでアヌビスはその性能を100%発揮できなかったのです。かつて不知火尊に膝を屈した、初代のアモン・クレメンスのようにね。」

「なに?」

凜に先祖の敗北について指摘されると、タケロットは気色ばんだ。

 

「ですから彼をこれ以上傷つけても無駄です。そこからは何も得ることはできません。もし、これ以上続けようというのであれば、私がお相手しましょう。」


タケロットは笑った。

「貴様らはいつもそうだ。『天使』とかいう目に見えない殻にこもって偉そうにしているだけだ。どうだ、トリスタン。貴様には俺と生身でやりあう勇気はあるのか?」

そう言って木槍を再び構えた。


「わかりました。こちらの方が話が早いというわけですね。」

凜も壁にかけてあった木槍を取った。

 ラドラーは慌てて凜を制しようとする。

「凜、悪いことは言わないからやめておけ。彼は槍に関しては達人だ。君は弓の名手ではあるが、天使を使わずに無事でいられるはずが無い。」


タケロットの手にある木槍が青白い光を放った。

「なるほど、『重力子硬化術』⋯⋯ですね?」

重力子硬化術とはアマレク人がゴメル人の遺物の研究を重ねた結果、会得した技術で、物質に重力子干渉させ、軽量化と硬化の効果をもたらすものである。木製バットを金属バットに変えてしまう技術だ、と思ってもらえればわかりやすいだろう。

 木槍とはいえ、こんなもので殴られれば、アヌビスの微小になった保護効果程度ではとても防御の足しにはならないだろう。


「しかし、あなたが一つ技術を使う、というのであればこちらも一つ使わせていただきます。『アザゼル』です。」

そう言うと凜の傍に少女が顕現する。正確に言うと、この場にいる中で、その姿が見えていなかったのはタケロットだけだったのだ。


タケロットは笑う。

「二人……がかりか?」

ゼルは無表情に言う。

「私のような『小娘』、たとえ足手まといになっても、加勢にはならないのではないでしょうか? 私は『アザゼル』。アヌビスを司るリコリスと同じ、有人格アプリです。」


「なるほど、面白い。もしこやつに価値があれば、アヌビスにも同じものを期待できるという訳か?」

タケロットが木槍を構える。

「残念ながら、リコは私ほどにはなれません。なぜなら、私はこの物質界最高位の戦闘アプリだから。」

ゼルがぬけぬけという。

「ますます面白い。」


タケロットが雄叫びとともに木槍でうちかかる。

しかし、捉えた、と思った凜の姿は残像に過ぎなかった。


「⋯⋯?」

タケロットの後ろに凜はいた。タケロットは振り向きざまに木槍を振る。

上半身がふき飛びそうなほどのスピードであったが、凜の身体を槍がすり抜ける。

すり抜けた、というか槍が切れていた。木槍の先だけ、切断されたように飛んだ。


「やい、トリスタン。貴様、天使を使っているじゃないか。」

タケロットが抗議する。

「そんなことはありません。あなたの槍は重力子硬化しているのですから、重力子甲冑である天使に触れれば、必ず重力子共振が起こります。起こっていなかったでしょう?」

凜の説明も半分聞かず、タケロットが跳躍して凜に打ちかかる。しかし、凜の姿がふっと消え、今度は着地点に現れた凜の槍を踏んづけたタケロットは床に転がされてしまう。どん、という響きをたててタケロットの巨躯が床に沈んだ。


「むう……。」

転がされたタケロットは屈辱感に顔を『真っ赤』(実際には紫色)にして唸る。

「これが、アザゼルの力です。では、ここからは『ゼル抜き』で、私の実力だけでお相手しましょう。」


凜は木槍を壁の用具置き場にかけると、今度はそこにかけてあった竹刀を取った。

「凜、もう相手の力量は見切ったのですか?」

ゼルがタケロットに聞こえるように尋ねる。

「うん、もう十分だよ、ありがとう、ゼル。」

凜が竹刀を正眼に構えた。


「槍に竹刀が敵うものか。」

凜はタケロットが繰り出す突きを簡単に躱す。まるで槍の穂先の軌道が見えているかのように薄皮一枚で避けたのだ。そして、間髪おかず竹刀をタケロットの無防備な肩の部分に打ち込んだ。

「くそっ。」

タケロットは渾身の力で槍を振るうが、それは再び空を切る。すると、懐に飛び込んだ凜に竹刀で胴を払われた。それからは、ほぼ一方的に凛が攻撃を躱してタケロットに打ち込む、ということの連続であった。さらに面、小手を打たれ、胴も払われる。

「これが真剣であれば、あなたはすでに何度か死んでいますね。」


タケロットの息が上がる。それでも、彼が攻撃の手を緩めることはなかった。凜は肩で息をするタケロットに言った。

「タケロットさん。もう、終わりにしませんか。おわかりでしょう?私にあなたの動きがすでに見切られていることに。もうこれ以上は何度やっても時間の無駄です。私の戦闘はこのようにゼルの補助が効いているため、どれだけ修練を積もうが『普通の人間』に私を超えることはできません。トムがこの域に達するまでどれほどかかるかはわかりません。しかし、彼は間違いなく、クレメンス家にとっても、お国(アマレク共和国)にとっても最強の『アトゥム』になることは間違いありません。トムに手当を受けさせます。マーリン。トムを医務室まで運んでくれませんか?」


凜はそう言うと、タケロットに背を向け、そのまま道場を後にしようとした。その時だった。タケロットは跳躍し、凜の背中をめがけて槍で渾身の突きをいれる。


 周りの者たちは声も上げられなかった。それほど彼の行動は速かったのである。しかし、凜はその渾身の突きを振り向きもせずに躱してしまう。そして、両腕を伸ばしきったタケロットの顎に下から拳をアッパーカットを突き入れた。


 タケロットの前進する勢いにカウンターを入れたショートアッパーであったが、カウンターだけに、彼へ与えた衝撃は凄まじく、脳震盪を起こしたタケロットは突き終わった体勢から、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていった。

「う……動かない。体……が。」

立ち上がろうとしても脳震盪で体が言うことをきかないタケロットは屈辱感で声を震わした。

「タケロットさん。ただの脳震盪ですよ。しばらく安静になさってください。」

そう言い残して凜はトムとマーリン、そしてメグを伴い道場を後にした。


「すまん。誰か医務室にタケも連れて行ってやってくれ。」

ラドラーが他の団員を促した。

「……まさに『生きた理不尽』だな。タケのやつがどれだけ修練を積んでいたか、知っている身としては、あいつが子供扱いされる場面なぞ、これまで想像もつかなかった。」

ラドラーは苦笑とも溜め息ともつかない息をはいた。


その晩のこと、マーリンが凜に言った。

「凜、なぜあなたがあれほどまでに強いのか、それを知りたい、と若者たちが申しておりますが、どうしますか?」

凜は苦笑いをする。


「僕に……昔話をしろと?」

その晩、メグ、リック、ビアンカ、トムが4人そろってマーリンとともに凛の部屋を訪れた。


「うーん。確かに、僕の正体、というかいきさつについて知りたい、ということだけど。まあ、聞いてもどん引きするだけだと思うけどなあ。」

凜は苦笑しつつも語り始めた。


[西暦2113年 5月21日、地球]


「母さん、人生に『やり直し』はきかない。だから、俺は自分の信ずる通りに生きる。」

俺はこう言って家を飛び出した。まあ、また3日経ったらまた帰るけど。


「バカ言ってないで勉強しな! それこそ、人生に『取り返し』がつかないよ。」

後ろから母の怒号が響いた。


母親にカッコいいことを言ってはみたが、俺の行動の方はそれほどかっこいいものでもない。俺は世に言う、「ドルヲタ」つまり「アイドルオタク」なのだ。

無論、俺はその呼称を受け入れることを良しとはしない。というのは、俺は既存の人気アイドルに現を抜かしている『踊らされている』連中とは違うのだ。

むしろ、キラリと光るダイヤの原石のようなアイドルを発掘し、それを磨き上げるべく、日夜応援を続けているのである。そう、ブームを起こす側の人間なのだ。もちろん俺はマネージャーでもなんでもない。しかし、俺の精神はすでにプロデューサーを超えているのだ。


ところで、俺の名は棗凜太朗。「なつめ、りんたろう」と読むのだ。現在は働き盛りの高校2年生である。

 今はこうして、月に一度の定例会(コンサート)に出席するべく、州都の「玉の原」へ向かう高速バスに揺られているのだ。晩秋の5月の空は、白々と明け始めていた。


バスは南半球の大平原パンパのど真ん中を真っ直ぐに伸びる高速道路をひたすら走り続けている。腕時計に目をやる。一晩中走っても、まだ朝5時だ。あと2時間はこのままバスに揺られなければならないだろう。俺はもう一度眠るために目を閉じる。しかし、これから行くコンサート会場でやるべきことを考えると高揚感のため、そう深くは眠れないかもしれない。


まず、街に着いたらコンサート会場へ赴き、並んで整理券をゲットする。一番良いフリー席を取るためには時間を惜しめないのだ。そして、夕方にもう一度並び、一晩をそこですごして翌日昼までの開場を待つ。良い席を狙うためにはこうするほかはない。そして、コンサートが終われば再びバスへ向かう。こうして、毎月のように俺は0泊3日の旅をするのだ。定例会(コンサート)に行くためにだ。

 俺の占めるべきベストシートを狙う「ハイエナ」どもよりも早く、そこへ到達しなければならない。この時ばかりは全速力だ。


アルゼンチンのパンパと呼ばれる大平原の隅っこに、大和州はある。第三次世界大戦、本土に核攻撃を受けた大和国は多くの国民と国土の大半を失い、幾つかの国に分かれて移住し、それぞれ自治州を作っている。

 それも、もう、70年近くも前のことだ。だから、俺の家族の中で戦争のことを知っているのは曾祖母ぐらいだろう。それも、とっくに呆けてしまって、施設に入ってしまった。

 ただ、核戦争の傷跡は世界中に残っていて、世界の人口はどんどん減っているそうだ。まあ、俺も子供は要らんのかもしれん。まあ、どうせ、こんな生活を続ける限り、出会いも貯金も無いもんな。


辛気臭い話はまあ、こんな所で。

 俺が今夢中になっているのは「ブエナス・チキータス47」というアイドルグループだ。大和人だけじゃなく、ハーフの娘もアルゼンチンの娘もいて、すごく可愛いのが揃っているのだ。主に、大和語とスペイン語で歌ったり、踊ったりしている。

 ここ中南米ではトップクラスの人気と言っていい。俺がそのメンバーの中でも特に「推して」いるのが「ゆいたん」こと久遠唯くどお・ゆいである。

 彼女は大和人のクオーターで、ハッキリした目鼻立に加えてキュートで人懐っこい笑顔がすごく可愛いのだ。

まあ、歌はそこそ……いや、『上達の余地』を大いに残している。ただ、ダンスは抜群で、長い脚を華麗に駆使したステップが超絶上手い。幼い頃から、アルゼンチンタンゴを嗜んでいたそうで、プロ級だと俺は思う。


まあ、彼女が「研修生」だった最初の2年前は俺「だけ」が、その素晴らしい素質を見抜き、最初期から応援していた。ただ、俺の布教とゆいたんの努力が実ったのか、ここ数ヶ月で一気に人気が上昇し、みんなの「ゆいたん」になってしまい、Pプロデューサーを超えた魂を持った俺は、複雑な気分ではある。


今やトップチームのセンターを狙える位置に、というか、今回の定例会で発表される新曲でついにセンターに抜擢されたのである。


「うーむ、歌唱力の底上げはいかほどであろうか?」

1日かけてゲットした席で、俺は翌日の開演を待ちながら隣の「チキ友」(ファンクラブのメンバー)の山田氏に呟いた。

「ほう、棗氏、『育ての親』としては不安ですかな? ゆいたんの初センター。」

氏は「ゆいたん」の公認個人応援団である「ゆいクラ」の大幹部(シングルナンバー)メンバーである俺に気を使ってくれた。


 コンサートは最高だ。メンバーもファンも一体になって大いに盛り上がる。

そして、コンサートも終盤に差し掛かると、初センターで緊張気味の「ゆいたん」はマイクを取ってMCをはじめた。

きっと、何度も練習を重ねたに違いない。頑張れ、噛むな。噛むな。


「みんな! 今日は会いに来てくれて、本当にありがとう〜。今日の新曲は、「YSI」のキャンペーンとタイアップしてます。「YSI」は「大和宇宙研究所」というところで、地球から一番近い可住惑星への移民船を作っている夢のある組織だよ。

実は、YSIは支援メンバーを募集していて、ゆいも登録したんだよ。みんなも、協力してみてね。 新曲はアップテンポでキャッチーなダンスチューンです。

聞いてください。『宇宙(そら)にかかるかけはし」です。」

会場のボルテージは一気にマックスだ。


「まあ、アップテンポにすれば、多少はごまかせるか。」

「リズム感だけは良いですからね。」

俺は「ゆいたん」の歌の不出来に若干やきもきしながら、魂を込めてサイリウムを振った。


定例会の終わり、バスの出発までの時間、俺がぶらっとしていると、新曲のタイアップ先のブースがあった。そこには麗しい「ゆいたん」のお姿を入れる、「YSI協力ロケット」が、なんと、無料配布されていたのだ。ペンダントの「ロケット」と宇宙船の「ロケット」がかけてあるのがややベタだと思ったが。


「いやいやいやいや、棗氏。ただより高い物はござらぬ。」

山田氏がふらふらとそこへ吸い寄せられていく俺を引き止める。

「献体申請書?」

怖いほどの笑顔を貼り付けたスタッフに何やら不穏な書類を渡されてしまった。

「それにサインしていただければ、この『プラチナロケット』を差し上げます。これにはシリアルナンバーがついておりまして、特典といたしまして、ななな、なんと、次回の定例会で催されます『ゆいたん』との握手会の参加券が付いています。」

スタッフは揉み手をせんばかりに勧めてくる。


俺は怪しいと思いつつも、その豪華特典にほだされ、つい、そうついそれにサインしてしまった。

「いやあ、円盤(CD)買わずに握手券、悪くない。」

俺は帰りのバスに揺られながらホクホク顏であった。バイト代のほとんどは、バス代とチケット代とCD代で消えてしまう。ただで手に入るなら、こんなに良いことはないだろう。


「ホントのホントに大丈夫でござるか?」

帰りのバスに揺られながらも山田氏はまだ疑っている。

「献体、ってたって、死なないと取られないんだから大丈夫だって。そう簡単に死んでたまるか。」


 俺はバスの硬いシートに身を寄せ、眼を瞑った。しかし、何時間か寝た後、俺は異変に気付く。エンジン音が異常に高いのだ。スピードも異常なほど上がっている。真夜中のハイウエイで真っ直ぐな道ではあるけれど、これはあんまりだ。すると、今度はバスが蛇行をはじめた。


「棗氏、何かおかしいですな。」

山田氏が俺を揺り起こそうとする。バスの中がざわつきはじめる。

「なんか、どころじゃないよ。」

俺はだんだん酔ってきたのか気分が悪くなって来た。

「運転手に一言申し上げに行ってくるででござる。」

山田氏は、揺れる車内でふらつきながら前方へと歩いていき、一段下がったところにある運転席へと向かった。


しかし、山田氏の挙動がさらにおかしい。

「やばいよやばいよ。やばいでござる。この運ちゃん、意識がないでござる!」

衝撃の言葉だった。


「誰か!誰か手伝ってくれ。ブレーキを引かないと。」

山田氏の要請に出張って来たおっさんがハンドブレーキに手を掛けた。

「おい、いきなりそんなものかけたら……」

誰かが声をかける間もなくブレーキが、運転手の身体が邪魔なせいで中途半端に引かれる。


 「グキキキキキキキ……。」

バスは異音を立てると挙動を一気に失い、片輪走行を始めると、一気に壁面に衝突する。そこはちょうどガードレールしかない部分で、バスの勢いを止めることなどできなかった。

 そして、その勢いでハイウエイの外にバスごと下の崖へ目指してダイビングしていった。そして激しい衝撃、人が、荷物が、車内を飛び交い、転げまわる。窓ガラスが割れ、外から軽油の臭いが流れ込む。

俺もあちこちを打ちつけ、負傷する。痛い、痛すぎて声も出ない。今べったりとついている血糊はもうだれのものだか分からない。


俺は遠ざかる意識の中で上に向かって手を伸ばした。

「ゆいたん。握手会、俺は行けるのだろうか」

そこで俺の意識はブラックアウトしたのだ。

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