第6話 アムリタ

――――

「君。大丈夫か?」


 不意に誰かに声を掛けられて意識が戻った。


「う、んん」


 目を開けると一人のラマ僧が俺の顔をのぞき込んでいた。

 慌てて「え、ええ。大丈夫です」と言いながら上体を起こす。

 どうやらどこも怪我はないようだ。そのまま、まわりを見回すとどこかの廊下で寝そべっていたようだ。


「あれ? ……そういえば」


 さっきまで俺は石室で写真を撮ろうとしていて……、急に穴に落ちこんだんだよな。ここはどこだ?


 少し混乱して俺は周りをきょろきょろと見回した。そんな俺の様子を見てラマ僧がおもしろそうに笑みを見せている。


「君のリュックならここにあるよ。……それにしてもよくここまで来れたね」とリュックを手渡してくれたラマ僧に、

「あ、ありがとうございます」と礼を言いながら受け取った。


「いや、それが壁画を撮影していて……、急に足下が崩れた気がしたんですが」

「そうかい。……まあ、立ちたまえ。ここで話をするのも何だから奥に行こう」


 そういうとラマ僧は俺に手をさしのべてくれた。ううむ。ラマ僧には似つかわしくないくらいすべすべして綺麗きれいな手だ。そう思って見ると、僧形ではあるがなかなかのイケメンに見えてくる。

 俺はラマ僧の手をとって立ち上がり、おしりを払った。リュックを背負い、先を行くラマ僧の後をついていく。


 石造りの廊下は明かり取り窓も無かったが、不思議と暗さは感じなかった。

 突き当たりの廊下から青みを帯びた光が漏れている。「すぐそこだよ」


 廊下の出口は部屋では無かった。廊下を抜けるとそこは四方を山肌に囲まれた隙間のような空間だった。真上には高地特有の突き抜けるような青空が見える。

 四方は切り立った崖になっており、ここに来るには岩の中をくりぬいたであろう廊下を通って来るしかないようだ。とすると、ここは寺院の境内けいだいのどこかなのだろう。

 正面奥の崖に仏の像が刻まれていた。高さ8メートルほどの磨崖仏まがいぶつだ。

 その手前に2本の柱が並んでいて、さらにその手前にこんこんとわき出している泉が見えた。

 透き通った泉は不思議と青白い光を放っているように見える。泉の水は水路に流れ込んで磨崖仏の方へと流れている。


「さ、そこに座りなさい」

 ラマ僧はそういうと傍らにあったテーブル席を指し示した。

「はい。失礼します」

 俺はそういってイスに座るとその向かいにラマ僧が座る。


 ラマ僧は意味深な笑みを浮かべて俺を見た。

「さて、私はデーヴァ・インドラという」


 俺はリュックから英語と中国語の併記してある名刺を取り出して差し出した。

「日本から来ました。大学で考古学を教えています。夏樹といいます」

 ラマ僧は名刺を受け取るとそれをしげしげと見つめ、再び顔を上げた。


「ふふふ。君はここがどこだかわかるかい?」

「え? あの石室の奥ですよね?」


 俺の返事にラマ僧がしばらく考え込んだ。「その答えは正解とも不正解ともいえるな」


 思いがけない返事に今度は俺の方が考え込んだ。

「どういう意味でしょう?」


「ここは普通の人が来られる場所ではないんだよ。因縁に結ばれた資格がある者しか入れないんだ」

 言っている意味がよくわからないが、どうやら俺は寺院の禁足地である聖域に無断で入り込んでしまったのだろう。

 事故だとはいえ、申しわけなく思いながら頭を下げる。

「すみません。ここが禁足地だとは知らなかったんです」

「あ、いやそういう意味じゃないんだ」

 頭を上げると、ラマ僧はきょとんとした表情をしていた。


「ここは君がいうチベットのお寺でもあり、また同時にお寺でもない。君がここに来たのは因縁があってのことさ。だから謝る必要もないよ」

「はあ。そうですか」


「もったいぶって言うのはやめよう。君たちにわかりやすいようにいえば、ここは補陀落ふだらくへの道でありシャングリラでもある」

「は? 補陀落の道?」

 急にラマ僧が突拍子も無いことを言い出した。「そうだよ。言葉を換えていえば、ここは神に至る道の出発点だ」

 俺は驚いて言葉も出ない。


「信じられないかい? そもそも君は私の名前に聞き覚えがないのかい?」

「い、いえ……、え?」

 デーヴァ・インドラ? ――デーヴァ帝釈インドラ


 考えていることがわかったのだろう。目の前のラマ僧が笑顔を見せた。「そうだ」

 その声と共にラマ僧の雰囲気が変わる。うっすらと光を放ち厳かな雰囲気を漂わせている。


「私の役目はここに訪れた者を導くこと。……もっとも足を踏み入れた人間は君が初めてだけどね」

「は、ははは。それは本当ですか?」

「本当だとも。君がここに来たということは、君には神格を得る資格があるってことだよ」

 そういって天帝釈は泉の方を指さした。


「で、どうする? 条件があるけれども、あのアムリタを飲めば君は神格を得る。不老不死となり、神となって神通力を得る」


 俺は改めて入ってきた廊下を見た。そして再び正面の磨崖仏を見て、ラマ僧を見つめる。

 不思議とそれが本当のことだと信じられた。ここに満ちる清浄な空気。そして、ラマ僧の存在感。

 俺は天帝釈と名乗るラマ僧に尋ねた。声が震えているのがわかる。


 ――もしかして、


「あ、あの。……神格を得れば、亡くした人を救うことができるでしょうか?」


 ――これで再び春香と会えるのでは。


 俺の言葉に天帝釈がしばらく考え込んだ。

「ふむ。その救うってのがニルヴァーナのことならば無理だ。ニルヴァーナを得るにはブッダについてパーラミターの修業をせねばならない。……だが、君が言いたいことはわかっている。それとは別だろう。それならば、君の眷属にすれば君が思うような救いにはなるだろう」

「眷属ですか?」

「ああ、そうだ。だが相手がそれを受け入れればの話だぞ。……眷属になれば君に準じた存在となるんだ」


 天帝釈の言葉を聞いた瞬間。俺は叫んでいた。「なります! お願いします!」


 大きくうなづいた天帝釈は説明する。

「ただし、しばらくは私の指示に従って神天としての修業をすることが条件だ」

 それは当たり前のことだし、願ってもないことだ。「わかりました。むしろ助かります」


 天帝釈は再び大きくうなづいた。

「ならばよい。……善神が増えるのは我らにとってもありがたいことだよ」

「はい」


 「さてと」とラマ姿の天帝釈は泉に近寄ると、手に持った鉢に水を汲んで手招きをしている。俺がそばに行くと、鉢を手渡してくれた。

「これがアムリタと呼ばれる霊水だ。飲めば神格を得る」


 鉢の中を覗くと、かすかに水が青い光を放っている。見るからに不思議な水だ。けれどこれを飲むだけで神格を得られるとは簡単すぎる気もする。


 俺の内心を読んだのだろう。天帝釈が笑いかける。

「この場所に来るかどうかで既に資格が選別されているんだよ。心配しなくてもいい」

「はあ。……あの、飲んだら死ぬとかないですよね?」

「ないよ」

「ほら、飲んだら骸骨になるとか……」

「ない。ない」

「はい。……では」


 俺は意を決して水を一口含んだ。飲み口はよく冷えた湧き水と同じでおいしい。飲み下した水から不思議な力が体の隅々まで潤っていくような気がする。

 大丈夫そうだ。俺は一口、また一口と水を飲み干した。


「ご馳走様でした。……なんだか体の中が綺麗になった気がしますね」

「うむ。それでよいが、神格が表れてくるのにはまだ時間がかかる。……ついて来なさい」


 そういうと天帝釈は磨崖仏の手前にある2本の柱の方へと歩いて行った。

「……うん?」

 さっきまで単に柱が2本立っているようにしか見えなかったが、今はその間に光の入り口が見える。七色に光っており、いかにも異世界にいけそうな雰囲気だ。


 天帝釈は柱の手前まで来ると振り向いた。

「さっそく修業と言いたいところだが、アムリタの効果が表れるまで時間がかかる。……ちょうどよいから、そなたの眷属としたい女性のところへいってくるがいい」


 そういって光の入り口を指さした。

「ここを通ってゆけば時間を逆行していける。それから、少しずつ神としての力が備わるが、次に会うまではそれほどの力は使えないから安心するがいい。せいぜい幸運になるくらいだろう」


 ううむ。どうやら俺が思った以上に時間がかかるようだ。けれどこの先に行けば再び春香に会える。その喜びの方が大きい。


「また時が来れば自ずとなすべきことがわかろう。ではゆくがいい」

「はい。デーヴァ・インドラ様。ありがとうございました」

 俺は天帝釈に深く一礼した。天帝釈は俺の肩を静かに叩き、それから背中を押してくれた。


――さあ行こう。春香に会いに!

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