第12話 ひめごと

 入り組んだ日本家屋の奥で、外の光は微かにしか入ってこない。私は恋人と一緒に、いくつもの通路や障子を隔てた、建物のうんと奥に暮らしている。

 私も恋人も輪郭は曖昧で、世界の彩度もずいぶん低くて、もしかすると私たちは、人間ではないのかも知れなかった。


 建物の主は、中年の男で、私たちは「おとうさん」と呼んでいたけれど、血のつながった父親なのかどうかはわからなかった。

 おとうさんが眠っている間に、私たちは家の中を駆けまわり、うすぐらい廊下のすみで抱き合う。朝が来ると、おとうさんが目覚めるから、どこかもっと奥、誰も入ってこられないような迷路の奥に隠れなければならないのだった。


 障子を照らす青い夜の光が、だんだん薄らいで、白くあかるくなる時分。

 ――おとうさんが起きてくるよ。

 私は名残惜し気に、私を抱きしめてくれる恋人に言う。

 向こうの部屋で、ごそごそと音がする。無粋な音。おとうさんが目覚めて身動きをする音。

 ……私たちの時間が終わる。

 ――旅に出たいね。

 けだるげな声で、恋人が言う。

 そう、それは素敵な思い付きだ。どこか遠くの街へ。近代風の清潔なアパートメントで。誰にも気兼ねなく暮らす。昼も夜も堂々とふたりでいる。手をつないで買い物に行き、夜景を見ながらくちづけをかわす。

 でも多分、私たちは、この家を出ると、いつか消えてしまうのだ。

 確信に近くそう思いながら、私は恋人の手を取って歩き出す。

 早くしないと、もうじき、おとうさんがこの廊下を通るだろう。


(おしまい)

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