第8話 白い部屋から駆けていく
子供の頃は怖いもの知らずだったのだろうか。
それとも、怖いものだらけだったのだろうか。
幼い頃の私は、何もかもが怖かった。
死ぬこと、暗闇、トイレ、鏡、窓辺で光に照らされる塵の粒、お母さんに叱られること、友達に嫌われること、見たことない食べ物、誰かが読んで置き忘れた古い本、巨大な真理から些細な出来事までほとんどすべてを恐れていた。
毎日何かにおびえていたあの頃、いちどだけ親に、白い不思議な部屋に連れていかれたことがある。そこは壁も天井も床も真っ白で、白衣を着たやさしそうなおばさんがいて、紙と色鉛筆、それと、おおきな箱庭のおもちゃを渡されて、好きなように遊んでごらんと言われた。私以外の誰も遊んでいなくて、皆が私をじっと観察していた。薬のようなにおいがした、と思うのは、白い部屋の嗅がせた錯覚だったかもしれない。遊ばなければ叱られる、という恐怖から、私は遊んでみせた。紙に大きなひまわりの絵を描いた。きっとそういう「遊び」を、彼らは望んでいるのではないか、と思ったのかも知れない。色鉛筆の中で黄色が一番長かったからかも知れない。
不思議な空間の正体は、大人になった今ではうすうすわかるけれど、もしかして全部、不安だった私の思いついた空想だったのかも知れない。あの頃の不安は途切れることなく今につながっている。たくさんの恐怖と折り合いをつける術は覚えたけれど、怖くなくなったわけじゃない。
うっかり道路に飛び出してみたり、高い階段の上から飛び降りても平気な気がしたり、そういう無茶はなんどか繰り返したと思う。そのたびに、子供は怖いもの知らずだから、と言われたけれど、それはやっぱり違うと思うのだ。
私は何もかもが怖かった。怖さを紛らわすために懸命に走っていた。まるで恐れを知らぬ盲目の走者のように、障害物のでこぼこ道を。世界が自分を飲み込んでいくのがあまりにも怖かったから。
今はもう、そんな風には走れない。
(おしまい)
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