Case.4:私達の最後の生き残り
序:女王陛下の運び屋
時に黒く、時に灰色の、あの醜い空を、疎ましく思ったことこそあれど、恋しいと思ったことはかつて一度もなかった。
だが、今この時になって――白く蔓延る霧の海に飲まれ、全ての退路と食料を失ったこの時になって、ついに考える。
例えどれだけ穢れ淀んでいたとしても、無いよりはまし、というものは確かにあるのだと。かつて敵地の山中で一人取り残され、予定より七十二時間ほど遅れて、中破した回収班のヘリを見つけた時も、思えばそんな風に考えたのだった。
一枚の織物のように密度の濃い霧は、五体を投げ出した彼の上に覆い被さってくる。頬にひやりと触れる感覚は、恐ろしいことに心地よくすらあった。
いっそ胸いっぱいにこの霧を吸い込んでしまえば、耐え難い喉の渇きも、内臓を苛む空腹も、全てを忘れられるのだろうか。
甘美な空想を弄ぶうちに、霧は波打ち、囁くように形を変えていく――
ふと気付けば、そこに少女の顔があった。
東洋人にしては目が大きく、鼻筋が通った顔立ちである。ヘイゼルナッツ色の眼に、赤茶色の髪。右の眉尻に切り傷の痕が残っている。薄い唇が真っ直ぐに引き結ばれた感じなど、渡された写真にそっくりだった。
(……いよいよか)
幻覚を見始めたということは、彼も長くない――今際の際になって、運搬対象の少女の顔を思い起こすとは、我ながら随分と仕事熱心だと思う。
どうせならハイスクール時代のエレノア辺りを思い出したかった――癖の強いブルネットがコンプレックスで、雨の日はいつも機嫌が悪かった。しかし彼はあのふわふわとした手触りが好きだったし、もっと言えば、あの抱き心地の良い腰回りも大好きだった――
はっとする間もなく、ただ、眼で見たものに身体が反応していた。
少女が振り下ろしてきたバールを鼻先でかわす。
鋼鉄がコンクリートを弾き、俄に火花を散らした。回避の勢いで背中を擦りつつ、彼は腹筋を使って足を振り上げた。バールを握った腕にしがみつきながら、肩口と首を両の脚で挟み、自らの身体を回転させる。
見た目通りに華奢な体格の少女は、あっさりと転倒した。
脚で抑え込み、肘の関節をしっかりと極めて、手の中のバールを取り上げる。
そして彼は、ようやく息を吐いて、改めて自分の仕事熱心ぶりに驚嘆した。あるいは、習慣というものの強靭さに。
「放せ――放せっ」
脚の下でじたばたと暴れる少女を、手首の関節を捻って黙らせる。
「痛っ」
「……もしかして」
彼はもう一度、じっと少女の顔を見つめた。
「マジでアンジェラ・オハラか。お前」
どうやら、幻覚ではなかったらしい。
「放せ、オッサン!」
「誰がオッサンだ」
一段深く手首を捻る。
「痛たたた、たた、痛い、痛っ、オ、オッサン! 放せオッサンっ」
「正直に答えろ。でなければ、俺もお前のことをオッサンと呼ぶ。あと手首折る」
皮膚の下、腱が伸びる何とも言えない感触。
「ああ、オッサン、不敬だぞ――この、女王陛下に、向かってっ!」
「五つ数えるぞ。五――」
コンクリートに押し付けられた頭を無理矢理こっちに向けて、少女が凄む。
「いいか、わたしが、命令、したら、オマエなんか、あっという間だからな!」
「四、三」
「あっという間に――オマエも、わたしの、下僕、だぞっ」
「二、一――」
「やれ――みんなッ!」
瞬間。
彼は身体を前に投げ出した――前転しながら少女の身体を引き上げて、今度は逆方向に腕を捻じり上げる。そうしながら、先程まで背中を向けていた方向に、彼女を押し出す。
果たして、彼女を認識したのか、それとも彼女自身がそうさせたのか。
乱杭歯を剥き出した腐乱死体――『
「……はは。マジで――ホラじゃなかったって訳か。
彼は呟いて、それから、もう一度見た。
唾を飛ばしながら罵声を上げる少女――『虚ろわざるもの達の女王』を。
「畜生、放せオッサン! 馬鹿! ヒゲ! アホ!」
『――アルファ・チャーリー・フォーの通信が途絶えた。これで捜索隊の三割が
モニター越しに届いたドミンゴ・ホベール
霧深い土地に来たせいか、車内の空気も妙に湿っぽい気がする――もし仮に、あの霧が僅かでも車内に入り込んだら、彼女達はもう人間ではいられないのだと、知ってはいたけれど。
それでもうねる髪の毛を、出来る限り指先で伸ばしながら、彼女は言った。
「ふぅん……芳しくないですね。とっても、芳しくない」
ただ所感を口にしたつもりだったが、どうやらそれもドミンゴの癇に障ったらしい。
ラテン系らしき浅黒い顔に、僅かな朱が走る。
『……このままでは作戦の失敗は避けられない。
「瓦礫の中から彼女を見つけても、あなたの
窘めてから、これも違ったか、と更に赤らんでいくドミンゴの顔を見ながら気付く。
血の気の多い軍人達を御するというのは、存外難しい。よくよく知っているつもりでも、つい口が滑ってしまう。
「エレノア博士の言うとおりだ、ホベール
追い打ちをかけたのは、壮年の男だった。電動車椅子に据え付けられたキーボードを絶え間なく叩きながら、フォルカー・フィッツ博士はちらりとドミンゴを見やる。
彼は言葉を失ったようだった。
恐らく脳内では何度か彼女達を絞め殺していることだろう。
『……引き続き、捜索を、続行する』
かろうじてそれだけを絞り出して、
エレノアはその背中を見送ること無く、自分の前に広げたラップトップの液晶に意識を戻した。頬にかかる癖毛を指先でいじりながら。
「やはり“
同じく自分の端末を見つめたまま、フォルカーが呟く。
「いくら指揮官が無能とはいえ、これだけの“
「相変わらず彼女に夢中ですね、フォルカー博士」
何気なく言って、やはりそれもまずかったかと思い、彼女はフォルカーを振り向いた。長く白い眉の下から、鋭い緑の眼光。疑うまでもなく怒っている。
「君も惜しい人材だな、エレノア博士。その減らず口さえ無ければ、インスティテュートで教授職も夢ではなかっただろうに」
「失礼しました」
小さく目礼をしながら。
うっすら血管が浮かぶ彼の禿頭を見やって、密かに溜め息を吐く。
(その短気が無ければ、あなたもね)
それは言わない方がいいだろうと、流石にエレノアも気付いていた。
「この子は、友軍なんだ。わたしと同盟を結んでくれた」
自信満々に、少女――アンジェラ・オハラはそう言い切った。
彼は、伸びっぱなしの髪を掻き毟りながらぼやく。
「同盟ね。どこの王様だよ、お前」
「だから! 言ってるだろ、オッサン! わたしは
アンジェラが鼻を鳴らす。
崩れかけたコンクリート壁に背中をもたれかけたまま、彼はそれを見上げた。
あたかも賛同するかのように蠢くのは、彼女の傍に控えた三名の『
全くどうにも信じがたい。
“
姿も形も能力も多種多様でありながら、共通する点は一つだけ。
連中は人よりも強く賢く、何よりも人を好んで食料とする。
そんな連中を目の前にして、こんな呑気に会話が出来るなど。
だが、認めなければならないだろう。事実、目にしてしまったのだから。
彼は溜め息を吐いた。
「ジョシュアだよ。ジョシュア・ヤワタリ。オッサンじゃない」
「……わたしは、オッサンなんて信用しないからな」
あくまで警戒を解かないつもりらしい。
睨みつけてくるヘイゼルナッツの瞳を、ジョシュアは見るともなしに見返した。
「もう一回言うぞ。俺は、お前の大好きな、お母様に頼まれて、この地獄の釜の底までやってきた。お前を人間社会に連れ戻すためにな。ここはもう
何度目になるか、彼は説明を繰り返した。
『
本当のところ、母親を名乗る依頼人が何者かは知らない。知る必要もなかった――ただ、信頼できる筋の紹介で、妥当な報酬が示されれば、それで充分だった。
“
「肩、折ろうとしたくせに」
果たして何度目の呟きか。
「殺されなかっただけ、ありがたく思えよ。バールで殴りかかってきたくせに」
流石に苛立ってきて、ジョシュアは吐き捨てた。
「ほら見ろ! やっぱり殺そうとしたんだろ! ロリコン! シリアルキラー! オッサン! バカヒゲ!」
「三日剃って無いんだよ! このクソッタレの霧の中で、お前探すのにどんだけ苦労したか!! 飯も食ってないんだからな、こっちは!」
叫びながら、無駄なカロリーを消費したことに気付く。
「ああ、もう、クソ」
盛大に抗議の声を上げる腹の虫を宥めながら、彼は背後の壁に寄りかかった。無残にガラスが砕けた窓を仰ぎながら、回らない頭で無理矢理思考を行おうとする。
少女一人だけなら簀巻にして運んでもいいが、その場合、どう考えても周りの『
「……お腹、空いてんの。オッサン」
「ついでに言うと煙草も吸いたいしシャワーも浴びたいし、まあとりあえずは柔らかいベッドで三日ぐらい眠りたい」
溢れる欲望をそのまま口にしながら、彼は思索を続ける。
“
一つ付け加えるべきなのは、この街が滅びたのは、“
きっかけは、一本の航空便だったと言われている。
離陸の直前、管理番号A〇九一〇――だったか、〇八一〇だったか忘れたが――通称『
パイロットを最後まで喰わなかったのは、まったくもって悪知恵としか言いようがない。
霧状の“
吸えば『
その上、減らず口ばかり叩く足手まといを連れて――
「ほら。オッサン」
「だからジョシュアだっつの――」
毒づきながら、視線を元に戻すと。
そこに缶詰があった。開いた蓋の中から、何か生々しい物が覗いている。
「……何の死体だ?」
「ご飯だよ。犬用だけど。お腹空いてるんだろ」
言いながら、アンジェラはそれに――薄桃色の、何か粉砕されたタンパク質らしきものに、スプーンを差し込んだ。一口含んで、むちゃむちゃとやりながら。
「
ジョシュアはしばし、缶の中身と少女の顔を見比べたが。
結局勝ったのは、空腹の方だった。
「……もうちょい塩っ気が欲しいな」
差し出されたスプーンを使って、合成肉をほじり出していく。
アンジェラも同じようにしながら、頷いた。
「塩は昨日使い切ったんだよ。探そうと思ったら、オッサンがいたから」
「バールでぶん殴る前にまず挨拶だろ。習わなかったのか?」
「母様、死体に挨拶しろとは言ってなかった。むしろ、わたし命の恩人だし。忠誠とか誓ってよ。そろそろ
ちょうどスプーンをくわえた所でそんなことを言われて、ジョシュアはしばし沈黙した――ドッグフードを飲み下すまで、しばしの間。
「それも母親仕込みか」
「え、必要でしょ?
確認したくもないが――まさかその、愛犬のような呼び名は、数十年前に僅かなきっかけで十万以上の人々を喰らい尽くした
ジョシュアは改めて、自分がいる廃ビルのフロアを見渡した。
ドッグフードに鼻先を突っ込みかっ食らう少女が一人。
時折不明瞭な声を上げる、三体の腐乱死体。
そして部屋中を漂う“
――恐らくこれが最適だろう。
最も手早く、最も有効な武器を手に入れるという意味でも。
彼は大袈裟に片膝を付くと、アンジェラを真っ直ぐに見上げた。
「……オーケー、
言っていることは何も変わっていないと思う――ただ、少しばかり言い回しに手を加えたというだけで。
きょとんとしている少女に、床についていない方の手で合図を送る。
「え? え、ホントに? ちょっと待って、えっと、ゴホン――
どれだけ一人で立ち振舞を練習していたのだろう。朗々と語る少女の眼は、光を零さんばかりに見開かれていた。
「御身を案じるあまり、母君は沈み込んでいらっしゃいます。お命を狙う悪鬼共の手を掻い潜り、無事な姿をお見せになることこそ、母君にとっては一番の薬となりましょう」
我ながら、よく言えたものだと思う。
依頼人とは会ったこともない。本当の母親なのかどうかも分からない。
ただ、そう名乗るからには、それなりの理由があるのだと考えただけで。
「……母様が、わたしを。本当に案じていると?」
俄には信じられないとでも言うのか。
呆然と呟く少女に、ジョシュアは頷いてみせた。
「ええ、もちろん。戯れに使いに出すには、“
ただの家出娘を連れ帰ったり、
それでもアンジェラは、迷いを見せた。
背後を振り返り、そこにたゆたう霧の海をしばし見つめて。
「……『
「はは。仰せの通りに」
彼は恭しく頭を垂れると。
素早く立ち上がり、傍らのザックを背負った。
レッグホルスターから
「あっ、ねえ、叙勲とかやる? ちょうどいい感じのカタナがあるんだけど」
「後でな。ええと――この窮地を乗り越えたならば、その時に」
「絶対ね。わたし、荷物取ってくる!」
小躍りせんばかりの勢いで走る少女の背中を追って、ジョシュアもまた歩き出した。
歩き方が辿々しいのは、左脚の大部分が腐り落ちているせいだろう。
耳まで裂けた口腔を蛇のように開いた『
血液とも呼べぬ体液を躱しながら、彼は脚部の
火花を散らす履帯の勢いに乗って、居並ぶ“
おおよそ十を数えた辺りで、部隊のバギーを見つけた。ひび割れたアスファルトの上でターンを決めながら、車両の後部に陣取る。
「ここは限界だ、ドミンゴ
「ウルセェ、知ってるよフクオカ。さっさと動くぞ」
ガスマスク越しに毒づきながら、ラテン系の大男は
「出せ、ヤン!! 次だ!」
「アイアイ」
運転席の女がアクセルを踏んだ途端、タイヤは凄まじい悲鳴を上げた――弾丸よろしく走り出すバギーのバックバンパーを、彼――福丘喜代志は何とか掴んだ。
「これで何ブロック目だ?」
「百六番目だ、
喜代志は即答した。
ラテン系――ドミンゴは罵声を上げながら、
「ああメンドクセェ、クソ! 焼け死ね、ゾンビどもが!!」
「そう熱くならないでさ、ボス。先の長い仕事なんだし」
気楽に左手を振りながら、制帽を被った女――ヤン・ミーがハンドルを切る。横転したバスを中心に築かれたバリケード跡を、バギーは華麗にドリフトでかわしてみせた。
「んで、キヨシちゃん。一応聞くけど、収穫は?」
激しく左右に揺さぶられながらも、彼女の気怠い様子は変わらない。
喜代志は辺りに腐乱死体が少なくなったのを確認すると、バギーの荷台に飛び乗った。遠ざかる火球に向かって、合掌する。
「マジメだねェ。流石、ピュア・ニッポンジン」
しばしの黙祷を捧げてから。
「……妙な『
「ジャップ好みのロリータか」
ドミンゴの揶揄に、頭を振って。
「一体はハンマーで頭を砕かれていた。もう一体はロープか何かで首を切断されていた」
「あいつら、頭取れると死ぬんだ。あ、てかもう死んでるのか。浄化? とかされんの?」
例え、体内に微粒子群体である“
生きながらに身体が腐り続ける苦痛と恐怖、癒やされることのない餓えと渇きに苛まれている状態で、果たして正気を保っているかはともかくとして。
だからなのだろう。
『
だが、重要なのは、そこではなく。
「……どこかのジャンク屋がやったんじゃねェのか」
「にしては、やり口が見事過ぎる。血痕も薬莢も無かった。手馴れたものだ」
しかもかなり用心深い。
「チッ――あのクソジジイの妄想が現実になったって訳か」
心底憎らしそうに、ドミンゴが唾を吐いた。
「“
ヤンの疑問に、彼は苛立たしげに答える。
「“
頷いて、喜代志は
残留していたガスが抜ける短い音と共に、
「……第三勢力か」
「たかがガキだろ? 未確認の
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