破:ヤるなら殺る気で

 正直なところ、ロンドンだろうが極東だろうが、彼女の暮らしに大差は無かった。

 反省房の暗さや寒さも同じようなものだし、寮の造りも食堂のメニューも――ああ、まあ、確かに日本食の味は全然違うけれど――日々の訓練内容カリキュラムだってそれ程の違いはない。基礎体力トレーニングから始まって、特異能力制御、水泳、特殊車両とヘリの操縦に爆発物処理、長距離行軍、サバイバル訓練、射撃に近接戦闘。

 そう。一つだけ違いがあるとすれば。

「甘い」

 右後方――眼帯をしている側――、完全な死角から繰り出した手刀はいとも容易くかわされ、それどころか手首と肘を見事に極められ、剥き出しの土に顔面から叩きつけられる。鼻の奥まで土が入り込んで、きな臭い匂いが弾けた。

「ぐ――クソシットッ」

 固定された肩を支えに、背筋だけで脚を跳ね上げ、相手の首に絡めようとするが。

「だから、甘い」

 後頭部からの一撃でさえ、あっさりと掴み取られてしまう。右腕を極められた上に右脚を取られ、背中同士を押し付けるようにして空中で逆エビ固めにされている――恐らく。

「――ッ、……!!」

 背骨を撓ませる、尋常ならざる負荷に言葉が出なくなる。

「判断が早いのは長所だけど、攻めのパターンが少ないとすぐに捕まるよ」

「……先生。もう決着はついたように思います」

 やんわりとした佳奈の仲裁。

 彼女に庇われるのは腹が立つが、抗議する余裕はない。既に肺から全ての空気が抜けて、視界が白んできていた。

 かろうじて動く左手で、殴りつけるようにタップするが、彼――神宮司御来は僅かも動じる気配が無い。

「まあそうなんだけどさ。でも、意識がある内に放すと、絶対噛み付いてくるし。見てくれ、この腕のとこ。これ、絶対に痕が残ると思うんだよね」

「それはそうですが、その、なんというか、密着しすぎているというか……いえ、その、彼女の顔が致命的な色に」

(ち、く、しょう――……ッ)

 人の呼吸器系を完全に抑えこんだ上で、呑気に会話を続ける二人に果てしない怒りを覚えながらも、薄れ行く意識の中で、それすら手放さざるをえない――

 ――――

「――ぅぶわっ!」

 当然の衝撃に叫んで起き上がってから、ずぶ濡れの髪とジャージを見下ろして、水をかけられたのだと気付く。

「よく眠れましたか?」

 バケツを構えたまま、佳奈か慇懃無礼に微笑む。

「……もうちょっとイージーな起こし方、無かった?」

「出来るだけ早く起こしてあげようかと……涎を垂らしながら無様に痙攣している姿が、あまりにも悲惨だったので」

 まったく大した救援規定だと、千鶴は胸中で毒づいた。

「あたし、どんぐらいオチてた?」

「そうですね、見事なドーナツ状に折り曲げられてから三十秒で失神、先生がそれを確認するまでに五秒、指示を受けて私がバケツを取りに行って水を汲んで戻ってくるまでに一時間ほどでしょうか」

「バケツ時間かけすぎっしょ」

「場所をど忘れしてしまって」

 しれっと言ってのける彼女に、思わず頬が痙攣する。

「マジでイイ性格してるよね、クソ優等生グッディ

「負けたあなたが悪いんでしょう。下品なだけならまだしも、弱いならさっさと消えてもらえませんか? ここは子供の遊び場ではないので」

 襟首でも掴もうとするが、伸ばした手は容易く弾かれた。まだ感覚が戻りきっていないせいか、まるで他人のもののように動きが鈍い。

「……一応聞くけど。あんた、毎日とトレーニングしてんの?」

「失礼ですよ。先生です」

 つまらない指摘は、鼻を鳴らして無視する。

「御来先生はとても優秀な教官です。史上最年少で特殊事案課エクソシスト特別執行官エクスキューショナーに採用されて以来、数々の任務を成功させ、その祓除数キルスコアは世界最多。右眼を失って前線を退かれるまでは、人類最強の男ジ・インヴィンシブルと呼ばれた方なんですから」

 佳奈は早口にまくしたてて、それからどういう訳か誇らしげにこちらを見下ろしてきた。

 口の端で笑いながら、やり返してやる。

「つまりアレ? 『私ィ、御来センセェの優秀なDNAが欲しいんですゥ』ってこと?」

 わざわざご丁寧な解説を受けるまでもなく、彼の経歴は千鶴も知っている。世界最古の“E抗体レジスター”因子を持つ神宮司一族ジングウジ・ファミリーの嫡子。歴代当主の中でも、更に飛び抜けた能力を具えた真の超人。そして数少ない“非人工適合者ネイティヴ・アクセプター”。

 、千鶴は遥々この“爆心地グラウンド・ゼロ”までやってきたのだ。

 魑魅魍魎共が巣食う最果ての地へと。

「今すぐ黙ってもらえますか? 下劣な品性が伝染ると困るので」

「我慢しなくてもいーんだよ、にゃ、どーせ何も言えないんでしょ?」

 煽れば煽るほど、佳奈は眉間の皺を深くする。

「次のトレーニングは注意してくださいね。喉笛が潰れてしまっても、私のせいにしないでください」

「ウッザ。何スカしてんの。

 鈍い音。

 校庭に植えられていた大きな欅の木が、ミサイルでも食らったように爆裂したのを、横目で確認する。飛び散った枝葉が、頭上からばらばらと降り注いだ。

「ごめんなさい、

(……喉笛で済むわけ無いじゃん、この腹黒)

 思わず冷静に抗議したくなるが。

「ああ……そうか、あれか。また反省房に入りたいのかな? 二人とも」

 どこからやってきたのか――本当に気付かなかった――、神宮司御来が呆れた顔で二人の間に踏み込んでくる。わざとらしく額に指を当てて、

「君らが反省房に入ると、先生も怒られるから、ホント、やめて欲しいんだけど」

 溜め息などついてみせる。

「んじゃ、センセーがしてあげてよ。優等生グッディみたいだし」

 刃のような視線が飛んで来るのを、千鶴は素知らぬ顔で無視した。

「分かったよ。そんなに体力が余ってるなら、

「っな、んなななななに、なにを、先生っ!?」

 一瞬、わざと言ってるんじゃないかと思うが、もし彼がそういうタイプなら、佳奈のような優等生など、とっくににされていることだろう。

「とはいっても、今日の能力使用割当時間はほとんど無いからね。ボクシングルールにしとこうか。十オンス、ハーフラウンド、三カウント」

 というのは、何を勘違いしたのか、耳まで真赤にしている佳奈をちらりと見やれば分かることだったが。

「わ、私は、その、別に、大丈夫です。今日のノルマは完了してますし」

 しかしこれは、良い機会かもしれない。

 彼の真の実力を知る――あるいは、、という意味で。

「……ね、センセー。それマジで言ってんの?」

「質問の意図が分からないな、琴城」

「“適合者あたし達”が、そんな軽いルールですると思ってんの、って話」

 言いながら、千鶴は口角を吊り上げた。

「見せてよ、センセーの本気」

 いつも眠たげな御来の左眼が、僅かに細められる。人差し指で、眼帯に覆われた右の眦をこすりながら。

「安い挑発だね、琴城。僕、何か恨みを買うようなことしたっけ?」

「別に。あたしはただ、お願いしてるだけ。聞いてくんないなら、今日も反省房セルに帰ろうかなーとは思ってるけど」

 御来が何かを言う前に、出しゃばってきたのは佳奈だった。

「教師に対する脅迫は、重大規定違反になり得ますよ――」

「ああ、いいよ白鳥。ありがとう、大丈夫だ」

「でも、先生」

「殴り合いでしか解決できないこともあるよ。それも本気の。結局、ここは“スコラ”だからね。君もよく知ってるだろ」

 だが、御来に窘められて、あっさりと沈黙する。

 彼は手元の携帯端末を確認すると、それを入れたジャケットを佳奈に手渡した。シャツの袖を捲りながら、ぼやくように続ける。

「残り割当時間は三分十七秒。ワンラウンド限りの特別訓練ってとこかな?」

 佳奈も、濡れた頭を何度か振ってから、伸びすぎた金髪をまとめ直した。軽く地面を蹴って、身体を温める。

「ね、センセーってさ、んでしょ? 時間切れになったらどうなるの? 溶けて死ぬのの? それとも人間松明ヒューマントーチになんの?」

 言葉に、御来は笑った。

 いつも薄惚けた表情しか見せない青年の、はっきりとした笑み。苦笑いでも愛想笑いでもなく、まして甘くも優しくもない。

 手頃な獲物を見つけた、狩人の笑い方。

「不安なんだな、琴城? 次は白鳥も庇ってくれないと思うから、覚悟した方がいい」

 その一言で、千鶴は完全に

「センセー。それ、無茶苦茶笑えるんだけど――

 この男、一度凹ませてやらないと気が済まない。

 左手で、Tシャツごと胸元に指を突き立てる。

 『抱擁する者ファフニール』への接続アクセスから形質覚醒ブートアップまではコンマ二秒。変形した右腕の爪で、御来の首を刎ね飛ばすまでにコンマ四秒。

 五条の黄金が、笑う男の顔を無残に引き裂いた。

「今のは惜しい」

 そう上手くいかないのは分かっていた。

 だが、それでも結果は予想外だった。

 振り抜いた彼女の手――分子編列積層装甲をも斬り裂く“強欲なる黄金グリーディ・ゴールド”の爪が、残らず消滅していた。

 否。

 泡立ち、煮立ち、蒸発していた。

「驚いてる暇は無いよ。残り二分五十二秒」

 御来が、黒革の眼帯を放り捨てる。その下から覗いたのは、眼球ではなかった。

 光。炎や雷電といったレベルではない。とてつもないエネルギーの凝縮。

 資料では知っていた――だが、それでも感じた。

 恐怖を。

 “大災厄カタストロフィ”の中心に君臨し、一度は地上の全てを焼き払った“大いなるものグレート・ワン”。

 ここにあるのは、僅かな“残り火”に過ぎないというのに。

「――っああああああぁぁぁぁッ」

 左ジャブから右ボディ、続けて左の回し蹴りから始まる足技のコンビネーション。有効なダメージが無いことは知っていた。それでも千鶴は全力で放つ――ふりをした。

 御来は躱し、いなし、受け流してみせる。化け物じみた動きの正確さ。まるで彼女の動きを全て先読みしているかのような。

「残り二分三十秒――」

 だが、それは千鶴にしても同じことだった。

(あんたの技は、一度見てんだよ――ッ)

 だから、やがてその瞬間が来ることは分かっていた。

「――残り、四十二秒」

 彼が拳を受け止めざるを得ない状況。

 千鶴はその一撃を、掌底に変えた。

 御来はそれを組み合わせた腕で受けようとして――僅かに、目を見開いた。

 鱗状の“強欲なる黄金グリーディ・ゴールド”が音を立てて形を変えていく。五本の指が螺旋を描きながら収束し――まるで砲身のような。

「く、ら、え」

 二つ目の心臓が生み出すの本流を、千鶴は躊躇わずに解き放つ。

 ――充分過ぎるほどの電荷を帯びた重粒子線は。

 不意にねじ上げられた腕のせいで、遥か頭上へと伸びていった。

「そこまでです」

「――白鳥。君か」

 眼には見えない腕で、千鶴の腕は疑いようもなく脇固めを取られていた。

「今の特異能力スペシャリティ。殺す気でしたね?」

 告発のつもりか。押し付けがましいほど朗々とした佳奈。

 千鶴は、振り向いた。視線で誰かを殺せるなら、間違いなくそうしただろう。

「先に殺して欲しいんなら、そう言えって――優等生グッディッ!!」

 吼えながら、左腕を構えて。

「残り十八秒。僕が爆発四散する所が見られなくて残念だったね、琴城」

 顎先と首筋、そして鳩尾まで、一瞬で打ち込まれたのを理解したと同時、視界はあっという間に暗転した。



「――先生? 聞いてますか、神宮司先生?」

「あー、はい。聞いてます。すごい聞いてますよ、真田先生」

 彼はなんだか妙に懐かしい気分で、職員室の天井を眺めていた。古い大学を買い取ってそのまま流用した教務施設は、訓練施設とは予算の額がまったく違うため、建物の痛みが酷い。染みだらけの天井も、彼自身が学生の頃に見ていたものとはまったく違うが、聞こえてくる声は間違いなく同じだった。

「もう、こっち見て、ちゃんと聞いて、!」

 感情的になるとすぐに涙ぐむのも、十年前と変わらない。

「本人達の希望で特別メニューを組んだだけですよ、先生。顎骨も無事だったでしょ?」

「あの子達はこの国の――いいえ、人類の宝なの! 分かってますか!?」

 ゆっくりと、正面に視線を戻すと。

 まとめた髪が解けんばかりの勢いでこちらに詰め寄ってくるのは、地味なグレースーツの女性だった。真田恭子――十年前、かつて御来が学生だった頃からの付き合いになるが、熱血教師ぶりは今も昔も変わらない。大きな目に涙を溜めながら、ぶんぶんと頭を振って。

「まして女の子です! もしものことがあったらどうするんですか!!」

「僕に勝てないようじゃ、いずれこの先になりますからね。今の内に摘み取ってやった方がいいんです」

 動きを止めた彼女に向けて、続ける。

「ちゃんと手加減してますから。少しは僕を信じてくださいよ、先生」

 十年前と今に違いがあるとすれば、彼も多少は交渉というものを理解した、という辺りかもしれない。

「……分かりました。専門家の意見を尊重しましょう」

「餅は餅屋ですよ、先生。正直、あの年頃の女の子のメンタルケアはお手上げです」

 溜め息を吐いて、デスクの上のマグカップを掴む。冷めたココアが、程よく甘い。

「フォローしてやってください。どうも、上手く言ってあげられなくて」

 恭子は手近な椅子を引き寄せると、膝が付きそうな距離でこちらを伺ってくる。

「琴城さんは少し、攻撃的というか、直情的なところがあるみたいですね」

「ええ、まあ。というか多分、あの子は僕を殺しに来たんですよ」

 冗談だと思ったのか――しかも笑えない方の――、彼女が顔を顰める。

「まさか、“掃灰娘サンドリヨン”のメンバーですか? あの子が?」

「あからさま過ぎるというか、まあ、彼女の教官もそれを狙ってたんでしょうね。ジャネット・ジェファーソンは昔から面の皮の厚い女でしたよ」

 千鶴のレポートに彼女のサインを見た時から、予感はしていたのだが。

 しかし、明確な証拠もないのに、掘り下げても仕方ない。

 実際のところ、命を狙われる理由など片手では数えきれないのだから――彼の存在を危険視する連中は山程いる。曰く、災厄の元凶コーズ・オブ・ディザスター歩く危険物ウォーキング・デンジャー元人類インヒューマン混ざりものミックスト怪物フリークス人の皮を被った“人喰い”イン・ヒューマンズ・クロース・イーター

 “灰まみれの街エンヴァース”諸共、地上から消し去りたいという気持ちは、理解できなくもない。

 御来は肩をすくめて、話の軌道を修正した。

「あそこまで直感で勝負する奴は初めて見ました。それはそれで大した素質なんですが、どうにも白鳥とは相性が悪い」

 能力の高さも、手段を選ばない意志の強さも、両者に共通する長所だが、如何せん個性が違いすぎた。論理的に、計算尽くでアプローチする佳奈に対して、感覚が先走る千鶴では、選ぶ手段も言葉も全く異なる。

「出来れば鼻血が出るまで殴りあわせてやりたいんですけど、握手を交わす前に、ここら一帯が更地になるでしょうね」

 あるいは、どちらかの脳味噌がグラウンドにぶちまけられるか。

「ダメですよ、乱暴なことは。他の方法だってあるはずです」

 恭子は真面目腐って、そんなことを言う。

 苦笑を噛み殺しながら、彼はもう一口ココアを含んだ。

「一緒に置いておくと、五分でお互いの首に手をかけてるような奴らですよ」

「チーム訓練はどうなんですか? 同じ目標があれば、少しは」

「誤射という名の撃ち合いです。それでも課題はクリアするから質が悪い」

 次第に、恭子の表情にも疑問符が増えていく。

「……その。逆に、どうやって訓練を成立させてるんです?」

「琴城は矛先をこっちに向けさせて、白鳥はほとんど泣き落としです。僕が教官っぽくないから、その辺は割と通じやすいんですけど」

「泣き落とし? 白鳥さんに?」

 どの白鳥のことだろうかと思いつつも、頷く。

「ええ、まあ……その、普段は目も合わせてくれないんですけどね」

 言いながら、なんだか妙に情けない気持ちになってきた。教育者の威厳も尊厳もあったものではない。

 望んで始めたことではない、とはいえ。

「……分かりました、一応、二人にも話を聞いてみますね」

「お願いします、先生」

 知らぬ間に垂れていた頭をあげると、何故か恭子は穏やかに笑っていた。

「……なんか、昔と変わりませんね。僕、泣き言ばっかり言って」

「いえ。大丈夫ですよ、神宮司先生。きっと、うまく行きます」

 軽く首を振って、彼女はそう言ったが。

 不意に鳴った緊急回線のブザー音には、情けも容赦もなかった。

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