急:穂山詠一郎と和泉絢人

 和泉=ヴァレンタイン・絢人という少年と出会って、どれぐらいになるだろう。当時の彼は、今よりも更に幼く、本当に小さな子供だった。運悪く特殊事案課エクソシストが仕留め損なった“人喰いイーター”に遭遇し、両親を失った彼は、自分は使に救われたのだと証言した。そしてこうも続けた――天使ルイーズは、両親を見捨てた自分に贖罪の機会を与えてくれた、と。

 彼と再会したのは、ごく最近のことである。

 またしても“人喰いイーター”がらみの事件で、ただし殺されかけていたのは明恵の方だった。

 その時、命を救われて、彼女は知ったのだ。

 絢人はあの日を境に“E抗体レジスター”となったことを――いや、人間をやめてしまったのだということを。

 ふと、柔らかいものが額に触れた――

「――ごめん、起こしちゃった?」

 心配そうにこちらを覗き込む少年の顔を見ながら、明恵は自分が椅子に座ったまま眠りこけていたことに気付いた。

「いえ。ごめんなさい、私」

「寝てなよ。一時間しか寝てないんでしょ」

 言いながら、絢人はベッドの上で背中を力いっぱい伸ばす。まるで彼の方こそ、ただ眠っていただけだと言わんばかりに。

 入院着を手早く脱ぐと、彼は傍らに積んでおいた衣類を漁り始めた。

 裸の上半身には、傷跡の一つも見つけられない。

「わ、これ明恵さんチョイス? なんか戦争みたい」

 普通の人間ならば、とうに死んでいる深さだった。“斬り裂き魔”の剣は鎖骨を断って肺の半ばまで到達しており、心臓に傷が無かったことだけでも奇跡だったというのに。

 絢人は、血の一滴さえ流さなかった。それどころか、肺を含めた組織が全て修復するのに数時間とかからず。

 まるで本当に、かのような。

「必要でしょう。あなたはいつも無防備過ぎるのよ」

「あの剣がおかしいんだよ。フツーのやつなら、ルイーズの翼で防げるもん」

 警視庁の特殊急襲部隊が使う標準装備は、少し彼には大きいようだった。炭素繊維を織り込んだ戦闘服コンバットドレスの上に、展性チタンを芯材にしたボディアーマーとブーツ。総務課の同期に頼んで調達してもらった放出予定品なので、無傷とは言えなかったが。

 絢人は、防弾ヘルメットを嫌そうに眺めながら。

「こんなの、役に立つかなあ?」

「似合ってるわよ」

「ホント? じゃあ今度デートしてよ。これ着てくから」

 嬉しそうに笑うと、例え金髪碧眼でなくても、少年は天使のように見える。

 明恵は軽く頭を振って、まだ頭蓋の底に居直る眠気を振り払った。

「“斬り裂き魔”の逃亡先は、他の捜査員が探ってる。あの傷だもの、そう遠くには行っていないはずよ」

 絢人が拗ねたように口を尖らせる。

「明恵さんって、ホント真面目だよね。彼氏とか出来たことある?」

「ああ、全然関係ない噂なんだけどね。“E抗体レジスター”の弱点は頭だそうよ。口に銃口を突っ込んでから頭頂部に向けて三回銃爪を引くといいらしいわ」

「誰でも死ぬよそんなの。やめて銃戻して、ごめん僕が悪かった」

 明恵は十六式ドラグーン――法執行機関向けに開発された、ストッピングパワーを重視した大口径の自動拳銃を腰のホルスターに戻しながら、続けた。

「問題は仲間の方ね」

「明恵さんの冗談ってマジで笑えないんだよな。やっぱりそういう所がマズいんじゃごめんホントごめんやめて安全装置セイフティ外さないで」

 明恵は十六式ドラグーン――装填された対異種知性体用咒式変形弾頭エンチャンテッド・ブリットは“人喰いイーター”の霊的防壁をも貫通する――を腰のホルスターに戻しながら、続けた。

「“斬り裂き魔”を助けた男、恐らくわ」

 死にかけの“斬り裂き魔”を担ぎ上げると、幻のように姿を消した男。目が覚めるようなプラチナブロンドの青年は、しかし奇妙なを漂わせていた。

 あれは、気配とでも呼べば良いのか。強烈な違和感。

もそう言ってる。は僕の敵だって」

 そして――絢人も言っていた通り――人類社会に潜伏する“人喰いイーター”は決して多くない。というより、もしいたとしても、人間には見つけ出せないというのが内実である。何故かと言えば、彼らは総じて人類よりも知能や感覚が優れているからだ。つまり、彼らが偽装しようと思えば気付ける者はなく、仮に気付いたとしても、あっという間に餌にされてしまう。

 敢えて人類を救命するような個体がいるとしたら、社会に紛れる必要があるような、特殊な捕食形態の種族だろう。

「“掃除屋スカベンジャー”だと思う?」

「あり得るでしょうね。あんな風に瞬間移動テレポートが出来るなら、死体の隠蔽なんて訳ないわ」

 着替えの終わった絢人は、隣の籠に投げ入れられたボロボロの私服から、財布や鍵の類を探り始める。

 その横顔は、考えあぐねるような色をしていた。

「……何か気付いたの?」

「子供がいたよね。白人の」

 あれだけの重傷で、よくそんなことまで憶えているものだと感心しながら。

「ええ。まあ、無関係ではないでしょうけど」

がさ、言ってるんだ。あの子もって」

 明恵はどう答えたら良いものか迷いながら、彼が財布を戦闘服のポケットにしまうのを見届ける――その聖性を信じるとは言えないが、絢人の口を通して語られる天使ルイーズの意見は、これまで嘘や誤りであったことがない。

「多分、どっちかが“掃除屋スカベンジャー”なんじゃないかな」



「まったく……アナタってホント、人間離れしてるわよねぇ。何なの? カブトムシ?」

「……どこに角があるんだ」

 心の底からどうでもいいと思いながら、呟く。

「あらぁ。ちゃんと持ってるでしょ? 

 馬鹿げた台詞と共に背中を――まだ弾を摘出したばかりの背中を指で突かれて、イチロウは悲鳴すら上げられなかった。食い縛った歯の隙間から、怨嗟の呻きを零すだけで。

「ふふ、可愛い声。でも平気よぉ、穴はきちんと塞いだから」

 鼻にかかる甘い声音で、彼女――ジーナ・シンリンは笑った。

 言葉に嘘がないことは、彼も知っていた。

 「胡蝶蘭」はただのマッサージ屋ではなく、もちろんただの違法風俗店でもない。更に言えば、単なる闇医者ですらない。通常の医療技術に加えて大陸の技法を取り入れた霊的治療を行う、数少ない診療所の一つである。

 死んでいなければ治せる、というのはあながち誇大広告ではない。

「三日は大人しくしてなさいって言いたいところだけどぉ、そうも行かないのよねぇ?」

「ああ。化け物と鼻の利く刑事。最悪の取り合わせだ」

 イチロウは吐き捨てながら、肘をついて起き上がろうとする。再生されたはずの背筋が、もう存在しない傷口の痛みを訴えた。いつもの十倍の労力をかけて、ようやくベッドに腰掛ける。

「連中は死ぬまで追ってくる。特に“天使憑きポゼッション”の方はな」

「逃げればいいんじゃないのぉ? どこか……そうねぇ、アタシの故郷とかぁ。逃避行なんて素敵じゃなぁい」

 イチロウは首を振った――『天使エンジェル』が、その名を冠された理由がもう一つある。

 は、他の異種知性体イーターを排除する習性を持っている。執念深く、徹底的に。

 あたかも人類を守ろうとするかの如く。

「奴だけは確実に殺しておく必要がある」

「まぁた、怖い顔しちゃってぇ」

 悪戯でもするかのように、ジーナがしなだれかかってくる。やたら丈の短い旗袍チャイナドレスの裾のから伸びる脚を、こちらの膝に乗せて。

「もう少しした方が、上手く行くんじゃなぁい?」

「ああ。そうだな、また今度」

 冗談のように羽織った白衣ごと彼女を抱き上げ、脇に退ける。

「またそれぇ? 一体いつなのよぉ、今度って!」

 ジーナが買っておいたのだというトランクスとカーゴパンツ、そしてどこかのロックバンドのTシャツを身につけ、イチロウは施術室のドアを開けた。

「……アリス」

 薄暗い廊下に並べられた、不必要なほど明度を絞られた籐製の間接照明。

 その傍に、彼女が立っていた。

「イチロウ? だいじょぶ? 血、止まった?」

 詰め寄られて、とりあえず頷く。

「ああ、もう平気」

 アリスはようやく表情を和らげ、深い溜息をついた。

「よかったぁ」

 その顔をしばし見つめて、どう切り出そうか、少しだけ迷う。

「……どうして戻ってきた?」

 びくり、とアリスの肩が強張った。

「……怒ってる?」

 床に視線を送ったまま、言葉少なに頷く。怒られると分かっている時に取る、いつもの態度。自分の主張と、彼の怒りの差を埋めようと考えあげているような。

 イチロウは膝をついて、アリスの青い眼を見上げる。

「俺は大丈夫だと言った。信じられなかった?」

「でも、でも、ダメだったでしょ。イチロウ、血が出て……死んじゃうかと思って、アリス、イチロウ、死んじゃったら、どうしようって」

 まったくの正論だが、彼はそれを認めるつもりはなかった――アリスには誰よりも自分を大切にしてもらわなければならない。

 その為ならば、彼だろうが誰だろうが、何を犠牲にしても構わない。

「言ってるだろう。君に何かあれば――ナギサが悲しむ」

 そうでなければ、は何の為に。

 アリスはじっと、こちらを見つめていた。薄い唇が、何かを象ろうとして、諦める。

 そんな動きを、何度か繰り返した後で。

「……ばか」

 ぽろりと零れた言葉が、すぐに溢れだす。

「馬鹿、馬鹿、アホッ、イチロウの馬鹿馬鹿ウンコ馬鹿ッ! アホ! 超アホ! クソ! 朴念仁!! 唐変木! スカポンタンのコンコンチキ! アホ! クソ間抜け!」

 店内全てに響き渡る絶叫を終えると、肩で息をしながら、アリスはじっとこちらを見た。

 俄に目を細めて。

「……イチロウの、ニブチン!!」

 それだけを言い残し、暗い廊下を走り去った。

 角の向こうに消える小さな背中を、見送ることしかできず。

「……どこで憶えたんだ、そんな言葉」

 思わず呟いてから、彼は立ち上がった。

「ふふん。慰めたげよっかぁ?」

 背中に貼り付いてきたジーナに、顔だけで振り向き。

「子供、嫌いなんだろ」

「アナタの方よ。決まってるでしょ?」

 イチロウは口角を上げて誤魔化すと、彼女を引き剥がした。図星を指摘される前に施術室の扉を締める。



 派手な音を立てて裏口の扉が開く。

 が出てきた。

「――君は本当に、人間のように振る舞うんだね」

 こちらに気付き、は顔を背ける。

「……あっち行って」

 は一人で頷く――もうカレン・エヴァンスの姿はしていない。今は二ブロック向こうで死んでいた黒いスーツの男を真似ている。目立つな、というのがのオーダーだったのだ。

「恐らく、それが君の持つ能力なのだろうね。私とよく似ているが、まったく違う。確かに特別な力だ」

 は顔をしかめた。

 カレン・エヴァンスがやるのと似ている。カレンもと話す時、よくそんな顔をする。

「うるさい。どっか行って、嘘吐き」

「ねえ、君、カレンのところに来るつもりは本当に無いのかい? 彼女は君を必要としているんだ」

「しゃべんないで、馬鹿。アホ!」

 彼は考えた。少し急ぎすぎただろうか。

「話を変えよう」

「お口チャックして!」

「穂山詠一郎――失礼、イチロウ、という男の、どこが良いなのかな?」

 が反応する。彼は続けた。

「例えばカレン・エヴァンスは、非常に道徳的な人物だ。嘘をつかない。自己の利益よりも他者のそれを優先する。同時に継続力、実行力のある人物でもある。計画の意義や手法を何度も繰り返し検討しながら、最終的には目的を達成する。そういうことに関しては、卓越した能力の持ち主だ」

「……んん?」

 どうやら理解できないらしい。

 彼はもう一度考える。

「……つまり、彼女は出来る奴だということさ。私はそれが彼女の良い点だと思う」

 は一頻り首をひねってから、こちらを見て。

?」

 は肩をすくめた。

「基準は評価者によるよ。そうだな。君にとって、イチロウとはどんな人物なのかな?」

 しばしの静寂。

 遠く、人間達の活動する様々な音が聞こえる。

「……うんとね。もじゃもじゃしてる」

「確かに、特徴的な髪型だね」

「あと、食べ方とかウルサイ。あと、お風呂早く入れって言う。あと、本読んでくれたり、えと、服とか買ってくれたり、それから……あ、うん、

 右手の指を折り切って、新たに左の人差し指を折りながら、それ《・・》は頷いた。

「これって、良い奴?」

「……ああ、そうだね。君のことをとても重視しているようだ」

 は三度考える。カレン・エヴァンスの読みはやはり正しかった。

 鍵を握っているのは、やはり穂山詠一郎だ。

「ジュウシ? 重要視のこと?」

「難しい言葉を知っているね」

「うん。でもね、意味分かってないの。重要視ってなに?」

 問われて、彼はしばし言葉を探した。

「それはね。愛している、という意味だよ」



 前世紀ビフォア・ブレイズには、高級住宅や商業施設が集中するアッパータウンだった恵比寿も、今では“オロチ街”と一般市街の緩衝地帯として機能する、正に灰色アッシュグレーの街と化して久しい。華やかだった街の明かりはいつの間にか違法な酒場や風俗店へと変わり、街を歩く男女もまた、ネクタイを締めた機械化サイボーグマフィアや娼婦に変わっていた。

 とはいえ、実際のところ、明恵もその変化を目の当たりにしたわけではない。古い映画やドラマで見た街とは、随分違うのだと思っただけで。

『総員配置完了や。高世、行ってこい』

 骨伝導イヤホンから聞こえる、奇妙な訛り声。殺人課課長補佐、イェンライ・ゴトー警部は関西出身を自称して憚らない。

「了解」

 明恵は小さな声で応えると、安全装置を外した銃をホルスターに戻して歩き出した。上品ながらもどこか淫靡さを演出された路地に滑り込み、奥を目指す。

 やがてその看板が見えてくる――本場大陸式マッサージ「胡蝶蘭」。まるで小洒落たエステかビストロのような、細やかなディスプレイだった。

 いかにもプライバシーを保護してくれそうな鉄門の脇、小さなインターホンのスイッチを押す。

「……ご予約は?」

 男の低い声。

「殺人課の高世明恵巡査部長です。この近くに凶悪殺人犯が潜伏している可能性があります。念の為、中を見せてもらえますか?」

 しばしの沈黙。思いの外滑らかに、門は開いた。ごねた所でメリットは無いと判断したのだろう。

 豪奢な中華風庭園を右手に、アプローチを抜ける。深い茶色の玄関口に近づくと、やはり扉は音も無く開いた。

 薄暗い入り口に控えていたのは、身長二メートル弱の男二人。黒人は目と左手をサイバネ化した強面をしており、アジア系は目が細くエラの張った顔付きで、両頬に銃弾が抜けた痕がある。

 そして、二人に守られるように立つ女が一人。

 長く真っ直ぐな黒髪と零れ落ちそうなアーモンドアイズ。コートの襟元につけられた白いファーに埋もれてしまうほど小さな顔が、蠱惑的に笑った。

「よぉうこそ、胡蝶蘭へ。オーナーのジーナ・シンリンですわぁ」

 明恵は腰のバッジを見せながら、

「高世明恵巡査部長です。男を見ていませんか? アジア系、身長百七十センチ、痩せ型。身の丈ほどの刃物を背負っていて、白人の少女と男を連れています」

「さぁ。この辺りは、もぉっと目立つ方が、いっぱいいらっしゃいますのでねぇ」

 手にした細長いキセルをふかしながら、ジーナはそんなことをのたまう。

「目撃証言があったんですよ。裏口からこちらのお店に入ったのを見たっていう」

「まぁ。怖ぁい。どこの連中の嫌がらせかしらねぇ」

 蜂蜜のように甘ったるい口調。その肝の座り具合は、流石に恵比寿でのし上がっただけのことはある。

「店内を見せてもらっても?」

「施術中のお客様もいらっしゃいますからぁ、困るんですけどねぇ」

 明恵はじっと、彼女の目を見た。

「我々は殺人課です。について、触れるつもりはありませんよ」

 キセルの先から浮き上がった煙が、暗い天井に消えるまでの間があって。

「……今度ぉ、プライベェトでもいらしてくださいますぅ? ア―シ、アナタみたいな気の利く方って、だぁい好き」

「ご協力、感謝します」

 明恵はホルスターのロックを外しながら、ジーナの傍らを通り抜けた。

 まずは一つ目の扉を開けて、隙間から中を覗き込む。

「また会ったな」

 かけられた声に反応する余裕は、全く無かった。

『――おいっ、高世!』

 ノブを掴んだ腕から引きこまれ、更に背後から首を抑えられる。

「思ったより早かった。流石だな、高世巡査部長」

 顔は見えないが、声で分かった。低く張りがあり、少し拗ねたような響きがある。

 “斬り裂き魔”だ。

「もう回復したの? 人間とは思えない速さだわ」

「あんたの相棒ほどじゃない」

 念の為、抵抗してみるが、解ける手応えは微塵もない。“E抗体レジスター”に膂力で勝てるはずがないのは、分かっていたが。

「さて、聞こえてるんだろ。外に展開してる特殊急襲部隊SATにも。悪いが、一台装甲車が欲しいんだ。化け物にぶん殴られても壊れない奴がね」

『アホンダラ、一丁前に交渉か。殺し屋風情が調子づきよって』

 イェンライの罵倒を聞き流しながら。

「抵抗は無駄よ。ブロックごと完全に包囲してる」

特殊事案課エクソシストは出てきてないんだろ? 奴らが来たら、こんな建物はもう灰になってる」

 明恵は出来るだけ冷静に、部屋の中を観察した。違法風俗店と言っても、特に変わった仕掛けがある訳ではない。見た目には、金の掛かった大陸風の寝室、ぐらいの印象である。天蓋付きのベッドは物珍しいが。

「それから、近くに“はぐれ《ストレイズ》”が隠れてるはずだ。十五、六歳の子供だが、信じられない数の暴行事件に関わってる。そいつを先に捕まえといてもらえると助かる。殺されずに済むだろうから」

 首を極めていた男の手が、彼女のコートの中に滑り込んでくる。

「失礼。つもりはないんだ」

「知ってるわ。レイプ犯を八つ裂きにするぐらいだものね」

 取り出した手錠で、後ろに回された明恵の両手が拘束された。ホルスターの十六式ドラグーンはマガジンと薬室の弾を抜かれ、ベッドの下に捨てられる。

「たまたま出くわしただけだ」

「きっかけはどうでもいいわ。いくら連中が糞以下の糞袋だったとしても、バッジを持たない人間が八つ裂きにしてはいけないのよ。それがルール」

 そして彼女は、扉と向き合うように立たされた。生きたバリケードということだろう。

「次からは気をつけよう。装甲車の準備に何分かかるって?」

『三十分や』

「三十分欲しいと」

「十五分だ」

『死んどけ、アホウが』

 口の悪さで言えば、よっぽどイェンライの方が悪党然としている。

「準備が終わったら連絡する、と」

 “斬り裂き魔”は、あくまで淡々としていた。立てこもり犯にありがちな興奮の気配は一切ない。当然、明恵が足首のバックアップ拳銃を抜くような隙も。

 ふと思い立って、口にする。

「……あなたが助けた女性だけどね。彼女、私のルームメイトなの」

「それは……人助けなんてするもんじゃないな、本当に」

 苦笑の気配。

 つられて、明恵も笑ってしまう。

「この状況で言うのもおかしな話だけど、お礼を言っておきたくて」

「肺と脾臓に弾を撃ち込まれてから礼を言われたのは、初めてだな」

 深い色をした扉の木目を見つめながら、続ける。

「ねえ、教えて。あなた達が“掃除屋スカベンジャー”なの? それとも、人喰いイーター?」

「……その答えを聞いたら、あんた達はみんな死ぬことになる」

 男の声が、凍るような冷たさを帯びた。

 視界の端から伸びてきた日本刀の切っ先が、薄っすらとした光を放つ。

「ナギサ・オハラ博士が亡くなったのも、それが理由?」

 刀が――微かに揺れた。

「あなたが殺したの? その剣で」

 一息にしゃがみこんで、ブーツの中に挟んでいた拳銃を掴むと、彼女は正面に向かって飛び込んだ。空中で可能な限り銃爪を引く。

 反響し、増幅される銃声。

 肩から床に落ちると、すぐ仰向けになった。足をたたんで手を前に回しながら、背後を確認しようとして。

 手の中の銃が、音も無く二つにずれた。

 銃爪にかかっていた、彼女の指ごと。

「――――ッ」

 悲鳴をあげようとした喉が引き攣れた。

 男は赤い点を一つだけ付けた長尺刀を、こちらに突き付けて。

「おい、。急いだ方がいいぞ。でないと、人質が失血死するかもな」



 扉の脇に背中を預け、イチロウは一度だけ深く息を吐いた。

 そして、裏口と向かいあうと、明恵の身体を叩き付けるように押しやった。

 鈍い音と共に、彼女が外へと飛び出す。短機関銃を構える音がいくつも聞こえた。

 たっぷり三呼吸は間を置いて、ゆっくりと外に出る。

 目の前には装甲トラック――特殊部隊の移動に使用される、掛け値なしに頑丈な車両である。その車で運ばれてきたはずの黒ずくめの男達は、路地を封鎖する形で、こちらに銃口を向けていた。

「――ッ、くっ」

 痛みに呻く明恵を部隊に向けて立たせながら、車のドアを開ける。先に運転席に入ると、イチロウは彼女を車内に引きずり込んで、助手席に押し込んだ。

 挿しっぱなしのキーを捻ると、アクセルを踏む。

 動き出したバンに合わせて、特殊急襲部隊SATが道を開けた――十戒よろしく、黒い人並みが退く。

 車は徐々に、スピードを上げていく。

 次の手を考えなければならない。

 何よりもまず、アリスを見つけなければ。ムルムスの傍にいれば、警察に押さえられることはないだろうが。否、“蒼ざめた騎手ペイルライダー”と事を構えるとなると、あるいはそれ以上に厄介な事態かもしれない。常軌を逸した暴力集団であることはどちらも変わりない。むしろに気付いている以上、彼らの方を警戒すべきだろう。

 と。

(――最悪だ。あの、クソ悪魔め)

 街灯に照らしだされた路地。

 たった一人、装甲車の前に立ちはだかる、やはり完全武装の男。

 他の隊員たちに比べれば、いくらか小柄な、その男は。

 少女を一人抱えていた。

「――アリスッ!!」

 イチロウが叫ぶのと。

 男――“力天使ヴァーチャー”が、アリスをこちらに向けて放り投げたのは、同時だった。

 防弾仕様のフロントガラスを自ら突き破り、ボンネットを転がり、宙を舞うアリスを受け止める。

 彼女の小さな体を抱きしめて、イチロウは身体を丸めた。

 衝撃は二度。一度目は、自分が走らせていた車との衝突。

 そして二度目は、“力天使ヴァーチャー”が放った拳。

 装甲車両よりも、遥かに強烈な一撃だった。彼の肉体どころか、受け止めた車のバンパーがひしゃげるほどに。

「これで、おあいこ」

 相変わらずの軽々しい様子で、少年が独りごちる。

 イチロウは何か言い返そうとして、まずは喉の奥から迫り出してきた血を吐いた。

 あっという間に、足元に血溜まりが出来ていく。

「ああ、言っとくけど、今のはまだ、明恵さんの指の分だけだからね」

「……狂人マッドネスめ」

 口の中に残った血を、唾とともに吐き捨てる。

「へえ。面白いこと言うね」

 “力天使ヴァーチャー”は、イチロウの腕の中から覗く長く柔らかな金髪を示して。

「まさか、自分が正気だと思ってるの? そんなになってまで“人喰いイーター”を守るなんて――君の方こそ、よっぽどどうかしてるよ」

 イチロウは無視して、中空に右手を差し出した。運転席に残っていた抜き身が、空を裂いて手の中に収まる。

、殺そうと思ったんだけど、明恵さんに止められてね。君を誘き出すのに使えるからって」

 剣の先を、背後のバンに向ける。

「彼女を車ごと真っ二つにされたくなければ、そこをどけ」

「その前に君の腕を捩じ切るよ。それぐらいなら、

 少年はゆっくりと、拳を構え直す。左足を前に滑らせ、半身の体勢。光る翼は一度大きく広がった後、力を溜めるかの如く引き絞られていった。

 イチロウは決して目を逸らさずに、抱え込んだアリスの状態を手探りで確認する。

「アリス、大丈夫かい」

「……イチロウよりは」

「悪かったよ。また怖い思いをさせたね」

 今度はこちらが明恵に礼を言う番か、とも思うが。

 このままでは、その機会は訪れそうもない。

を手放すなら、今日の所は見逃してあげてもいいよ? 明恵さんにはちょっと悪いけどさ。僕には僕の、使ってものがあるから」

 最後通牒。

 イチロウは腕の中のアリスを、より強く抱き締めた。

 そうすることで、今はもういないに触れられるような。そんな気がして。

「もう少しだけ、待っててくれ。すぐに終わる」

「……少しだよ」

 縋るような彼女を、そっと背中に回して。

 握った長尺刀の柄が、俄に震えだす。

「俺には俺の、使があるんだよ。ヒーローごっこは他所でやれ」

 防弾ヘルメットのバイザー越しに。

 “力天使ヴァーチャー”の青い眼が、大きく見開かれたのを、彼ははっきりと見た。

 そして。

 高く翔んだ少年が、流星の如く飛来して。

 彼が解き放った剣は、一筋の光のように――

 少年の胸を貫いた。

「――――」

 その勢いたるや、小柄な身体を宙へと押し返し、羽ばたく翼と拮抗するほどの。

 剣は、自らへし折れそうなほどの激しさで――まるで怒りに震えるかの如く、根本まで突き刺さり、少年の内臓を掻き出し始める。

 そこは正に、人間ならば心臓があるはずの箇所だったが。

 血が吹き出す気配もなく。

 少年は空中で、二度、三度と痙攣し、そのままだらりと動かなくなった。

 その様をしばし見上げる。

 こみあげたのは、大した感慨でもない。ただ、呆気ないな、という思いだけで。

 少年の身体が再び震えだした時は、むしろどこかほっとしたぐらいだった。

(大した聖人セイントぶりだな、まったく)

 『天使エンジェル』は奇跡を起こす。例えば光を呼び、知恵を与え、水面を歩み、傷を癒やし、パンとワインをいや増し、そして時には失われた命をも息吹かせる。

 少年の傷口から溢れたのは、赤い血ではなく、白く美しい羽根だった。

 正しくは、それに良く似た生命エネルギーである。

 『天使エンジェル』は宿主を殺さない。例え死に瀕しようとも、肉体の損壊を補いその生命を永らえさせる。精神を、意志の力を喰らい続け、魂の一片さえも消失するまで、ただひたすら啓示の順守を命じ続ける。

 それはあるいは、最も悪魔的な行為ではないかと。

 胸の傷から触手のように何十と羽根を伸ばした少年を目の当たりにして、そう思う。

 いや、それでもまだ、『天使エンジェル』の餌食となるだけの意志があるのなら――まだ決意が折れないのなら、彼にとっては価値があることなのかもしれない。

 胸の奥から這い出す羽根が、伸びる端から剣に焼かれ、無残な消し炭となっても。

 少年の眼には、再び蒼き光が灯る。

 獣じみた雄叫びを上げながら、彼は己の心臓を貫いた長尺刀の柄を掴んだ。

「――――ッ!!」

 イチロウは呼んだ。声を出すのではなく。

 剣を――“人喰いイーター”への畏怖と憤怒で呪われた魔剣を、ただ意識だけで。かつて時のように。

(殺す。奴を。確実に。絶対に。殺さなければならない。俺と、と、アリスの為に)

 目に見えない糸を伝って剣から流れ込む力が、彼の肉体を奮い立たせる。

 同時に染み込んでくる、どす黒い何かが、身体の底で暴れ始める。

 怒りが――叫びが。

 嘆きが、恨みが、悲しみが、絶望が、憎しみが。

 少年の身体から引き抜かれた剣が、疾く彼の手に戻る。

 “力天使ヴァーチャー”は荒れ狂う光輝と化して、再び飛来する。

 イチロウは肩に構え直した長尺刀で、それを迎え撃った。

 光と一合噛み合うごとに、刀身は咽び泣くように響く。

 景色をも歪ませる波紋が、剣を、視界を、彼自身をも真っ黒に染めていく。

 顎を狙った光の一撃を紙一重で躱し、刀を担いだ左の肘で額を叩く。寸暇を置かない前蹴りで押し戻し、身体ごと撃ちこむような唐竹割りを繰り出す。何枚かの光翼が一瞬にして灰と化したが、“コア”の手応えはない。後ろ回し蹴りを僅かに叩いて逸らし、今度は軸足を撫で切る。“力天使ヴァーチャー”は翼で大気を撫でながら、空中で旋回してこれを避けた。

 声が聞こえる。

 握りしめた柄から、皮膚へ、肉へ、骨へ、神経へと伝わってくる。

 剣の――叫び。呻き。喚き。

 取り留めもない、ただ這いずり回るような憎しみ。

(奴の腹を裂け。臓腑を引きずり出せ。指を落とせ。股を裂け。関節という関節を砕き潰せ。筋肉という筋肉を引き裂け。骨という骨を折り砕け。眼窩を抉れ。舌を千切れ。脳を掻き出せ。首を落とせ)

 目の前が、暗くなっていく。

(我らが怨敵。残虐なる暴君。旧き支配者。忌むべきもの)

 ただ見えるのは、『天使エンジェル』が羽撃いた残光だけ。

。奴らを――隈なく

 白く眩い光だけを追って、彼は手の中の刀を繰り出す――



『システム、オールグリーン。特型強化装甲服、戦闘準備スタンバイ

 全ての武装が機能していることを確認すると、彼女は滞空する戦闘ヘリアパッチから飛び降りた。

 高度は約百メートル。ロープさえあれば生身でも懸垂下降ラペリング可能なレベルである。

 特型強化装甲服ヴァンブレイスの衝撃吸収機構なら、自由落下でも問題ない。

(――着地まで3秒)

 目を閉じる。

 祈るつもりはない――ただ、こうしなければ、“予知ビジョン”が現在と重なって、上手く見えないというだけで。

 姿勢制御を戦術予測補助AIに一任して、照準に専念する。

 肉眼では捉えきれない速度で衝突しあう二つの“力”の軌道を、上空から

 彼女は無造作に――常にそうあれと教えられてきたように、最低限の力で銃爪を弾いた。

 同時に、背部と胸部のスラスターを噴射し――独楽のように高速回転を開始。

 フルオートでばら撒くのは、十五発の対異種知性体用咒式変形弾頭エンチャンテッド・ブリット

 四発は、まさに相手の喉笛を貫かんとした穂山詠一郎の両腕と両脚を射抜き、更に二発が長尺刀の切っ先を叩いて、その太刀筋を変えた。

 残りの八発は、“顕現マニフェステイション”した『天使エンジェル』の主要臓器を爆砕する。

 そして彼女は、大地を割り砕きながら着地した――立ち会う二人の狭間。

 その争いを止める為に。

 立ち上がりながら、右腕で抱えた自動小銃ワイバーンを、『天使エンジェル』の顕現体アバターが羽毛になるまで撃ち尽くす。同時に、穂山詠一郎の肉体を駆使しようとする魔剣へ、左手の回転式擲弾筒サーペントから抗魔咒式マギアカウンターユニットを射出する。

 顕現体アバターを失った和泉=ヴァレンタイン・絢人が倒れ伏すのと、剣の侵蝕を断ち切られた穂山詠一郎が膝をついたのは、ほとんど同時だった――瞼の裏に視た光景と、開いた眼で視た光景が、この上なく一致する。

 霊素走査エーテルスキャンで『天使エンジェル』の沈黙を確認してから、彼女は穂山詠一郎の方へ歩み寄った。

「……誰、だ」

 強制的に魔剣との接続リンクを断ち切られた反動で、動くどころか意識を保つことさえ困難だろうに――彼は剣を杖にして、こちらを見上げた。

 彼女は、装甲服の頭部保護シールドを開放して、

「カレン・エヴァンスです。はじめまして、ミスタ・ホヤマ」

 そう名乗ったが。

「ふざけるな、と言ったはずだぞ――ッ」

 よりにもよって、彼はその名を吐き捨てた。

「……なるほど。そうですか」

 彼女は――正真正銘本物のカレン・エヴァンスは、弾が切れた五十七式ワイバーンの代わりに、腰部のハードポイントから自動拳銃ドラグーンを引き抜いて、叫んだ。

「出てきなさい、ムルムス!! またくだらない真似をしましたね!」

 包囲網の中で、三発の弾丸を撃ち込む。

 新たな制圧対象となったこちらに向けて、特殊部隊の銃口が向けられる中で。

「――酷いじゃないか、カレン。私はちゃんとだろう?」

 胸の中心に三つ穴を空けたは、のそのそと起き上がりながら、そんなことを宣った。

 包囲網に走る動揺。

 カレンは躊躇いなく、頭部に三点射をした。防弾ヘルメットのバイザーが砕け、男の顔面がぐちゃぐちゃになる。

「わたしは、彼と“女王クイーン”を保護し、助力を依頼しろといったはずですよ。こんな酷い争いや、わたしを騙ることを許した覚えはありません!」

 崩壊した顔面が血と肉片と脳漿を飛び散らしながら、蠢く――どうやら笑おうとしているということが分かると、より一層の怒りが込み上げてくる。

。ああ――ああ、そうか、そうだな、君はいつもそうだ、カレン。先立ってそんなことは言いもせず、何でも後になってから文句をつける。まったく理不尽な話だ。今だって、私は心ばかりの息抜きをしていただけで、が死ぬ前には止めるつもりだったというのに! それとも、もしかしてお得意の予知プレコグでは、私の遠大な計画までは見抜けなかったのかな――」

 カレンは更に六発の銃弾で、男――ムルムスの脳漿を霧に変えた。

 それから、穂山詠一郎を振り向くと。

「話は後にしましょう。あなたのが用意してくれたヘリがあります」

 ほんの刹那、逡巡した後に――彼は頷いた。

 脳裏に閃くビジョン。カレンは保護シールドを下ろすと、周囲の警官達に向けて二発目のグレネードを放った。

 閃光音響弾は、まさに今銃爪を引こうとした特殊部隊員達の眼前で炸裂した。世界が白く染まる程の光と、耳を劈く爆音。蜂の巣をつついたような銃弾の嵐。

 だが、ヴァンブレイスの分子編列積層装甲には、かすりもしない。

 何故なら、彼女は既に、どの弾も当たらないことを知っていたから。

 ろくな視界も確保できない中で銃撃を続ける隊員達へ、回転式弾倉に残っていた全ての榴弾をお見舞いする。続けざまに炸裂した白い光が、夜を俄に白ませた。

 撃ち尽くしたランチャーを投げ捨てながら、流れ弾を受けた穂山詠一郎を担ぎ上げる。

 装甲バンの影に伏せていた“死体喰らいスカベンジャー”も抱き上げると、カレンは呟いた。

「目標を回収。これから合流地点に向かいます」

『合点だ! このグレンデル様に任せとけって!』

 感応式通信テレコミュを通して届く、やけに陽気な応答。

 少しだけ苦笑して、それから脚部の離陸スラスターを起動する。一瞬だけ重力が倍加したかのようなプレッシャーの後、自重から開放される感覚。

 戦闘ヘリアパッチの支援射撃を尻目に、カレンは急上昇していった。



 『大災厄カタストロフ』によって、地球にある全ての空は失われた。成層圏の外側に広がる旧文明の残骸は、史上最悪の災害、そして戦争の痕跡である。低高度デブリ帯と、そこから気紛れに降り注ぐ瓦礫や破片によって、あらゆる航空機や超長距離兵器は事実上運用が不可能となった。更に人工衛星が無力化されたことで、GPSを始めとする情報技術も無用の長物となり、争いも生活も後退を余儀なくされた。

(もちろん、ごく僅かな例外を除いて)

 彼は、単分子結晶ガラスの向こう側で、自分の目の高さを通り過ぎる正体不明の金属塊を眺めながら、驚嘆ともつかぬ溜め息をついた。

 巨大なドーム状の防壁だった。百人は収容できる広い艦橋ブリッジの、半分を覆っている。単結晶強化ガラスを通して見えるのは、地上とさして変わらぬ瓦礫の嵐と、微かに見え隠れする煙った空。今日は比較的静かだと、クルーが噂していたが。

空中要塞ヘリキャリア――これが、“蒼ざめた騎手ペイルライダー”の本拠)

 なるほど、どこの組織も手出しが出来ない訳である――その気になれば、彼らは再び地上を灰燼に帰すことさえ可能なのだ。全てとは言わずとも、少なくとも三割程度は。

 己の下した決断の重さを、改めて実感する。

「もうしばらくしたら高度を下げます。統合軍の探査範囲を抜けますから」

 気付くと、傍らにはカレン・エヴァンス――らしき女が立っていた。

「念の為に聞いておくが、本物か?」

「……ムルムスには二度としないように言っておきました。どうせ守らないでしょうけど」

 怒りというよりも、呆れを籠めた様子で言う。

 柔らかなブルネットや、歳の割に幼い顔立ちも、ムルムスが真似ていたものと寸分違わない。違いといえば、あの大き過ぎるチェスターコートではなくて、強化装甲服パワーアーマー用の黒いアンダースーツに身を包んでいることぐらいか。高密度導電繊維にぴったりと覆われた四肢は、細身ながらも鍛え抜かれた戦士のそれだった。

「改めて、協力に感謝します。あなたの力が必要でした」

「世辞はいい。アリスは?」

 カレンは、少し困ったように笑う。

「検査中もあなたの心配ばかりしています。あの子は、本当に

「……それが、あの子の“力”だからな」

 イチロウは窓の外に目を戻した。丁度、人型の金属塊――恐らくは旧世代の強化装甲服パワーアーマーが、巨人の手で握りつぶされたような捻じくれ方で彼らの前を通り過ぎていく。

「どうやってあの子を見つけた?

「……“虚ろい往くもの達の女王レギナ・ヴィテル”が必要だと言い出したのは、ムルムスです。オハラ博士が遺した資料は、異種知性体研究所エウレカにいる協力者から」

 “人喰いイーター”が人類に助言を与えるなど、全く馬鹿げた話である――どう考えても、何かの罠にかけられているとしか思えない。

 だが、そもそも策を弄する意味が分からないというのも、一方で真実だった。あのムルムスという“人喰いイーター”がその気になれば、イチロウやカレンなど、一瞬で胃の腑――そんな臓器があればだが――に収めることだって可能なはずなのに。

 脳裏に過ぎったナギサの面影を、瞼を閉じて追い払う。

「……人と“人喰いイーター”の争いを終わらせる。本気で、それが可能だと思っているのか?」

 単分子結晶ガラスの防音効果は完璧と言ってよかった。

 聞こえるのは、艦橋を行き交うクルー達の作業音と、傍らのカレンが呼吸する音だけ。

「それが一番合理的だと思っています。龍泉寺のやり方では、彼らに決して勝てない。あなたも良く知っているんじゃないですか?」

 相手に反論を許さない情熱と誠実さも、ムルムスが真似た通りだった。

 馬鹿馬鹿しくなって、イチロウは目を開ける。

 彼女達のことなど、知った所でどうなるだろう。予知能力プレコグニションを持った理想主義者と、腐ったユーモアを持つ“人喰いイーター”の組み合わせなど、最悪を通り越して絶望しかない。

 この一人と一匹は、どんな野望でも万難を排してやり遂げるだろう。

 仮に、地上が再び焦土と化したとしても。

「……ああ。だから、あの子を連れて逃げたのにな」



「聞こえる? 絢人君」

『……明恵さん?』

 “E抗体レジスター”を拘束することは、限りなく不可能に近い――生かしたままで、という意味だが。彼らは言わば最小単位の機動兵器である。備えている異能に差こそあれど、人間を拘置する為のまっとうなやり方では、あっさり逃亡されてしまう。

 だがそれでも、どんな不可能も可能にしてのけるのが人の知恵だといえば、聞こえはいいだろうか。思い付く限りの手法を駆使して――その中には当然、彼らの基本的人権を無視することも含まれるし、他の“E抗体レジスター”の力を借用することも含まれる――彼らの自由を奪う為の施設が、この特別厳重保護管理施設、通称“収容所アサイラム”である。

 異種知性体の脅威から市民を守る為、特に貴重で特別な技能を持つ人物を保護する為の施設だと、建設計画書には書いてあるが。

 四方全てを七層の抗魔咒式チタンプレートに囲まれ、葛葉式術士クズノハ・キャスターによる二十四時間体勢の力場結界と向精神結界に覆われた特別保護観察室の中心で、絢人は静かに座っていた。

 部屋は純白。彼が着る拘束服も、取り付けられた拘束具も、全てがご丁寧に純白だった。

『嬉しいな。会いに来てくれたの?』

 監視室のスピーカーから響く、絢人の声。

 明恵は目の前のマイクに話しかける。

「調子はどう?」

『退屈だよ。ネットも漫画も無いし、ルイーズも眠ったままだし――それに、明恵さんもいないし』

 まったく減らない軽口に、少しだけ彼女は安堵した。

「だったら、早く出てきて。話は聞いてるんでしょう?」

 特殊事案課エクソシストは――竹内信治郎課長は、以前から絢人に目をつけていた。

 彼らは常に人手を求めている。単体で“人喰いイーター”と渡り合えるほどの力を持つ“E抗体レジスター”――いわゆるカテゴリーAマイナス以上の個体は、元々極めて数が少ない上、彼らの任務における損耗率は二十パーセントを超える。

 絢人のような人材は、喉から手が出るほどに欲しいはずだ。

 そういう意味で、彼にとって今回の事件は、正に好機と言えるだろう。

 力では押さえつけられない“E抗体レジスター”を味方につける方法は、二つしかない。

 情に訴えるか、あるいは利害を一致させるか。

『“きちんとチカラの使い方を学べば、もっと誰かの役に立てるんです!” あの人、本当にセンセイなの? なんか、小さな子供みたいだったよ』

 皮肉っぽい言い方。あるいはどこか拗ねた子供のような。

 明恵は溜息を吐く。

「一人でやりたいのね。分かるわ、あなたの大事な使だもの」

『エクソシスト共が嫌いなだけ。足を引っ張られるなんてゴメンだよ』

 確かにそれは正論だが――絢人ほどの“E抗体レジスター”は、現在の特殊事案課エクソシストにはいない――欠けている視点がある。

「いいこと教えてあげる」

『知ってるよ。頭を六発撃たれたら僕だって死ぬさ。今なら一発で充分かも』

 彼女は、マイクをチタン製の義指で叩いた。

 かつん、という固いノイズ。

「聞いて。“斬り裂き魔”は空中要塞ヘリキャリアに逃げ込んだわ。“蒼ざめた騎手ペイルライダー”の一味だったみたい。ここから先は、もう“戦争ウォーフェア”よ。今までみたいな“狩りハント”とは違う。あなた一人じゃ、には勝てない」

 逃亡に使われた戦闘ヘリアパッチは、エンヴァース上空に突然降下してきた空中要塞ヘリキャリアに収容されたことが確認されている。そんな派手な真似をやってのける悪党は、“蒼ざめた騎手ペイルライダー”以外にありえない。特殊事案課エクソシストは、カレン・エヴァンスがエンヴァースに入ったことは確認していた。だが、その目的を探り当てることが出来なかった。

 あの“死体喰らいスカベンジャー”と呼ばれた少女――少女型の“人喰いイーター”。

 彼女こそが、連中の目的だったのだと。

『――ねえ、明恵さん』

 静かに、絢人は言う。

『どうして、、僕を止めたの?』

 あの“人喰いイーター”を見つけた時、何故逸る彼を諌めたのか。

 彼女は少し考えて――取り繕っても仕方がないことだと、観念した。

「……正直に言えばね。あなたが子供を殺す所は、見たくなかったから。例え、が本当は、“人喰いイーター”だったとしても」

 それが本音だった。

 しばらくの、沈黙の後。

は――どうして、を殺さないんだろう?』

 彼はぼそっと、呟いた。

 それが何か、であるかのように。

「……本人に聞いて。愛好家フェティッシュの気持ちなんて、私には分からないわ」

 明恵は口に出してみたが、それで片付けられる話ではないことは、分かっていた。

 もしかすると絢人には、本当に理解できないのかもしれない。

 あの男が、“死体喰らいスカベンジャー”をかばう理由が。

「……うん。そうだね。そうするよ」

 その言葉を、聞いた後。

 明恵は隣に立っていた長身の男――竹内信治郎課長へと、頷きかけた。

 彼は静かに、マイクへ顔を寄せて。

「今の発言は、提案を受け入れていただいたと取ってよろしいかな? ミスタ“力天使ヴァーチャー”」

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