破:リッパーとヴァーチャー

 廃車の影から乗り出して、教科書通りに三回銃爪を引くと、明恵は再度身を隠した。

 しばらく待つ。反撃は無い。

 ボンネットから様子を伺おうとして――銃弾が目の前のボンネットを抉った。慌てて身を下げる。

(まったく、なんでこんな目に)

 胸中毒づきながら、彼女は拳銃ドラグーンだけを突き出して、相手も見ずに三発撃った。空になったマガジンを捨てて、新しいものを――最後の一つをグリップに叩き込む。遊底を引きながら、視線を周囲に走らせた。

 そこは、ビルの谷間にしてはやけに広い区画だった。『大災厄カタストロフ』後の復興計画の中で、どういうミスがあったのかは知らないが、馬鹿馬鹿しいほどぽっかりと空いてしまい、さりとてわざわざ計画を変更するほどの利用価値も見出されなかった、“廃棄空間デッドスペース”である。

 そうかと思えば、すぐ隣のブロックでは窓も開けないほど密集したビル群が構築されており、当時の混乱が偲ばれる。“オロチ街”とも呼ばれるこの区画は、災害で資産を失ったものや、移民など――低所得者層が流れ込んだ結果、六本木スラムの中でも別格の危険地帯として知られている。

 例えば、探しものがあって、顔役への面会を求めたとする。バッジを翳してきた者を無碍に扱うのは得策ではないと、普通の犯罪者は考える。どこの街でも、警官殺しは特別な労力をかけて締め上げるのが警察の流儀だからだ。

 だが、ここの連中は一味違った。“九頭蛇ナイン・ヘッズ”を名乗る武装集団は、はぐれ“E抗体レジスター”をも擁する凶悪なまでの自警団ヴィジランテである。

 多少の小競り合いはあるものと考えていたが、まさか集団で銃撃してくるとは思っていなかった。

(甘かったかしら。ああ、うん、甘かったわね、まったくもって)

 ビルの角から顔を覗かせた紫色のモヒカンに向けて、三発。見届ける余裕はなかったが、悲鳴の具合からして立ち上がれはしないだろう。

 お返しに叩き込まれる短機関銃の掃射に耐えかねて、明恵は地を這って跳んだ。

 廃車に残っていた揮発性燃料が発火――爆炎に煽られながらも、近くのダストボックスを経由してビルの影へ。ゴミと共に飛び散る腐臭さえ、今は気にならない。

 銃声が止んだのを見計らって、敵の様子を伺う――

 不意に、視界がぶれた。

「――――っ」

 首の後ろに、気怠さにも似た衝撃。鼻の奥がツンとする。

「び、ビンゴォ……ぬふふ」

 鼻面をアスファルトに打ちつけながら、それでも彼女は何とか背後を振り返った。

 ステレオタイプなオタク・スタイルを十倍まで濃縮して、更にそれを十人分集めたかのような――いや、もう、人間というよりセサミ・ストリートの怪物じみた容貌の男だった。伸びて膨らんだ長髪は髭と一体化して、一種の毛玉と化している。

 かろうじて見える脂だらけの目が、下卑た笑いを浮かべているのが分かった。

「ふ、婦警……エロォい、どうせ、わ、わ賄賂とか、もらってる――ぅ俺が、罰して、やややるッ」

 ゴミ捨て場そのものの臭いをまとう手が、こちらの顎を掴む。今度ははっきりと、吐き気を催した。

 銃を手放してしまった分、自由になった両手で腕の関節でも取ってやろうと思うが――どうやら脳震盪を起こしてしまったらしい。

「ちょっとッ――放し、て……ッ」

 こういうのも、ミイラ取りがミイラ、なんていうのだろうかと、どうでもいいことを思いつくが。

 不意に光が差した。

「汝、他人の妻を欲するなかれ、だよ」

 そして、身体の芯に響く鈍い音がすると、男の腕が折れた。

「お、ぎぁ――ッ」

「君、ちょっと臭いよ。風呂入んなよ」

 苦痛のあまり悲鳴が潰れる――無理もない。肘が逆の方向に開いて、骨が飛び出していた。のたうつ男が再度光に打たれ、宙を舞う。五メートル向こうにあったビルの外壁をへこませ、ずるずると落ちた。

 明恵はそれを見届けて、深く息を吐いた。

 乱れたシャツの襟元を直しながら、ふわふわと浮かぶ光を見上げる。

「ごめん、ちょっと手間取っちゃった。明恵さん、大丈夫だった?」

 光に見えたのは、舞い降りた少年と、その背に負った白い翼だった。

 いや、翼は実際に光を放っている。零れる燐光が、淡雪のようにアスファルトへと溶けていった。

「殺してないでしょうね?」

 こちらを振り向いた絢人の眼には、青い輝き。

 目を合わせるのが怖くなるほど、澄んだ光だった。

。みんな向こうで泣いてるよ」

 そう嘯いて。

 彼が軽く肩を回すと、瞳の光も白い翼も、溶けるように消えてしまった。

 再び“廃棄空間デッドスペース”へ戻る。先程までの銃声が嘘のように静まっていた。ただ響くのは、苦痛の呻きと懇願の泣き声ばかり。

「物知りなヤツが一人いたから、話が聞けるかもね」

 広場の中心には、いつの間にか負傷者の山が出来上がっていた。四肢のどれか、あるいはどれもを砕かれた男女が団子状になって喚いているのは、控えめに言っても地獄の如き光景と言えた。

 絢人の後を追って、一人だけセダンの残骸の上に捨て置かれた女へと近づいていく。

 傷んだ革の上下にコーンロウ頭、そして刺青まみれの女は、両の膝を砕かれていた。蹲ることも出来ないまま、うつ伏せで激痛を堪えている。

「さあ、頼むよ、姉御ボス。素直に話してよね」

 絢人は車のボンネットに上がり、女の顎を手で支えた。黒人系の女は涙と涎と鼻血にまみれたまま、必死でこちらを睨みつける。目の下に入った茨の刺青が、歪んだ。

「やるなら、やれよッ! この、バケモンがッ」

「話してくれればすぐに救急車を手配するよ。話すまで質問は止めないけど。それで、君は“掃除屋スカベンジャー”の何を知ってる?」

 少年の詰問は、氷で出来た刃物のように冷ややかだった。

「ッセェんだよ――この、クソが……ッ」

 女が血の混じった唾を吐く。

 まったく大した根性だと、明恵は思ったが。

「先に仕掛けてきたのはあなた達でしょう。こっちはもう揉めたくないの。あなたにだって、家族か……何か、そんなようなものはあるでしょう?」

 腰の警察バッジが見えるように、女の前に立つ。

「正直に話せば、ファミリーは見逃してあげる。もしどこかでなら、待遇を良くしてあげるぐらいは出来るけど?」

 言葉に、女の眼が僅かに揺らいだ。

 明恵はそれを見て取ると、軽くかがんで目の高さを合わせる。

「身の丈ほどの日本刀を背負った男。黒いロングコート。知ってるんでしょう?」

 パッチャラヤの証言。彼女が受け取ったコートに残っていた毛や皮膚の残留物は、どれも前科者のリストとは一致しなかった。それは当然だろう――もしも一度でも捕まっているなら、伝説になれるはずもない。

 だが、刃渡り百六十センチ以上もあるとなれば話は別だ――そんな代物は、博物館所蔵の骨董品か、さもなければ管理指定を受けた”抗体物件アーティファクト”の可能性が高い。

 果たして、リストにはそれと思しき物件があった――管理番号A〇〇七八、十三代忌部業宗、五尺三寸。名工の遺作にして最悪の妖刀。手にしたものに“E抗体レジスター”としての異常能力とを与える呪われた剣。

 そのとやらは別にして、籠められた呪術は葛葉一派のお墨付きである。

 登記の上では異種知性体研究所エウレカの管理下とされていたが。

 管理登録者のナギサ・オハラは既に死亡届が受理されており、研究所への問い合わせは紋切り型の返答しか得られなかった――確認が取れ次第、折り返しご連絡いたします。

「……“斬り裂きリッパーのイチ”だよ」

 女がようやく吐いた名前は、期待していたそれとは少し違うものだった。

「ちょっとちょっと、言ったはずだよ? 話してくれれば助けてあげるってば」

 絢人が女の顎を掴む。その瞳が、僅かに青く光り始める――

「嘘じゃねぇよ! クソ長いポン刀だろ! イチしかいねぇよ! 金積めば、どんな大物でもバラす“はぐれストレイズ”だ!」

「連絡方法は?」

「電話だ――逆探が出来ねえようにしこたまファイアウォールを噛ませた回線だって、ウチの技術屋ハッカーどもが、ボヤいてたッ」

 明恵は頷いて、空いている手を差し出した。女は呻きながら、懐の携帯端末を差し出してくる。

「もし罠だったら、公務執行妨害と正当防衛で脳天をふっ飛ばすわよ」

 十六式ドラグーン――十五発の対異種知性体用咒式変形弾頭エンチャンテッド・ブリットを詰め込んだオートマチックを女の額に突きつけながら、彼女は端末を操作した。

 漢数字で一とだけ登録されたアドレスに音声通話を試みる。

 きっかりスリーコールで、回線が繋がった。盗聴その他の対策で、奇妙な電子音と湾曲された異音が交じり合った沈黙。

「……仕事を頼みたいのだけど」

『基本料金は一件二十五万米ドル。経費は別。相手は?』

 フィルターを通した音声による応答。

 明恵は続ける。

「電話じゃ話せない」

『なら、よそに頼むんだな』

 にべもない回答だが、仕方あるまい。

 明恵は腹を決めて、はっきりと言った。

「刑事よ。殺人課の高世明恵巡査部長」

『五分後に折り返す』

 通話が途絶える。

 明恵は、女の端末をそのままコートのポケットに落とし込んだ。

「無茶するね、明恵さん。大丈夫?」

 声を上げる絢人に、意地悪く笑う。

「守ってくれるんでしょう? “力天使ヴァーチャー”はだものね」

「まあ、うん。それが使命だからね」

 さらっとそんなことを言って、彼は女の顎を手放した。車のボンネットから降りて、周囲の累々を見渡しながら。

「救急車、ここまで来てくれるかな?」

 明恵は肩をすくめて、女の端末に目を落とした。

 間もなく液晶には非通知着信の表示。受信マークをタップする。

「どう? 引き受けてくれるの?」

「……随分と大胆な真似だな、

 明恵は苦笑を噛み殺した。どうやら当たりかもしれない。

「何のこと?」

「“抗体物件アーティファクト”の目撃情報から探り当ててきたのか。それにしても……そうか、誰か“E抗体レジスター”の手を借りたな」

 どうやらこちらの手の内は読み切られているらしい。つまりは警察内部にも眼と耳を置いているのだろう。残念ながら候補者が多すぎて、スパイは捕まえられそうにないが。

 不意に、端末を持った手を引っ張られる。

「――やあ、初めまして。“掃除屋スカベンジャー”? それとも、“斬り裂きリッパーのイチ”?」

 こちらの肩に顎を乗せて、絢人が端末と彼女の耳との間に顔を滑りこませていた。

「若いな。お前が助っ人という訳か」

「はは、すごいね。!」

 何故か嬉しそうに――愉悦を滴らせながら、絢人が続ける。

「人間社会に適応してるヤツは、見つけた中じゃ二匹目だよ! ねえ君、恋人はいる? 家族は? それ以外でもいい、誰か愛しているはいる? 愛なんて言葉が理解できる? そんな風に思っている相手を食べるのって、どんな気持ち?」

「……“猟師ハンター”か。どいつもこいつも頭がおかしいヤツばかりだ」

 絢人の顔越しに聞こえる声に、溜め息が混ざった。

 しかし絢人は意に介さない。恐らくは相手との会話に意味を見出していないのだろう――いみじくも、彼にとって“人喰いイーター”は押し並べてでしかない。

「さあ、どうする? 明恵さんは尻尾を掴んだら離さないよ。後ろから殴られて死ぬのが好き? それとも、正面から殴られて死ぬのが好き? 選びなよ“掃除屋スカベンジャー”」

「――勘違いするな、“猟師ハンター”。?」

 ぶつん、と通話が切れる。

 明恵は不意に、何かが背筋を這い上がるのを感じた――それが恐怖だと理解する前に、身体は地面へと伏せている。一瞬遅れて、こちらに体重を預けていた絢人が倒れてくると。

 まるで果物を踏みつけたような気軽さで、ボンネットの上にいた女の頭が弾けた。

(狙撃!)

 油断していた。

 “掃除屋スカベンジャー”は最低でも五人以上いるというのが定説だったというのに。

 身体を滑らせて、錆びついたセダンに隠れる。

「プロよ! 気をつけなさい、絢人君っ!」

 彼女は警句を発した。意味のないことだと分かっていても。

「大丈夫だよ、明恵さん」

 言いながら、少年はゆらりと立ち上がる。

 その背から伸び上がる、純白の輝き――まるで天使そのもののような。

 青く輝く眼が、うっすらと細められて。

使?」

 その姿が、霞むように消える。

 次の瞬間には、七階建てのビルから叩き落とされた狙撃犯が、ゴミ捨て場の残飯をぶちまけていた。



「敵は通称“力天使ヴァーチャー”。単独での“人喰いイーター”討伐を専門とする、腕利きの“はぐれストレイズ”です」

 コーヒーをすすりながら、カレン・エヴァンスが手元の携帯端末の情報を読み上げる。戦闘員への指揮と同時に、バックアップ班からの情報を処理しているらしい。

「聞いたことがある。“人喰いイーター”以外は、ヒーロー気取りの狂人マッドネス

 言いつつ、イチロウは身支度を整えていた。防護服コンバットドレスにコートを羽織り、長尺刀を背負う。

「アリス」

 いつものスウェットの上にダウンジャケットを着せられた金髪の少女は、何やら不満そうに駆け寄ってくる。

 イチロウは膝をついて、彼女の青い眼を覗き込んだ。

「少し出かけてくるから。戻るまで、この人の言うことを聞くんだ。いいね」

「……アリスも行く」

 眉根を寄せて、唇を噛み締めながら、アリスはそんなことを言う。

「頼む、聞いてくれ。。君は連れて行けない」

「やだ。コイツ、嫌い」

 指差されて、カレンが鼻白んだ表情を見せた。

「ごめんなさい。その……を盗ったりはしませんよ?」

「おい」

 馬鹿馬鹿しくて頭を振る。それから、アリスの肩に手を置いて。

「確かに胡散臭いが、少なくとも今は俺達の味方だよ」

「アリス、コイツ嫌い。だし」

 はっきりと――アリスは、言い切った。

「……どういうこと?」

「だって、

 カレン・エヴァンスが人間ではない、などという話は聞いたことがない。

 救世騎士団特殊部隊“アポストルズ”唯一の脱走兵であり、百戦錬磨の“E抗体レジスター”。戦闘中の負傷が元で“人喰いイーター”のが聞こえるようになり、任務を放棄。その後、龍泉寺をはじめとする巨大企業を標的としたテロ行為の首謀者として、その悪名が轟き渡るようになる。

 イチロウは背中から伸びた柄を握りながら、自称カレン・エヴァンスを振り向いた。

「お前は、誰だ」

 心底意外そうな表情で、彼女は言う。

「見抜かれるとは思っていなかった――ああ、すまない。確かに本人は来たがっていたんだ。ただ、が止めたんだよ。理由は色々だが、まあ、一言で言えば、君達をこの眼で見てみたくてね」

 肩をすくめたその仕草で、理解する。

 先程までの彼女とは、何かが違う。はっきりと、明確に。そこに立っているのは先程までと異なる存在だった。カレン・エヴァンスがどうこうではない。

 人とは異なる存在。

 “人喰いイーター”。

 握った剣が、その震えを大きくする。役に立たないだと、彼は胸中で毒づいた。

「信用出来ないかい? さっきの彼、そう、グレンデル? 彼が言ってただろう、さる御方の使いだって。私は正直に話したつもりだ。私はカレンの使いだよ。“女王クイーン”を迎えに来たんだ」

「なら、名乗れ。

 カレン・エヴァンスを名乗る女は、微かに笑った。

彼女カレンは私のことを、“囁くものムルムス”と呼ぶよ」

「通りで、よく喋る」

 イチロウは考える。だが、あまり余地は無いように思えた。

 窓の外、見渡すオロチ街に響く銃声は随分と少なくなってきていた。カレン――いや、ムルムスが配置したという“蒼ざめた騎手ペイルライダー”の戦闘員は、そろそろ全滅する頃合いだろう。

 相手は“E抗体レジスター”の中でも別格だ。

 その上、バッジ持ちのおまけ付き。

「……恵比寿にある『胡蝶蘭』だ。二時間後にそこにいろ。いいな」

「私は約束を守るよ。余りにも守り過ぎるんで、なんて呼ばれてしまうけどね」

 ムルムスがこちらに近づこうとすると、アリスが退いた。

 華奢な身体を、しっかと捕まえる。

「大丈夫だよ、アリス。必ず迎えに行く」

「やだ。行きたくない」

「お願いだ。あとでアイス買ってあげるから。それに、この前欲しがってたブーツも」

「……スカートも! 高い方のやつ」

 眼に涙を溜めながら言うアリスに、イチロウは溜め息をついた。

 今日一番の深さで。

「……分かった」

 ふっと。

 アリスの唇が、頬に触れた。

「ゼッタイだよ」

「ああ」

 イチロウは立ち上がると、バルコニーへ出た。無秩序に広がる街並みを、見渡す。

 愛着がある訳ではない。だが、受けた恩というものがある。

 何より、狂ったように執念深い“はぐれストレイズ”に背後を狙われる生活など真っ平御免である。

 柵に足を掛けて、イチロウは跳び出した。オロチ街唯一のランドマークである廃マンションの最上階、地上二五〇メートルの高みから。

 自由落下の不快感。

 着地の衝撃は次の跳躍に活かす。

 崩れかかったビル群の屋上を跳び渡るようにして、彼は駆けた。

 加速する。風を切る。電線をかわす。看板を滑る。給水タンクを蹴って。

 やがて見えてくる。銃弾じみた速度で自在に空を飛び回る、男の影。

 ――眼が合う。

 その瞬間には、もうイチロウは得物を抜き放っていた。

 落下の速度を加えた、大上段からの一閃。

 光る翼が、男の身体を守るように折り重なり――白刃があっさりとそれを斬り裂く。庇われた男の腕ごと。

「――――ッ」

 舞い散る羽根と共に、男の身体が浮力を失った。

 イチロウも自然と墜落を追う形で、しかし男よりはまともな形で着地に成功する。

「退屈させたようだな、“猟師ハンター”」

 彼は峯に左手を沿わせる形で構え直しながら、仰向けに倒れたままの男を振り返った。出来れば落下の際に後頭部を強打して、そのまま脳挫傷でも起こしていてくれないかと期待しながら。

「……落ち着いて、ルイーズ。ああ、そう、そっか……うん、分かったよ」

 男は何か独りごちてから、身体を起こす。切り落とされた両の腕には目もくれず。

「ごめん。どうやら君じゃないみたいだ、“切り裂き魔”。

 イチロウは眉根を寄せた。

 男――いや、二十歳にもならないかという少年は、スタジアムジャンパーの埃を払うような仕草を見せた。肘から先のない、だというのに血の一滴も滴らせない腕で。

 するりと伸びた羽根が、瞬く間に腕へと変わる。

 彼はその手で上着を叩き、更にはその金髪を整えるまでの余裕を見せた。

「だから、殺しはしないよ」

 背中から広がる翼が見る見るうちに形を取り戻し、空を打つと。

 突風と共に、少年が飛び込んで来た。

 薙ぎ払うこちらの刃を中空で避ける出鱈目な軌道。打ち付けられた掌底をかわしながら、回転の勢いを駆使して二閃目を放つ。だが、またしても空を切る。振り向くまでもなく、イチロウは前へと強く踏み込んだ。

 頭上から降ってきた蹴りが、危うい所でアスファルトを粉砕する。

 衝撃に足を取られつつ、イチロウは咄嗟に身体を低くした。顔のすぐそば、宙を穿ったボディブローのコンビネーションが、凄まじい轟音を上げる。

(確かに――化け物じみた“力”だ)

 単純故に手が付けられない。人間離れした再生能力と身体能力、更に翼を使った変則的な機動。大太刀一振りで捌こうとすれば、あっという間に木っ端微塵にされるだろう――誇張抜きで。

 イチロウは姿勢を下げたまま足払いをかけた。当然少年は飛んでかわす。同じ回転で、今度は空中の相手を狙う。応じる相手の蹴りには逆らわず、その反動で体を逆に捻り、太刀の一閃を繰り出す。少年はその軌道を掌底で逸らそうとして――

 刃に触れた掌が爆ぜた。

「――――!?」

 明らかに顔色を変えながらも、少年は翼で身体を逃がす。そのせいで、肋骨を何本か断つ程度の傷しか与えられない。

 イチロウが立ち上がる頃には、太刀の届かないところまで少年は飛び退っていた。

 胸元に刻まれた傷と、そして無残な裂傷を負った掌を確かめながら、彼が呟く。

「……が怯える訳だね。流石、伝説の魔剣」

 その瞬間。

 イチロウは気付いた。

「身体能力の向上、超能力の発現、幻覚、妄想虚言。お前、“天使憑きポゼッション”か」

 実物を見るのは初めてだった。

 『天使エンジェル』と呼ばれる“人喰いイーター”。何故そう呼ばれるのかと言えば、ごく限られた人間の前にしか姿を現さず、そして目の当たりにした人間にを与えるからだ。受ける側の解釈で内容はどのようにでも変わるが、その結果だけははっきりとしている。

 出くわした人間は、決して消えないと異常能力を得るのだ。

 特別危険指定レッドラベルの中でも希少な寄生種パラサイト

 を喰らうもの。

「へえ。研究者インテリみたいだね。“斬り裂き魔”」

 青い目が、おかしそうに細められる。してみればその容貌も、彼の中にあった天使なるイメージの具現か。

 いずれにせよ、分かったことがある。

「どうやらお前は、獲物のようだな」

 イチロウは再度、剣を構え直した。

「久々に、コイツにやれる」

 独りでに――鍔が、震えるような音を立てて。

 彼は踏み込んだ。一足で充分。大太刀から溢れてくる力の全てを、袈裟斬りに籠める。

 銀の光と化した刃が、少年の金髪を削いだ――その背後、十メートルに亘るアスファルトと、その先に建てられた廃ビルの外壁までも。

「この――ッ」

 交差法で顔面を狙う拳の、その内側に上体を潜りこませる。彼は肩を少年の胸元に叩きつけて、後ろへと跳ね飛ばした。アスファルトを太刀で斬り裂きながら強引に転身。

「死ね」

 よろめく少年の翼と左肘を刎ね、そのまま鎖骨へと人喰いイーター殺しの剣を喰いこませる――

 灼熱は、予想もしない方向から襲ってきた。

 背中に三度。身体の芯まで達する衝撃。

 肺を斬り裂いた大太刀が、そのまま前へ滑った。

 苦し紛れの掌底を身体の真ん中に叩きこまれた瞬間、視界が一瞬白く消える。地面を転がり、血を吐きながら、イチロウは何とか身体を起こした。

「――絢人君っ」

 硝煙を上げる銃を手に、“狩人ハンター”へと駆け寄る女がいた。恐らくは彼女が、高世明恵巡査部長だろう。

 倒れ込んだ少年の身体を起こす明恵を見やりながら、イチロウは考えた。

「大丈夫だよ、この、ぐらいは……」

「すぐにレスキューを呼ぶから。少し我慢して」

 彼女は再度少年を横たえると、空いた手で携帯端末を取り出した。もちろん拳銃はこちらに向けて。

「――こちら高世明恵巡査部長。捜査中に負傷者二名を発見。一人は十代男性、肺まで達する裂傷。もう一人は二十代男性、凶器を所持していた為、発砲――」

 喋る女の声が、遠ざかっていく。

(クソ――ふざけるな)

 彼は独りごちながら、地面に指を突き立てた。傷ついた内臓が訴える痛みを無視して。

 今はまだ死ねない。彼女を――

 その時までは。

 決して。

「――イチロウッ」

 声。アリスの――泣いている。

「言い訳のつもりではないんだけどね。別に約束を破った訳じゃないよ、ただ彼女がどうしても寄り道をしたいって言うから、仕方なくさ。ああ、もちろん二時間後には例の場所にいる。私は約束を守るよ。何せ悪魔と呼ばれるぐらいだ、安心してくれ――」

 耳障りな弁明が、意識にこびりつく。

「――ああ、もう聞こえないか。仕方ないな。君は人間だものね」

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