第8話
翌日の
その日は早朝から、愛車――
現当主・
そう。邸内の美術品を堪能――もとい、調査するに際して、もはやこの老執事は欠くべからざる存在だった。山浦美術館の
「これは旦那様がお買い求めになった最初の絵画です」
「《
「当時は旦那様もまだ独身で、私もこの仕事に就いたばかり。フロックコートのハイカラ―の襟が馴染まず苦労していた頃です」
初めて所有した絵の前で、青年実業家は、窮屈そうに幾度も首に手を置く初々しい執事を振り返って言ったそうだ。
「どうだい、小諸? 絵画は〈窓〉のようだね!?」
「はい? 旦那様?」
「これで、僕たちは毎朝、故郷に挨拶ができるぞ、小諸!」
絵に向かって満面の笑顔で
「おはよう!」
「……」
「やあ! 向こうから掛けてくる幼馴染たちが見えるじゃないか!
美津ちゃんの桃割れに結った朱い鹿の子が今日も可愛らしいね! 手を引かれて来るのは泣き虫のシゲ坊だ。やれやれ、今日も学校へ行くのを渋っているな!」
「おからかいになるのはおよしください」
真っ赤になって元シゲ坊は抗議した。
白髪となった現シゲ坊も、また、同じように頬を染めている。
「毎朝、この御屋敷におられる日は、旦那様は、この絵に挨拶なさっていました」
―― おはよう! 故郷の野山……!
「もちろん、私もです」
《芸術に訊け!》
「これはパリの風景……懐かしい限りです。旦那様の洋行に私もご一緒させていただきました」
執事は思い出に目を細めた。
ギュスターヴ・カイユボット 《パリの通り、雨》
「実は……僕はカイユボットが大好きなんです」
初恋の人の名を告げるように
「現在の画壇ではモネやルノワールの陰に隠れて、パトロン的な扱いしかされていませんが、将来きっと再評価されると僕は思っています」
「旦那様も同じことをおっしゃっておられました。この画家の絵は単なる〈写実〉ではない。一瞬、一瞬……〈光〉のみならず、さざめく〈音〉や交差する〈思い〉を見事に切り取っている。誠実で不可思議な魅力に満ちている、と」
「まったくです」
大いに頷く興梠。
「だが、同じパリの風景がマルケではこうなる……!」
横に並んで飾られているのは、
アルベール・マルケ《冬の太陽、パリ》
奔放に歪んだ構図、やりたい放題の線。好き勝手な色!
「ああ、どうしよう! どちらも素晴らしいな!」
思わず吐息を漏らす探偵に老執事も頷き返した。
「この頃のパリはどのように描いても本当に美しい都市でした。尤も、旦那様はベルリンが一番お気にいられたようですが。いずれにせよ、良き時代でしたな! 私たちは一番良い時代のパリを見たのかも知れません。今はもう、欧州も戦争の影に怯えて殺伐としているとか。残念な限りです」
「何故、芸術は〈宝〉なのか? おまえはどう思う、小諸?」
その朝、礼服に身を包んだ
書斎、机の上の壁には最近購入したばかりの絵画が飾られている。
「実際、真実の〈宝〉は血肉を有す人間だろう? つまり、〈宝〉とは人生を共に生きる伴侶であり、子供たちであり、友であるはず」
「はい。おっしゃるとおりでございます」
主人の曲がったネクタイを直すため一歩前へ出る小諸。
「だがね、時に、絵画=芸術はその代わりになる〟つまり、素晴らしい〈代用品〉なんだよ」
平生より高い声で、熱っぽく語る邦臣。胸に挿した蘭の花の角度も直しながら、頷いて聞く執事だった。
「孤独の夜に。希望を失った朝に。挫折した真昼に。
または、家族を持たない一人ぼっちの人間の、その(家族)の代わりになってくれる。
父のように慰めてくれる。友のように笑わせてくれる。恋人のように憩わせてくれる。そして母のように眠らせてくれる……
だからこそ、芸術は〈宝〉と呼ばれるのだ。そう思わないか、小諸?」
「ごもっともでございます。ただ」
珍しく執事は異議を唱えた。
「僭越ながら、私にも言わせていただければ、その例えの列に〈執事〉も加えていただきたいものです。
〝執事のように役に立つ〟芸術――」
婚礼を前にした主人の緊張を解したいと、精一杯気配りして、ユーモアのつもりで言ったのだが。
が、意に反して、主人は真顔になった。
「おや? 私はちゃんと列挙したはずだぞ。〝友のように〟と。おまえの範疇はそこだよ、小諸」
「……旦那様」
「これからも、
執事の肩を抱き、共に見上げた絵こそ――
マルク・シャガール、《町の上で、ヴィテブスク》!
故郷の港町、ヴィテブスクの上空を抱き合って飛ぶ花婿と花嫁。
港町と、愛を誓う新郎新婦……!
幸せな未来をその絵に重ねる青年実業家がそこにいた。
《芸術に訊け!》
口を引き結び無言で見入る探偵の横で、
老執事はそっと目頭を押さえた。
「小諸さんは旧当主、邦臣氏に心から信頼されていらっしゃったんですね!」
そう言って興梠が切り出したのは邸内を巡回し終えて一休みしようと座ったお茶の席でのこと。
これで山浦邸は隈なく歩き尽くした。探偵とその助手は1階の応接室に戻って来たところだ。
目立つのを恐れたのか、この日、お茶を持って来たのはりえではなく別のメイドだった。内心、志儀は(かなり)がっかりした。それはともかく――
探偵の言葉に執事は顔を綻ばせて頭を下げる。
「ありがとうございます。邦臣様は最高の主人でございました。お仕え出来たことを誇りに思っています」
「よろしかったら、その職におつきになった経緯をぜひお聞かせください」
「それも――今回の調査に必要なので?」
「もちろんですよ」
志儀がウィンクして囁く。
「探偵業ってね、えてして、意外な処から謎が解けるものなんだよ、小諸さん!」
「さようでございますか。では――」
徹底したプロ意識――執事魂に貫かれたこの老執事は自分の話を語る間も決して椅子に座ろうとはしなかった。客人である探偵と助手の横にピンと背筋を伸ばし、屹立したまま話し始める。
「私は旦那様とは同郷の出身で、俗にいう幼馴染と申しますか。元々、旦那様はその地域の地主様の御家柄でいらっしゃった。年下の私を可愛がってくださって、旦那様がこちらK市で事業を始められてすぐ呼び寄せてくださり、学校へも通わせていただきました。
卒業に際し、就職先も斡旋してくださったのですが、私が望んでお側に残していただいた次第です」
窓から差す午後の陽射しの中、小諸は眩しそうに目を瞬いた。
「本当に幸せ者でした。何よりたくさんの目の保養をさせていただいた――
旦那様にお仕えしなかったら、私など、金輪際目にすることなどなかった素晴らしい芸術の数々を味わうことができました。もう思い残すことはありません」
「その言い方……ひょっとして、この仕事を辞めるの、小諸さん?」
「そうですね、もう少し邸内が落ち着きましたらお暇をいただこうと考えております」
小さく付け足す。
「
「ふうん? わかるよ」
少年助手の瞳が光った。鼻をヒクつかせて、
「それにさ、この御屋敷から、全ての美しい絵画が売り払われるのを見届けるのが忍びないんだよね!」
「これ、フシギ君」
「恥ずかしながらこの小諸――」
そう言って老執事は白手袋を嵌めた手を胸に当てた。
「実は、旦那様がお集めになられました絵画の全作品を所有しております」
「え!」
「もちろん、〈
素晴らしい微笑を煌かせる執事だった。
「ですから、寂しくはありませんよ。山浦コレクションならぬ小諸コレクション。引退いたしましたら、小さな家でそれらに囲まれのんびり暮らします。珠玉の芸術作品とそれをお選びになった旦那様の思い出に浸りながら」
これは何だ?
ああ、また、探偵の胸に響く……
《芸術に訊け!》
「では、最後に〈小座敷〉へご案内いたしましょう」
改めて一礼すると小諸は白手袋の手を翻した。
「〈小座敷〉?」
「それ何処? この1階? あれれ、そんな場所あったっけ?」
「昨日、お気づきになられなかったようで――通り過ぎておいでです。その際は、お二方とも他の美術品に御熱中のご様子でしたので、邪魔をしてはと思い、敢えて、お声をかけるのは遠慮させていただきました。ですから」
きっぱりと、山浦家の執事は言った。
「最後にご案内しようと思っておりました。さあ、どうぞ」
☆金山平三 作品
http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=4275
☆カイユボット 《パリの通り、雨》1877
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/caillebotte_pluie.html
☆マルケ《冬の太陽、パリ》1904
www.polamuseum.or.jp/collection/997-0053/
☆マルク・シャガール 《町の上で》1915
http://laughy.jp/item/5412aa2c0cf2b77b8e7fc408
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