第6話

 部屋を出ると、今までどこに控えていたのか、執事の小諸こもろがやって来た。

 長身痩躯。色白で端正な風貌が蝋人形じみている。うやうやしく一礼して、

「どうぞ、ご自由にお歩きになって御観察ください。そして、ご用の際はなんなりとお声をおかけください」

 それだけ言って引き下がった。とはいえ、一定の距離を置いて付き従う。

 ヒソヒソ声で志儀しぎは言った。

「アレさ、僕らへの協力だけでなく監視も兼ねてるよね?」

「シ」

 探偵が目配せしてたしなめる。

「フシギ君、それは当然のことだよ。ここは美術館のようなものだからね」

 だが、すぐに、この影のごとく付き従う老執事の存在など、興梠こおろぎは忘れ去ってしまった。

 自分で〈美術館〉と言ったが、まさしく、山浦やまうら邸は芸術を愛する探偵にとって、美の殿堂、宝物殿だった!


 邸内は1階を大小の広間や食堂、応接室等の接客スペース、2階が家族の生活用の各居室、という構造のようだ。フランスを代表するアーティスト、アンリ・ラパンが基本設計を担当したせいもあって何処をとっても〈芸術作品〉である。

「ほう!こんなところにエッチング硝子の装飾とは!」

「凄いな! 大広間のこのレリーフの色!」

「むむ? 扉の上の鉄製の装飾も斬新じゃないか……」

「これがラリック、オリジナルのガラスの女神像……!?」

 予想はしていたと言うものの驚きの連続だった。クールなウォールナットの壁に対して天井は白の漆喰。曲線や直線が生み出す幾何学模様はリズムのように目に響き、心を踊らせる。このハイカラな内装を背景に次々出現する美術品の数々……

 コロー、セザンヌ、ゴーガン、ピサロ、シニャック、ヴラマンク……マチス、シャガール、モジリアニ……

 印象派からエコール・ド・パリの逸品が多いが、そればかりではない。

「やや! これはもしや、澤田政廣さわだせいこうの楊貴妃では?」

「誰それ?」

「気鋭の若手彫刻家だよ! 内心僕も注目している。彼こそ我が国の近代彫刻に新風を吹き込むのでないかな。もう手に入れているとは素晴らしい審美眼だ」

「あ! これは綺麗な絵だねぇ!」

 大食堂の壁一面に飾られた絵を眺めて志儀が感嘆する。

「これなら僕にもわかるよ! 日本画だし、この瑞々しい緑の色、素直にキレイだと思うな……」

「おお! フシギ君! 君もいい目を持っているよ! これは横山大観よこやまたいかんだ」

「え! これが横山大観? 僕、名前は知ってる。学校で習ったからね。でも――」

 少年は鼻の頭に皺を寄せた。

「この画家がこんな鮮やかな色彩の絵を描くの? 僕、墨一色だったり、茶色っぽい枯れた絵の印象しかないや」

「確かに、横山大観は渋い色合いの作品が有名だけど、実は華やかな作品も多いんだよ。僕は初期の《流燈》が大好きだな! 優しい色合いで描かれた可憐なインドの乙女の絵だ」

「ふううーん?」

 少年の意味深な目つき。

「それって興梠さんのオンナの好み?」

 慌てて咳ばらいをして眼前の絵に話題を戻した。

「こ、この絵のタイトルは《作右衛門の家》と言うんだ。元々は二曲一双からなる屏風絵なんだよ」

「作右衛門て誰さ?」

「架空の人物だがね。見たまえ、家路を辿る男の幸福感が樹々を渡る爽やかな緑の風越しに僕らにも伝わって来るねぇ!」



 興梠が息を飲んだのは2階踊り場だった。

 そこで探偵はほとんど死にかけた。


「うそだろっ! これはここにあったのか!」


「うわっ? 気を付けてよ! 僕、転げ落ちるところだったじゃないか!」

 山浦邸の階段が広くて助かった! 

 助手を突き飛ばす勢いで腰壁羽目板の上に飾られた一枚に駆け寄る探偵。その双眸は大きく見開かれている。

「信じられない! もとい、ありがたいっ!」

 興奮のまま、それまで存在を忘れていた執事を振り返る。

「これは、もちろん、本物……真作ですよね?」

「はい」

 しっかりと頷く老執事。

 興梠響こおろぎひびきが驚倒するのも無理はなかった。

 この絵こそ、フィンセント・ファン・ゴッホ 《アルルの寝室》だった……!


「なんてことだ……これが、真作……まさか、この目で見ることができるとは……生きていて良かった!」


 感動に打ち震える探偵を見て、――この時、初めて執事は人間の顔を見せた。

邦臣くにおみ様よりお聞きしておりましたが、興梠様、貴方様もホンモノとお見受けいたします」

 言った後で頭を下げる。

「これは――執事風情が失礼を申しました。どうかお許しを。ただ」

 執事は微かに身動みじろぎした。

「そうまで感動してくださると……貴方様のそのお喜びの御姿が、その絵を獲得なさった際の旦那様のそれと重なって……つい」

 執事は素早く頬を拭った。

「邦臣様にお使えした身として、かくのごとき感動の御姿を拝見するのは光栄の極みです」

 興梠は執事に飛びついた。

「この絵の来歴――入手された経緯を、ぜひ、お聞かせください!」

 荒い息のまま肩越しに絵を振り仰ぐ。

「僕の記憶では――と言うより、世界の常識・・・・・として、この絵は今現在、否、過去から未来永劫、フランス本国が所有しているはずでは?」

 執事の小諸は柔らかに首を左右に振った。

「いいえ。この絵は、実のところかなり前からこの日本にありました。但し、我が旦那様ではなく、所有されておられたのは帝都のM氏です」

 少々悪戯っぽく老執事の瞳が煌めく。

「旦那様は、熱意を持って交渉を続け、M氏の信頼を勝ち取り、友情を結んで、遂に我が物となさったのです」

 再び老執事の声が震えた。

「その時のお喜びようがまさに先ほどの貴方様と同じでございました……」

「いや、本当に! 眼福です!」

 興梠の感動は収まらない。

「ええい、こんなもの!」

 視覚の邪魔になる絆創膏ばんそうこうなどむしり取ってしまった。

「よもやゴッホの名作をこの目で見られるとは! 自分の幸運を祝したい!」

「本当に、運がよろしゅうございました」

 執事の声の翳りに気づいて顔を上げる興梠。

「?」

「この絵が当邸にあるのもあとわずかでございますから」

「と、言うと?」

 流石に執事はその先を言うのを躊躇した。つい、口を滑らせたと詫びる。

 食い下がる探偵。

「どうぞ、お話しください。この邸の方々は僕の質問にはなんでも答えて協力すると現当主・英和ひでかず氏は僕に約束してくださいましたよ」

「ならば、申し上げます。この邸の宝、前旦那様お気に入り名作アルルの寝室は現旦那様、英和様が再び元の所有者に売却なさいました」

「なんだと? 手放す? この世紀の傑作を?」

 絶句する興梠。変わって、久々に志儀が声を発した。

「へえ! 山浦家はお金に窮しているの?」

「とんでもございません!」

 慌てて首を振る執事。

「ただ旦那様と坊ちゃまとではお考えが違います。英和様は、その、芸術にはさほど興味をお持ちではないようです」


『芸術に訊け!』


 興梠の脳裏に響く声があった。

 思わず、世界の至宝、近代を代表する天才画家、ファン・ゴッホの絵を振り仰ぐ……





「いい絵でございましょう? 旦那様もことのほかお気に入りでした」


 次に執事の小諸が口を開いたのはパステル画の小品の前だ。

 興梠は足を止めて動かなくなっている。

 印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワール 《猫を抱く少女》……!


「私は長いこと、旦那様がそれほどまでにこの絵にご執心なさる理由がわかりませんでした。旦那様の好まれる傾向と、すこぅし違っていると思えて……」

「ああ、なるほど! 邦臣氏はもっとダイナミックな作風を好まれるようですね? 向こうのクールベの夜の海の荒々しい波も素晴らしかった」

「ええ。でも、最近になって、旦那様がこの絵を特別に愛された謎が解けましたよ」

「へえ! それは何故?」

 老執事の口にした〈謎〉という言葉に反応して少年助手が尋ねる。

 小諸はニコニコ笑って、

「お倒れになった旦那様のご要望で迎えに行ったりえ様の御姿を拝見した時に、です」

「!」

「この絵のお嬢さんはりえ様に似ておられる……」

「あ! ほんとだ! よく似てるや! ねえ、興梠さん?」

 ここで興梠は少々声を落として別のことを訊いた。平生より低いコントラバスが、シャンデリア・ブカレストが吊るされた天井にくぐもって響く。

「確認するまでもありませんが――貴方は・・・りえさんと邦臣氏の関係はごぞんじなのですね?」

 小諸は頷いた。

「はい」

「そのことは邸におられる皆さんがご存知なのですか?」

 小諸は首を振った。

「いえ、使用人では私だけです。邦臣様に口止めされました。英和様もこの件については固く口を噤んでおられます」

「小諸さん、邦臣氏がアート……猫を飼われたのはいつからです?」

 興梠の唐突な質問に執事は驚いたようだ。

「はい?」

「白猫ですよ。飼っておいででしょう?」

「さようでございますな。はい。半年前……お倒れになってすぐ、病の身を慰めたいとおっしゃって飼われ始めました」

「あ、それ、りえさんを呼び寄せたのと同じ頃だね!」

「そうなりますか。そうでございますね」

「その猫は、今、何処にいます?」

「はて? 何処にいるやら。何分、お屋敷は広いので、私は存じません」

 淡々と執事は続けた。

「元々あの猫は旦那様にしか懐いていませんでした。その旦那様がお亡くなりになって――英和様は生き物がお嫌いですし、出て行ってくれた方がよろしいかと私は思っています」

「そんな! 無責任だよ! それじゃ言うけど、今、あの猫はね――」

 憤慨する志儀の腕を興梠は引っ張った。

「もういいよ、フシギ君。じゃ、次の絵を見るとしよう。おや! 御覧よ、あれはノアローそっくりだな!」

 朱い絨毯の上に寝そべる黒猫。

 澱みなく興梠は言った。

「レオン・フレデリックだ!」

「あ、大原美術館の大壁画の画家だね! へえ! こんな絵も描くのか!」


 このようにして一日目はあっと言う間に過ぎた。



流燈

http://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/archive/collection/nihonga/yokoyama/01.html


作右衛門の家

http://www.yamatane-museum.or.jp/collection/05.htm


アルルの寝室

http://musey.net/732


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る