第5話

『芸術に訊け!』



「父がどのような意図を持ってあんなことを言ったのか、私はわかりません。意識が朦朧としていたのかも……」

 りえは長い睫毛を瞬いて首を傾げた。

「というのは、私、万一を思って、すぐにアートを調べてみたんです。首輪や爪や毛なみ。でも、何にも変わったところはありませんでした」

「なら、良かったじゃないか!」

「全然よくありませんっ!」

 物凄い剣幕で娘は立ち上がった。握った拳が震えている。

「兄は……英和ひでかず様は大変完璧で冷徹な御方です。今は父の言葉がアートと繋がっているという考えには至っていませんが、万が一、一瞬でもそのことに思い当たったら、徹底的に調べるに違いありません。つまり――」

「つまり?」

 志儀しぎも即座に合点が行った。

「あ! それって、目に見える部分、首輪や尻尾どころか、目に見えない部分、体の内側――お腹を割いてでもってこと?」

「私、私、そんなの絶対にイヤ!」

 りえは耳を塞いでソファにくずおれた。

「私にとって、アートはかけがえのない家族なんです。病室で父と私とアート……短かったけれど3人で黄金のような時間を過ごしました」

 レースのカーテンの揺れる窓辺。ベッドに横たわる白髪の紳士を挟んで微笑む少女と白猫……

 美しい思い出が少女を強くした。

 泣き出すかと思われたりえはグッと顎を上げて話し始める。


「だから、私、最初にこう考えたんです。猫は逃げたことにして、できるだけ人目につかないようにしよう。そして、兄がこのまま猫のことを忘れてくれたらいいと。父が生きている時からアートの世話は私がしていたし、父の葬儀後は、兄も、他の使用人の方々も、猫の存在など全く気にしていないように見えました」

 このやり方で全て上手く行くように思われた。が――

「それが今朝、朝食の席で、兄は言いました。優秀な探偵を雇ったって」

 万事休す! もうだめだ。

「だって、探偵なら、猫の名前と父の言葉の関連性に即座に気づくでしょう? そして、兄に報告するはず。そうなると兄は気が済むまでアートを調べるに決まっています」

「ああ、だから?」

 先刻の英和との会話を思い出して興梠こおろぎが尋ねた。

「そのショックで貴女あなたは今朝、粗相をして・・・・・しまったのか!」

「はい、手が震えて大切な茶器を割ってしまいました」

 すかさず志儀、

「見たかったな! あのスマシた英和さんが紅茶をブッかけられたとこ」

「フシギ君……」

「申し訳なかったです。茶器だけでなく、スーツも台無しにしてしまいました。兄様が腹を立てて当然だわ。でも、そんなの弁償すれば済むこと。それより、私は懸命に考えました」

 そして至った結論こそ――

「こうなったら、兄より早く、その探偵さんの元へ走ろう。

 理由を話して――だって、アートは実際、何処にも変わった点はないし、父の言葉は、もしそれに何らかの意味があるとしても、猫とは全く関係のない別のことだと私は思っています。だから。探偵さんには、正しく謎を解いてもらって、兄が要らぬ考えを持たないよう、その間、猫も護っていただこう」

 後悔を滲ませてりえは唇を噛んだ。

「ああ、ほんとに、父様が死ぬ間際に示唆したのはこのことだったんだわ。もっと早く、私はこうするべきでした」

「?」

「失礼。お伝えしていなかったかしら? 父は息を引き取る際、あの言葉を言いながら、私にコレを握らせたんです」

 娘が大切そうにポケットから取り出したのは小さく折りたたんだ紙片。開くと――

 それは興梠響こおろぎひびきの名刺ではないか!


「お父上が、これを貴女に?」

「はい」


「このことは、お兄様は気づかれなかったようですね?」

「はい。兄は離れていましたから」

 興梠が返した名刺をりえは再び丁寧にポケットに仕舞った。

「兄は、病人は嫌だと言って、いつもベッドには近づこうとしないんです。臨終の場でもそうでした」

 山浦邦臣やまうらくにおみの娘はまっすぐに探偵に向き直った。

「今朝、兄の口から出た探偵さんのお名前が、父から渡された名刺のそれと同じだったので、そのことにも私、吃驚したんです。兄は自分で貴方のこと探し当てたんですね? それというのも、貴方が芸術に詳しい探偵さんだから……」

「なんてこった! 興梠さん! こりゃ、やっぱり山浦邦臣氏の最後の言葉には重大な謎が込められているんだ!」

 一方、傍らで興奮した声を上げる助手。

「ハナから邦臣くにおみ氏は興梠さんに……美術に詳しい・・・・・・貴方に・・・、自分の言葉の真意を解明してもらいたがってるってことだもの!」

「そうなんですか? 私、アートのことだけで頭がいっぱいで。アートをどうやって疑惑から守り通すか、そればかり考えていたんです。隠し財産なんて、どうでもいい。私はあのコさえ無事なら」

「なるほど。貴女のお気持ちはよくわかりました。最後にもう一つ」

 指を一本立てて興梠は訊いた。

「僕に、『最低、三日、預かってほしい』と言ったのは何故です?」

「それは――あと三日で私は自宅へ戻れるからです」

 心から嬉しそうにりえは応えた。

「さっきもお話しましたが、今、実家の修理をしていただいているんです」

 当初、自分は父の葬儀が終わったら、その日の内に引き上げるつもりだった、とりえ。

 細かい経緯いきさつを明かした。

 なんでも、葬儀にやって来た大工の棟梁が新当主・山浦英和やまうらひでかずに直談判したのだそうだ。

 かつて父に雇われてりえの家を建てたのがその大工だという。二十年経つ。そろそろ傷みが目立ってくる頃だと気にかけていた。あの家を手掛けた者として、そして、何より、目をかけていただいた邦臣氏への追善供養に、ぜひ修理させてほしい……

「その大工さん、このお屋敷のお庭の茶室を立てられた方なんですって」

「ブッ」

 思わず興梠は紅茶を吹き出すところだった。

 山浦邸の茶室は、日本建築の粋を極め、アールデコの本邸と〈対照の美〉を競う、と海外からも絶賛されている。そんな名工に、しかも名士の集う葬式の場で言われては、流石に吝嗇家ケチな英和も断れなかったのだろう。

 そしてまた、いかに邦臣氏がりえの母を愛していたか窺い知れると言うものだ。

 二十数年前、妾宅を立てる際にも邦臣は己の美意識を譲らなかった。腕を見込んだお気に入りの大工に最高の家を建てさせたのだ――

「そう言うわけで、修理が完了するまであと3日なんです。それまで私はこちらに厄介になっているのですが、家の修繕が終われば帰れます。綺麗になったおうちでアートと仲良く暮らすつもりです」

 改めて末國りえは両手を膝に深々と頭を下げた。

「だから、それまで、なにとぞ、あのコのこと、よろしくお願いいたしますっ」




「いやあ! これで僕も全て納得したよ!」

 りえが茶器を持って出て行った後で、志儀は大きく頷いた。

 癖毛の頭を振って言い切る。

「それにしても、山浦家も終わりだな!」

「え?」

「前当主の邦臣氏は豪放磊落な性格と聡明さで成功を納めたんだろ。それなのに現当主、長男で跡取りの英和氏のなんと強欲でみみっちいこと! 公に全てを相続してまだ足りないと来た。だいたい、血を分けた可愛らしい妹に病身の父親の面倒を見させた挙句、くれてやるのが看護学校の学費と古い家の修理って、なにそれ! おまけに、家の修理が完了するまでの間、メイドとしてこき使うとは」

「まあねぇ」

 興梠も苦笑した。

「今度ばかりは僕も君の毒舌をいさめる気がしないよ。どうやら、前代の独立独歩の強靭な意思や明晰な頭脳は娘さんの方に受け継がれたようだね」

 英国はサヴィルロウのビスポークテーラー、ノートン&サンズのスリーピースの裾を払って探偵は立ち上がった。

「では、こんどこそ、仕事を開始するとしよう。第一番目の依頼人・末國りえさんも、第2番目の依頼人・山浦英和氏も――畢竟ひっきょう、〈父の最後の言葉の謎を解く〉という要件では一緒だからね」

 人差し指と中指、2本指の小粋な敬礼で応える助手だった。

「アイアイサー!」





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