命を売り買う宵市にて⑤



 歪なくちばしをしているが、既に何かを銜えているのだろうか。不自然な影の形を見れば、戒めをされているようにも見える。


「くちばしに、縄?」


 呟いた声に、アドルフも目を細めて影を確かめた。


「ほら見て! あの子、あれが絡んでいる所為せいで食事が摂れないんだわ! ものすごくお腹を空かせて、だからこんな人里まで」


「いい加減にしろ!」


 アドルフは腹に据えかねたような舌打ちのあと、忌々しそうにクレアを睨む。


「あいつらは空で肉を食うんだぞ。ここにいる人間がひとりでも捕まってみろ、宙吊りになって生きながら食われる。どれほど苦しもうが、体が残っているうちに助け出すことは出来ない」


「……分かってる」


「くちばしが使えなくとも爪がある。空に攫われたら終わりなことに変わりはない」


「分かってる!」


 けれども、「助けて」と泣きじゃくる少年の声がする。

 少年のことだけではない。クレアは空を見上げ、両手を握り締める。


(きっと〝あの子〟も苦しんでる)


 ならばどうにか救ってやりたい。


 そのまま空に返したいし、誰も死なせずにあの枷を解いてやりたい。だが、クレアに唯一出来る「方法」ではどうにもならない状況だ。


 この場で信じられるものはなんだろう。


 信頼する仲間もおらず、自分の手で出来ることも限られている。そんな中で、信じられるものは一体なんだ。


「――アドルフ」


 クレアはそこで、初めてこの騎士の名前を呼んだ。


 顔を上げ、透き通った青色の目を見据える。宵に浸った闇市の中で、地面に転がったランタンが彼の瞳に光を揺らした。


「あなたなら、目の前に降りてきた魔物に傷を付けず、くちばしに絡んだ縄だけを切ることが出来る?」

「……あ?」


 突拍子もない問いだったのか、アドルフは一瞬眉根を寄せる。

 次いで発せられた答えは、明確な拒絶だ。


「お前は本当に馬鹿なのか。縄を切ったところでなんになる、この場にいる人間が食われて終わりだろ」

「そんなことはない。魔物は好んで人を食べないわ、縄が絡まって混乱しているだけよ。解ければすぐに、もっと好きな食べ物があるって気付く」


 クレアの背にした向こうには、放り出されて無人になった肉屋の屋台がある。軒先には「豚」と書かれた肉の塊が置いてけぼりにされているが、豚肉はグリフォンの好物だったはずだ。だが、アドルフは苛立った声を上げる。


「どうしてもあの魔物が空にいるのが見えねーらしいな。降りてこさせるためにはどうする、狙われたあの餓鬼ガキを囮にしろと?」


 翼が巻き起こす風に髪を乱しながら、縋るような心地でクレアは口にした。


「――あの子じゃなく、私が囮になる」


「ふざけんな」


 一段低くなった声は、今度こそ本物の怒りを湛えていた。


「あの魔物がそこの餓鬼じゃなく、死にたがってるお前を狙う保障が何処にある。魔物がお前の都合で動くのか、馬鹿馬鹿しい」

「あら。そうだって言ったら協力してくれるの?」


 自棄やけのような気持ちになって小さく笑うと、アドルフの眉根が寄った。


「言っとくが愚考に付き合う暇はねえ。どれほどグズな人間でも、魔物が飛び掛かってくれば咄嗟に動く。目の前で剣が振るわれれば無意識に自分を庇おうとするはずだ。万が一お前の腕でも斬り落としてみろ、海賊共が騒いで面倒なことになんだろうが」


「確かにいくら私だって、危ない目に遭いそうなときには身を護るわ。でも、絶対に大丈夫だって分かっていれば立っていられる」

「だからいい加減にしろって……」


「本当に、あなたのことを厄介に感じるの」


 脈絡のない言葉に対し、アドルフがしばし口をつぐんだ。


 このアドルフ・フォードという男は、初めて会ったときからとても気に入らない男だ。意見が一致することもないし、誰のことも信じていない。他人が誰かを信じるということすら愚かだと否定する。


 その上に彼と対峙して、クレアはちっとも敵わなかった。正確な腕前と、鮮やかなのに大胆な剣の太刀筋。王女の前で剣を突き付けられたときだって、剣先はクレアの皮膚に触れるほんの寸前で止められた。


 まったく厄介で最悪の敵だ。だからこそ、いまのクレアにとってはなにより信じられるものである。


「あなたがなにを思おうと、私はあなたの剣を信じる」


 クレアは声を張り、顔を上げて彼に誓いを立てた。


 一方的な信頼を向けられたアドルフの沈黙に、明白な怒りの色が見える。信頼という行為が嫌いな彼に向け、身勝手なのは承知の上だ。


 グリフォンの旋回する空の輪が、一段ぐうっと広がった。


 それを機にして少しずつ、少年に的を絞り始めたのが分かる。狙いを定め、苦しげにかぶりを振りながらも飢えを満たそうとしているのだ。


「クイン・ローゼ号襲撃の情報は、あなたの王女さまも望んでいるんでしょう?」


 王女という言葉を出した瞬間、アドルフの表情が僅かに動いた。

 何かを言おうとしたようにも見えたが、すぐに打ち消して舌打ちをする。


「お前、本気で馬鹿なんだな」


 深い溜め息をついたあとで、アドルフはゆっくりと鞘から剣を抜いた。クレアに突き付けられた切っ先は相変わらず真っ直ぐで、少しも揺れる気配はない。


「周りの馬鹿にも合わせられるのが本当に賢い人間でしょう。あなたはどっち?」

「うるせー馬鹿。お前に自殺願望があるってことは、今日一日でよく分かった」

「死ぬときは海の上でって決めてるの。ちゃんと直前で引き返すから、地獄の門見学に付き合ってくれないかしら」


 さすがに緊張して爆ぜる鼓動を押さえつつ、彼にしか聞こえない小声で言う。


「――あの子だけでなく、グリフォンのことも、傷付けないで」

「なんだって?」


 低い声が落ちるが、訝られたって構いはしない。


「あなたになら出来るはずだわ」


 そう言うと、アドルフの目に暗い憤りの色が宿る。


 捧げた信頼が所以なのは十分に理解していた。魔物を睨んだ彼の殺気が透き通り、次の一太刀に集中していくのが分かる。


 深呼吸をしたクレアは、羽ばたくグリフォンに向かって呼び掛けた。

 怖い思いをさせはしないからと、心の中で強く魔物を手招く。


 するとグリフォンは、これまでずっと狙いを付けていた少年ではなくクレアの方に目を向けた。飛ぶ場所をいっそう低くした両翼によって白く砂埃が巻き上がり、弾かれた砂の粒が頬を引っ掻く。


「危ないッスよ、クレア嬢!」


 ギルの慌てた声がする。けれど、震えたりなどするものか。


「……おいで……!」


 護ってあげるから。


 心で叫んだ次の瞬間、目を開けていられないほどの突風がその場に舞った。


 グリフォンが急降下する。同時にアドルフが踏み込んできて、その太刀筋に僅かな殺気が滲んだ。反射的に喉が鳴るが、きつく目を瞑って迫る気配を待つ。


「……っ!」


 衝撃のように訪れた風は、翼と剣のどちらによるものだろうか。

 無意識に止めていた息を呑み、その感覚に耐える。くわんと歪んだように錯覚したけれど、すぐに頭を振って顔を上げた。


 響き渡ったのは咆哮ほうこうだ。


 戒めの解けた口を開け、グリフォンが大きく叫んだのだ。クレアはすぐさま身を返し、屋台に下げられた肉の骨を掴んだ。渾身の力で振りかぶり、再び下降してくる魔物に叫ぶ。


「ほら、人間なんかよりよっぽど好きな豚のお肉!」


 犬にやるようにして放り投げれば、お利口に伸ばされた鉤爪がそれを掴んだ。グリフォンは翼を上下に羽ばたかせると一度だけその場所を旋回したのち、月の浮かぶ空の向こうへと消えてゆく。


 ――消えてゆくのだ。


 周りを囲む面々は、痛いほどの沈黙の中でこちらを見詰めていた。見下ろせば地面には血の一滴も落ちていない。


 それを見止めた瞬間、かつての出来事を思い出す。


 響き渡る大人たちの悲鳴。強い力で掴まれた腕の痛みや、放り投げられた海の冷たさ。凍るほどに冷たい水とあぶくの中で、もがき続けても助けてくれない甲板の人々。


 そんな苦しみの中、幼いクレアを救ってくれた一匹の水竜がいた。


 その後打ち上げられた砂浜で父と出会い、海賊の信念を説かれてからずっと、クレアの夢は変わらない。


(ちゃんと、魔物を護ることが出来た……)


 それがクレアの唯一の誓いだ。


 幼いころに海賊の道を選んだ理由であり、船長候補という「大きな力」を手にするため、仲間を人質にしても目指そうとしている場所なのだ。


 顔を上げれば、アドルフは不服を隠しもしない表情で見返してきた。


「信じるなんて責任転嫁、よくも堂々と口にしてくれたな」


 変わらない毒舌に、ようやく緊張が解けた気がした。クレアはもう一度深呼吸をし、捕らわれた少年の方に歩いてゆく。「大丈夫?」と少年の顔を覗き込み、周囲で呆然とこちらを見ていた人々に向けて高らかに言った。


「――ねえ、私たちこの男の子を買いたいの! もちろん売ってくれるわよね!」

「……っ」


 尋ねれば、その場には形容し難い高揚感が一拍置いて膨れ上がった。


「最安値で持っていけ!」という言葉と共に、なんだか奇妙な歓声が満ちたのだった。

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