命を売り買う宵市にて③




 奇妙な船出を迎えたものの、港を出た船は目的の島に向けてぐんぐんと進んだ。


 先ほどアドルフに感じた畏怖いふはしばらくクレアの胸中に残ったが、大好きな海に出ればやがて薄れる。一時間も経つとアドルフの方からも怒りの気配は消え、甲板で猫のようにうとうととする姿が舵取りの際に見えた。


 目的の島に辿り着いたのは、予定していた夕刻だ。


 しかめっ面をした下級役人を前に、クレアはポケットから三枚の銅貨を取り出す。立て札に書かれた通りの二枚を役人に渡し、残りの一枚は彼のポケットにねじ込んだ。途端に笑顔で差し出された書類に偽の署名をすれば、入港手続きは完了だ。


 気を付けてと見送られ、船着場から街へと上がる。夕暮れの市場に踏み出すと、そこに広がっているのはいつも、世界中の喧噪けんそうをひとつところに集めたかのような光景だった。


 泣いている人も笑っている人も等しく存在する市場には、葡萄酒やラム酒の匂いが満ちている。裸同然の少年が犬と身を寄せ合い震える後ろで美しい女たちが男を手招きし、絶え間ない歓声が湧く一方では悲鳴が聞こえてくる。辺りを見回しながら歩いているうち躓いた物の正体は、路上で大の字になって寝ている男だった。


「ゴミ溜めみてえに汚ェ街だな」


 アドルフが心底嫌そうに呟く。彼の見た目はこの島に不釣り合いな上品さだが、言葉遣いだけはふさわしい。


「ここは騎士の目が届かない離島だし、役人もすっかりお仲間ね。あなたと同じくらいの仕事熱心さだわ」

「うっせーな。それで? 何を探るつもりなんだ」


 足元のぬかるみから酒の匂いがすると思ったら、酒樽を抱えた妙齢の女が笑いながら葡萄酒を撒いている。ドレスの裾を摘んで飛び越えると、同じくやすやすとそこを避けたアドルフが尋ねてきた。

 クレアは辺りを見回しながら、極力丁寧に教えてやる。


「クイン・ローゼ号を襲った海賊は、七つの卵をすべて奪っていったのよね。もちろん魔物の卵なんてお宝だもの、海賊が残していくはずもないけど」


 魔物の卵殻は貴重な物だ。銅貨ほどの大きさで大人が一年食べていけるのだから、卵ひとつ分の卵殻につけられる金額は計り知れない。


「でも、国がクイン・ローゼ号から卵を奪った犯人を捜しているいま、まさか表の装飾屋や宝石商には売れないでしょう?」


 このタイミングで大きな卵殻を売りに来た者がいれば、誰もが疑いを掛けるだろう。表の世界の人間が相手なら、すぐさま騎士に通報されてしまう。


「だけど、裏の人間は違う」


 この闇市では何があろうと、他人の犯罪を気にする者などいないのだから。


「だからこそ今夜ここで、魔物の卵殻や卵が売られていないかを探すのよ」

「何も今晩とは限らねーだろ。ほとぼりが冷めたころに正規の店という手もある」

「海賊はほとぼりや次回なんて当てにしない。明日には死んでしまうかもしれないもの」


 クレアの説いた死生観は、海賊にとってごくごく普通の感覚である。


 だから自分たちはたびたび宴を開く。金品を貯めたり、将来のために蓄えたりという真似はしない。働けなくなる年まで生きていられる可能性よりも、十年以内に砲弾によって死ぬ確率の方がずっと高いのだから。


 クレアに呆れたような目を向けてきたアドルフは、やがて渋々と溜め息をついた。


「要するに、海賊の生き方とやらだけが妙な自信の根拠ってことか」

「絶対の価値観よ。ほかに何か必要?」


 クレアだっていつ死んでもおかしくない。海賊になってから今日までに、命の危険は何度もあった。平然と言い切れば、アドルフは面倒臭そうに返す。


「好きにしろ。だがまさか、一晩中歩き回って探すつもりじゃねーだろうな」

「安心して。最初の目的はすぐに見付かるわ、きっとね」


 どうせそれほど関心がないのであろうアドルフは、ふうんと目を細めた。彼が職業精神を働かせることなく歩を進めてくれるのは助かるが、「それにしても」と興味深く思う。


 通行人が溢れる混沌の中で、道行く人々はやたらとアドルフを注視していた。よもや騎士であることに気付かれたのではないだろうかと危惧きぐしたが、そうではない。


 彼は単純に目立つのだ。ランタンに羽虫がたかり、スラム街よろしく賑わうこの夕方の闇市において、明らかに毛並みが違う。


 歩きにくい雑踏へ不機嫌そうに眉根を寄せているが、上等な顔立ちのお陰でさまになるのがすごい。こんな場所で嫌気を撒き散らしていれば、血の気に当てられた連中が余計な喧嘩を目的として集まってくるのが常なのに。


「あなたって本当に目立つのね。その顔立ちじゃなかったらとっくに刺されてたわよ」

「こっちはお前を刺したいけどな。第一に目立つのは俺の所為せいだけじゃねえ」


 言われてみれば、擦れ違う人はクレアに視線を向けることも少なくない。クレアと目が合ったとき、酔った彼らの顔色はいっそう赤味を増すのだ。その理由に気が付いて、ああと納得する。


「ここには何度か来てるから。お父さんとふたりで歩いたこともあるし、顔が知られちゃってるの」


 アドルフが眉根を寄せる。


「お父さんもあれで有名な海賊だもの、私を拾った当時はあちこちで騒がれたみたい。大丈夫、変に絡まれることはないはずだから」


「何の話だ」


「え? 私も目立つって言うから、その理由の話よ」


「……馬鹿なのか?」


 心底冷たい声で言われる。首をかしげたが、アドルフは結局クレアがじろじろと見られている理由については教えてくれなかった。不服をいだきつつ、辺りを見回す。


「まあ、どんな理由でも目立てば手間は省けるんだけど」

「どういう意味だよ」

「探してる人がいるの。とにかく目敏いから、あなたみたいな人を連れていれば、簡単に見付かるかもって……」


 言い掛けたまさしくそのときだ。雑踏の向こう、夕陽が沈むのとは正反対の方向へ燃えるような赤色の髪を見付けてクレアは目を瞠る。


「いた!」


 思わず叫び声を上げてしまった。『呼びたいとき、会いたいとき、不思議とその男は酒の近くにいる』というのが探している男の通称だ。そしてその噂は大概外れない。


「ギル!」


 クレアが一言名を呼ぶと、赤髪の男もこちらに気が付いて手を振った。


「おおー、クレア嬢!」


 ぱあっと人懐っこい笑みを浮かべた彼は、仔犬が主人を迎えに行くような足取りの軽さで駆けてくる。人波を器用に潜り、アドルフとクレアを順々に見比べて笑った。


「相変わらずちょー別嬪ッスね! 今日も可愛過ぎて、道行く面々の注目浴びてるッスよ」

「相変わらず褒め言葉が軽いのね、あなた」

「えー本気なのになあ。で、こっちの男前さん誰ッスか? なあーに遊んでんス?」


 覗き込んでくる彼の仕草は目まぐるしく、返事をする暇もない。彼はクレアとアドルフのあいだに割り込んだかと思いきや、じろじろと全身を眺め、アドルフの後ろに回り込んで背中まで見上げる。


「あんたクレア嬢の恋人? 名前は仕事は趣味は故郷は? 俺今年で二十歳なんスけどあんたは何歳? クレア嬢の何処に惚れたんス? やっぱ顔? もしかして……うーわー色男のくせにむっつりスケベー!」


 ひとしきり喋りきったギルはにやにやと笑い、「内緒にするッス」とウィンクをした。その瞬間アドルフが一歩後ろに退き、本気の間合いを取った上で剣の柄に手を掛ける。


「……とりあえず殺していいんだな」


「ちょっと止まって! ギルも余計なこと喋らないで!」

「うっせー触んな。誰だこいつは」

「ギル! 探してた人で、とっても物知りな事情通よ! だから! ちょっと! 人が渾身の力で押さえてるのに無理やり剣を抜こうとしないで!」


 アドルフの腕を必死で押さえ込みつつ、もう一方の手でドレスのポケットを探る。銀貨を一枚取り出すと、ギルに向けて爪で弾いた。


「世間話しましょ、ギル! 今夜一番景気が良さそうなのは何処の海賊団なの?」

 きれいな軌跡を描いた銀貨が大きな手に収まる。それをくちびるに押し当てつつ、ギルは悪戯いたずらっぽく笑った。


「んー、何処もなかなかぱっとしないッスねえ。クレア嬢のところはどうしたんス? 船が停まってないじゃないスか」

「私が情報を買いたいのに、逆に情報を得ようとしないでよ!」


 ひひっと肩を竦めたギルに、普段より二段階ほど険を深めたアドルフが呟く。


「情報屋か」


 アドルフの目測通り、この青年は裏の世界ではそれなりに名の通った情報屋だ。


 読めない態度と極端なまでの人懐っこさが商売相手を選ぶものの、父はもう何年も彼と取引を行っている。クレアは諦めずに彼へ言い募った。


「そんなはずないわ、何処かが魔物の卵を売りに出すはずなのよ」


「不景気ってやつッスかねー。というか魔物の卵に関する噂なんて、この近海じゃ最近はクイン・ローゼ号が襲われてーっての以外は聞かなくないッスか?」


「話が早いわね。そのクイン・ローゼ号事件の主犯を探しているの」


「ありゃ、なんで? 別に王国の船なんてクレア嬢に関係ないじゃん。もしかしてそのおにーさんの用事?」


 無邪気なふりをして問われるが、よもや関係があるとは口にしたくない。とはいえ彼は勘の良い情報屋だ。ある程度の確証を持っていて探りを入れられている可能性も十分にある。


 どれほど隙を見せずに話を進めようか考えている傍で、路傍の人だかりから声が上がった。

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