命を売り買う宵市にて②



 食事を終えてからは、返してもらった銃と舶刀をドレスの中に隠し込んだあと、急かしたくせに腰の重いアドルフと共に港へと出た。


 城から港までは石畳の坂道を馬車で下る。三十分ほどで辿り着いた港に用意されていたのは、小振りなキャラベル船だ。


 甲板に簡易的な日よけがあるほかは、階建てなどもない。一本のマストに張られた白い帆は古めかしいものの、櫂と共に非常に頼もしい存在だ。海図によれば目的の島はここから半日ほどの距離にあるが、多めに二日分の水と食料を船に積む。


 風は追い風で雲のある晴天、この上なく船出に向いた条件である。それでも残る懸念に、荷運びを終えたクレアは息を吸い込んで言った。


「……あなたね! 働かないのはともかく、その徽章きしょうはなんとかしてよ!」


 そう叫び、見張りの名にふさわしい仕事ぶりで樽に腰を下ろしたアドルフを振り返った。


 制服の上着を脱ぎ、紺色のシャツに黒いベスト姿のアドルフだが、彼が騎士であることを証明するものがまだそのシャツの襟に光っているのだ。竜の卵殻から作られたその徽章は、戦争の功績を示す英雄の証である。


 これから向かう海賊の巣窟には、騎士に恨みを持つ者も大勢いる。だというのに、アドルフの答えは淡白だった。


「知るか、面倒クセェ」

「面倒臭いって馬鹿じゃないの! もっと面倒なことになるのは分かってるくせに!」

「うっせーな。そんなに言うならお前が外せ」


 唐突な提案にぽかんとするも、どうやら彼は本気のようだ。


「その徽章は騎士の誇りでしょ。大体首なんて急所、他人に触られても平気なの?」

「騎士であることを誇りになんか思わねーよ」


 落とされたのは、冷たい声音だった。


「どうして」と問い掛ける余地もないほどの拒絶がありありと滲み出ている。騎士を名乗り、英雄と呼ばれながら、彼は何故それほどまでに冷たく紡ぐのだろう。


「第一、例え首に手を掛けられた状態だろうと、お前にどうこうされる気はしねーな」


 平然と言われむっとした。


 一度勝ったくらいで随分と余裕を見せてくれるものだ。ドレスの仕込みナイフを密かに握り、クレアは一歩踏み出した。


「……いいわ」


 言葉を掛けて屈み込む。


「外してあげるからじっとしていて」


 そう言って首元へ手を伸ばし、襟を掴んで強く引き寄せた。


 ナイフを手の中で滑らせ、刃先をアドルフの首筋に向ける。ぐっと徽章の裏に差し込みつつ、形よい喉仏に突き付けた。


 このままナイフを滑らせれば。


 そんな血飛沫ちしぶきの光景を想像すると同時、手を止める。鞘から半分ほど抜かれたアドルフの剣が、クレアの太腿に沿うようにして当てられていたからだ。至近距離で凶器を向け合ったものだから、行き来する水夫の誰ひとりとして異様な光景に気付いていない。


 顔色ひとつ変えないままで、お互いを見据える。


 本当に悔しいほど腕の立つ騎士だ。抜かれた剣は的確に急所をついており、そこが斬られれば二度と脚を動かせなくなるような場所に触れていた。


「よりによってあなたみたいな人が敵だなんて、本当に厄介だわ」


 不承不承ふしょうぶしょうナイフを引き、クレアは今度こそ素手で彼の首筋へと手を伸ばす。するとアドルフはどうでもよさそうに剣を収め、何処か無防備ですらある簡単さで目を伏せた。


「よりによってお前みたいなやつのお守りなんざ、本当に面倒臭ェよ」

「光栄なお言葉をどうも、とっても嬉しい」


 長い睫毛が頬に影を落としているのを見下ろしつつ、望み通りクレアの手で徽章を外してやる。襟の裏側にある留め金を外したとき、アドルフがふと顔を上げた。


「――仲睦まじいのは結構だが、白昼から周囲への刺激が強すぎるのではないかね?」


 聞いたことのない声が響き、クレアも振り返る。


「老人が邪魔をするよ、アドルフ君。そして初めまして、美しいお嬢さん」


 そこには、髭を綺麗に整えて紳士然とした物腰の騎士が立っていた。


 年のころは五十の半ばを過ぎた辺り、クレアの父より十ほど上の年齢だろうか。アドルフの着る黒とは違い、紺を基調にした騎士の制服を纏っている。


 上着の左袖が風に揺らぐ隻腕の体だが、何人もそういった仲間のいるクレアにとっては珍しくない。それより気に掛かるのは、彼の襟に輝く金色の徽章である。


 アドルフと同じ隊長格だ。とはいえアドルフのものより一回り小さく、装飾の豪奢さも控えめな造りとなっていた。


「貴女はちょうど先日、カーヴェル海賊団の襲撃があった際に入港されたとか。お怪我はありませんでしたかな」


 この言い方から察するに、彼は「試験」には関わっておらず、クレアの正体も知らないようだ。水を向けられて姿勢を正し、ドレスの裾を摘んで表の人間式の礼をした。


「クレア・カーターといいます。危ないところをアドルフさまに、た、す、け、て、いただき、こうしてのんびりと景色を眺めることが出来ております」


 実際は捕らわれの身に近しいのだが、だからこそ「助けて」のところはわざとゆっくり口にした。もっとも、当のアドルフはまったく気にもしていないのだが。


「私はトーマス・ウェルズです」


 年長の騎士は言い、優雅な一礼をクレアに捧げた。クレアにとっては英雄騎士アドルフ・フォードよりもよほど耳馴染みのある名を聞き、思わず心中に炎が灯る。


「昔は王都が管轄でしたが、戦争で腕を失ってからは海が専門でね。慣れない軍艦を操って、どうにか海賊たちと対峙している次第です」


「…………大型帆船二隻分の恨み…………」


「うん?」


「あ、ああいえ! 父の船にもウェルズ卿のお噂は届いておりました。なんでも海軍騎士隊長で、海賊を捕らえた武功で右に出る方はいらっしゃらないとか……」


 その金額大型帆船二隻分だ。


 以前ウェルズが取引相手の海賊船を捕らえてくれたことにより、カーヴェル海賊団には大型帆船二隻分の損害が出たのである。言うなればこの男は営業妨害の商売仇なのだが、表には出さずに微笑んだ。


「買い被り過ぎですよ。憎き海賊の手によってお嬢さんのような危ない目に遭う方がいらっしゃる以上、海賊狩りの武功などまだまだ褒められたものではないと思っています」


 まさかその海賊狩りの武勲で恨まれているとは思ってもいないであろうウェルズは、依然として紳士的な労りをクレアに向けてくる。


「力が及ばず申し訳ない。早急にお詫びに来たかったのだが、近頃かのジギゼート海賊団を追っていましてね。今朝方ようやく根こそぎ捕らえ、陸へと戻ったばかりでして」


「いえいえいえいえ、いえいえ、そんな」


「これから船出ですかな? よろしければ、港でご覧になったカーヴェル海賊団の様子をお聞かせ願いたいものだ。王都に向けて発つはずだった王女の船は王子殿下直属の隊が見張りについたようでして、港に留まったまま近寄れないのです」


 詳細は聞かされていないが、イヴたちがあの船に見張りを付けたのであればクレアの試験が影響しているのだろう。キング・リゼルグを襲うことが最初の条件だったのだから、試験が終わるまでは保持されているものなのかもしれない。


 考えごとをしている間に、ウェルズの紳士的な仕草に手を取られそうになる。そのときアドルフがそれを遮った。


「茶飲み相手を探すならよそを当たれ。いまからイヴの命令で、この辺りの海域を案内することになっている」


 棘があるとまでは言わないが、同じ隊長格の立場である年長者に対して遠慮のない物言いだ。対するウェルズは物腰柔らかに、そっと困ったような笑みを浮かべる。


「……前々から見かねていたのだがね、アドルフ君。君がいかに優秀な騎士でも、王女殿下を愛称で呼び捨てにする無礼は控えたまえ。殿下と妹君を重ねてしまう心情も理解は出来るが、君自身の栄誉にとってもきずになるだろう」


(妹?)


 この男が兄をやっているところなど到底想像がつかないが、妹がいるのだろうか。


 首をかしげたところで、ぞくりと背中に寒気を感じた。誰によってもたらされた寒気なのか、わざわざ顔を上げなくとも分かる。


「……うるせーな……」


 凄まじい険の正体は、アドルフの滲ませた怒りだった。


「何に、どれほどの疵がつこうと、俺にとってはどうでもいいことだ」


 空気にひびでも入れそうなほどの低い声音が紡ぐ。冷たい海色をした視線が、強い力をもってウェルズを捉えた。


「誰も彼もがそうやって、栄誉のために動くと思うな」


 その感情を直接向けられたわけではないクレアでさえ、隠した武器を反射的に構えたくなるような声だ。吐き捨てるような言葉に対し、ウェルズが笑う。


「失礼した。『英雄騎士』という最高の栄誉を手にした君に、余計なお世話だったかな」


 戦争から人々を護り、自国の騎士たちを死なせなかった栄誉の名前。


 アドルフは、その輝かしい名前からは想像もつかないほど暗い光を宿らせてウェルズを見据える。睨むというよりも、受け入れるつもりすらないまなざしだ。最初に剣を交えた日、仲間を信じると言い切ったクレアに対して向けられたものと同じたぐいの視線である。


 どうして英雄と呼ばれたことで、そんな目をするのだろう。


「……さっさと行くぞ。グズグズすんな」


 クレアに向けてそう言ったアドルフは、ウェルズを振り返りもせずに船へと乗り込んだ。置いて行かれそうになったクレアが慌ててお辞儀をすると、ウェルズはひょいと肩を竦め、柔らかな礼をしたあとでその場を立ち去った。

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