第二章

命を売り買う宵市にて①




 カーヴェル本船に用意されたクレアの部屋は、船長である父の船室と隣り合わせの場所に作られている。


 窓が大きく作られた船室には、いつも陽光が柔らかく降り注いだ。この日も暖かさに包まれるようにして目を覚ましたクレアは、ゆっくりと身を起こして瞼を擦る。


 船はいまどの辺りだろう。


 うとうととした夢見心地のまま、右側にある壁の方へと手を伸ばす。何度か空振りをしながらも、掛けておいたドレスにようやく指先が触れた。


 昨晩は変わったことがなかったか、交代で見張っている船員に確かめなければならない。そういえば、今日の当番は誰だっただろうか。寝惚け眼でドレスに着替え終え、寝台から降りようとしたところで、扉からノックの音が響いた。


「おはようございます、クレア様」

「っ、きゃあ!?」


 突然扉が開いたことに肩が跳ね、飛び付くようにして枕の下に手を入れる。けれどいつもあるはずの銃がない、どうして。


 そこまで巡らせたあとで、やっと自分の現状を思い出した。


「クレア様!? どうかなさいましたか!?」


 慌ただしい音を立て、三人の娘たちが入ってくる。武器を持った海賊でもなければ騎士でもない、この城の侍女だ。「敵襲かと思って」などと言えるはずもないクレアは、ここにはない銃を探そうとした手をきちんと膝の上に重ねて引き攣り笑いをする。


「ご、ごめんなさい、お城の朝に慣れなくてつい」

「クレア様は日頃お父君の商船で、いつ海賊に襲われるとも知れない恐怖と戦っていらっしゃるのですから。お久し振りに陸に戻られたとあっては、仕方のないことです」

「ありがとうございます。本当、海では海賊が怖くて、あはは……」


 まさか本当は商船長の娘などではなく、むしろ襲い掛かる側なのだと知られればどうなることか。曖昧に礼を述べたクレアの耳へ、不機嫌そうな低音が聞こえた。


「騒音生み出すしか能がねーのか、お前は」


 すぐさまむっとしてしまうのは、もはや条件反射の領域だろう。

 女性の部屋に対してとは思えない不躾さの靴音が入ってくる。露骨に嫌な顔をしてしまうクレアに反し、侍女たちの頬には鮮やかな朱が咲いた。クレアは正座のまま、現れた人物に向けて渋面じゅうめんを作る。


「……おはようゴザイマス、お父さまの大得意先でいらっしゃるアドルフ・フォード侯」


 皮肉のように設定を口にすると、扉の前に立ったアドルフは冷たい色の目を細めた。


 その青い瞳ときたら、相変わらず悔しいほどに美しい色彩だ。整った顔立ちとはっきりとした黒髪も相俟って、本当に見た目だけは抜群に良い男である。しかしこちらを見遣ったアドルフは、本日も外見にそぐわない毒を吐いた。


「いつまで寝てんだクソ女」

「悪かったわね」


 それは、ここ最近飽き飽きしてきたやり取りだ。


 クレアが城で暮らし始めて一週間となるが、今日まではクイン・ローゼ号襲撃の情報探しというよりも、ここで生活をするための準備と嘘の支度に時間を取られている。

 試験に挑む一ヶ月間は、城の一室に住まう契約だ。その表向きの理由として、クレアは商人の娘を演じることとなった。


 思いもよらないことだったが、クレアの父レオン・カーヴェルはなんと、シェランド王から授かったレオン・カーターという偽名と共に男爵の地位を持っているらしい。おかげでクレアは正真正銘、男爵家の娘としてこの城に留まれるのだ。


 とはいえ仲間の命が懸かっているのだから、気ままな城暮らしというわけにはいかない。


「居心地が悪いと眠りが浅くて。それに、心配ごとがあると駄目なの」


 アドルフは豪奢な椅子に腰を下ろすと、脚を組みつつどうでもよさそうに吐き捨てた。


「どう見ても柄じゃねーくせに。心配しなくともちゃんと飯は出てんだろうが」

「そういう心配はしてないわよ!」


 思わず吠えると、侍女たちは全員驚いた目でクレアを見る。アドルフが侯爵家の人間であり、男爵令嬢のクレアがこうした口を利いていい身分差ではないためだろう。


 もちろんそれは、クレアにとって気に留めるべきことではない。「陸の上の正しい住人」が重んじる身分や規律など、「海の愚か者」にとっては意味を成さないものである。

 第一に、当のアドルフでさえ関心はなさそうだ。


 小さな円卓に頬杖をついたアドルフは朝に弱いのだろうか、少し眠そうに目を伏せている。その気だるい様子が妙な色気を醸し出しており、つくづく口と性格の悪さが惜しまれる外見なのだった。黒の睫毛と青い瞳に朝日の輝きが燻り、彼がふたつほど緩慢な瞬きをするだけで侍女たちの視線が釘付けになる。


 城に滞在し始めた初日には分かっていたことだが、アドルフはかなり女性人気があるらしい。こうして部屋に訪れる侍女も、城内の案内をしてもらっているときに擦れ違った執務官の女性たちも、一様にうっとりとアドルフの姿を見詰めていた。


 けれど、それも納得出来なくはない。剣を向けられたり仲間の命を盾にされたりしていなければ、クレアだって素直に彼の造りを賞賛していただろう。


「さっさと動けよ。ぼけっとしてんなグズ」


 クレアへの暴言に侍女の肩が跳ねたが、不機嫌そうな声音などちっとも怖くない。顔を上げ、アドルフの目を真っ向から見返す。


「準備は終わってるわ。でも、朝ご飯を食べてから」


 侍女のひとりがおずおずと歩み出て、湯気の上がる皿を並べてくれた。


「ありがとうございます。今日もとっても美味しそう」


 食べ物を粗末にするなという海賊の教えに従って頭を下げると、侍女たちは戸惑ったような顔をする。

 貴族はこうして頭を下げたりしないものだと教わってはいたが、焼いた卵とこんがりとしたベーコンに胡桃の混ざったスコーンがふたつ、実に良い匂いをさせているのだから仕方がない。クレアは背筋を正してアドルフの向かいに座り、食卓と真剣に向き合った。


「起きたばかりでよく入るな」

「お腹が空いてても空いていなくても、ご飯は三食きちんと食べるの」

「くだらねー美容とやらのためにか。ご苦労なこった」


 アドルフが白けた目でこちらを見る。クレアは「違うわ」と否定してフォークを手の中で回し、繊細な細工の施された先端をぴしりとアドルフに突き付けた。


「食べられるときに食べる。次の食事の保証なんて、絶対はないのよ」


 きっぱりと言い切ってベーコンを刺した。

 数年前、父の船とはぐれて飲まず食わずで海を漂う羽目になったとき、眠たいからと直前の朝食を抜いてしまった自分の選択を本当に悔やんだのである。

 そこから運良く見付けた商船を襲い、お気に入りのダガーナイフをなくした代わりにありついた水とパンの味は生涯忘れられない。


 大真面目に言い切って顎を動かすクレアに対し、アドルフはしばらくのあいだなにか言いたげなまなざしを注いでいたが、やがて溜め息をついて「好きにしろ」と吐き捨てた。侍女から注がれる視線を一瞥し、煩わしそうに告げる。


「ここはもういい。お前たちは次の仕事に移れ」


 雑な言いようにクレアの方がむっとするが、侍女たちはなんだか色めき立った様子でひとつところに集まると、アドルフに深々と頭を下げた。クレアにも簡単な一礼をし、揃って出て行く。

 何故か歓声と共に足音が遠ざかってゆくのを聞きつつ、温かいスコーンをかじりながら不満を零した。


「彼女たちはここで仕事をしていたのよ。あんな言い方ないんじゃないかしら」

「なにが仕事だ、手を止めたままじろじろ人の顔を見てきやがって。割のいい労働だな」

「そりゃあ役目を果たさないのは良くないけど、言い方ってものがあるでしょう。海賊船の船長だって、一味に不信感をいだかれたら銃を持たされて孤島に置き去りだわ」


「銃?」

「自害用」


 アドルフはどうでもよさそうにふんと鼻を鳴らす。


「他人の自害を心配する前に自分の首のことを考えろよ、海賊女」


 なんだか棘のある呼び方をされ、クレアはくちびるを曲げた。


「海賊であることを秘密にしろって言ったのは、あなたの王女さまなのだけど」

「この部屋の周囲十メートル以内にほかの人間はいねーだろ」

「そんなことは気配で明白だけど、私にはクレアっていう名前があるの」

「覚える価値はねーし、呼ぶ必要もねえな」


 アドルフは冷めたまなざしで言い、脚を組み替える。


「そんなことよりお前、ひとりでも船を動かせるんだろうな」

「当然でしょう。海賊だもの、少ない人数で小舟を操るなんて日常茶飯事だわ」


 アドルフが指している船とは、カーヴェル海賊団とシェランド王家が共同で行う

「船長試験」によって与えられたものだ。


「試験」を受ける船長候補はひとつだけ所望したものを借り受けられる。それが、シェランド王家からの助力のひとつらしい。


 一ヶ月以内にクイン・ローゼ襲撃の有力情報を探し出す手段として、クレアは一隻の船を望んだ。小振りで一日ほどの船旅にしか使えないが、ひとりでも操ることの出来る船だ。


「今日みたいな満月の昇る晩、ある島で海賊たちの闇市が開かれるの。ちょうどここから半日ほどの場所にあって、そこではみんなが盗品を売り買いしてるのよ」


 アドルフが、クレアの真意を探るように目を細める。


「お前、俺に海賊たちの巣窟そうくつへついて来いって言っているのか?」

「安心して。あなたを殺したらみんなが殺されることくらい理解しているから」

「どうだかな。お前がひとりで逃げ出すつもりなら、俺を殺してもおかしくない」

「あなた、やっぱり私が仲間を裏切ると思っているの?」


 いい加減に辟易するやり取りだが、アドルフも考えを曲げるつもりはないようだ。


「――他人の命を懸けられるのは、それを捨ててもいいと思ってるやつだけだ」


 ぞくりと背筋を這うほどに低い声が、鋭いまなざしと共に注がれる。


「仲間とやらを大事に思う人間が、そいつらを利用して船長になるのか? お前みたいな考えなしの綺麗ごとを口にする人間には、虫唾が走るんだよ」


 アドルフの言葉は率直で、仲間を危険に晒している自分の現状をまざまざと再認識させられる。それでもクレアには譲れないものがあり、引き返すわけにはいかなかった。


「言い訳は、しないわ。みんなを犠牲にしているのは事実だもの」


 クレアが次期船長になる試験を受けたのは、かつていだいた志のためだ。

 だからといって仲間を見殺しにするつもりは絶対にない。信じてと口にする代わりに、アドルフを真っ直ぐに見詰めた。


 どのくらい視線を重ねただろうか。


 やがてアドルフは、静かな声で呟く。


「……もういい、さっさとその飯を片付けろ」

「信じてくれるの?」

「んなわけねーだろ」


 不機嫌そうな双眸は、相変わらず透き通った色をしている。


「不本意だがイヴの命令には従う。たとえそれが、信頼なんて汚いものを平気で掲げる海賊の見張りだろうとな」


 変わりようもない意見を返され、クレアははあっと嘆息する。

 彼とは今後絶対に、相容れないのだろう。ひとりで頷き、目玉焼きの黄身を頬張った。


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