海賊乙女と英雄騎士②



「よいしょ、っと」


 ドレスを品良く摘み上げ、すらりと伸びた脚で背中を踏み付けたとき、足元の男は潰れた蛙のような悲鳴を上げた。


 新しくあつらえた靴に少し汚れがついたものの、昏倒した三人の男たちは身を起こす気配もない。クレアはふうっと息を吐くと、怯えて縮こまる女性の方を振り返る。腰が抜けてしまったようだけれど、大きな怪我はないようだ。


「ごめんなさい、もうちょっと穏便に助けられれば良かったんですけど」


 ミルクティー色の髪を潮風になびかせてクレアが微笑むと、女性は声に涙を滲ませた。


「とんでもございません、なんとお礼を申し上げたらよいか……!」


 こちらの手を取った華奢な指はまだ震えている。クレアは女性が纏う美しいドレスの埃を払い、乱れた髪や帽子を整えてあげた。


 彼女の首元や指先を彩る装飾品は上等なものだ。宝石が霞むほどの輝きを放つその正体は、間近に見るまでもなく魔物の卵殻らんかくである。


「ひどいことにならなくて、本当に良かったです。……うん、とっても綺麗」


 クレアはにっこりと笑い、彼女の顔を覗き込んだ。真心から賛辞を零せば、女性はぽうっと頬を染める。


 さて、ここから仕込みを始めなければならない。


 クレアは女性から離れると、もう一度男たちの傍に屈み込んだ。手首の内側についている烙印を見るに、脱獄者か刑期を満了した犯罪者だろう。ドレスの隠しポケットからある物を取り出したクレアは、それを彼らの懐にねじ込んで立ち上がる。


「この島は随分治安が良いって聞きますけど、お姉さんみたいな人がひとりで裏路地にいるのは危ないですよ。どうしてこんなところに?」


 彼女が引きずり込まれたこの場所は、あまり陽も差さず薄暗い。尋ねてみると、女性は言いにくそうに視線を逸らした。


「今日は、イヴァンジェリカ王女が船を出される日ですの。それを見に、港へ」


 おずおずと紡がれた言葉を聞き、クレアは路地の先に目を遣る。そうして、「試験」の舞台になる島の地形を改めて確認した。


 家々の壁を形作る煉瓦は真っ白く、丸みを帯びた屋根は海のように青い。童話めいた可愛らしさの建物が並ぶこのノストリー島は、大国シェランド王国の領地である。


 そして、クレアの夢のために利用される島だ。


 ちょうどこの時刻、港には大きな船が浮かんでいた。あれが目の前の女性の目指していた船らしいが、わざわざ見学するほどのものだろうか。そういえば、確かに大勢の人間が集まっているようだ。


「船が出るのなんて、港町ではそう珍しくもないですよね?」

「ただの船出ではありません。実は今日、あの船に英雄騎士さまがお乗りになるのですわ」


 女性はいっそう頬を染め、憧れを体現したように潤んだ瞳をそうっと伏せた。


「騎士さまは本当に素敵な方ですの。でも、道行く方々が今日のキング・リゼルグ号には生きた魔物の卵が乗っていると仰っていたのを聞いて恐ろしくなってしまって。気分が優れなくて休もうとしたところに、この男たちが……」


 女性がそこまで話したところで、ふたりの海賊が路地に入ってきた。彼らはクレアが取り逃がした暴漢の首根を掴んでおり、荷物のように引きずりながら歩いてくる。


「クレアお嬢さん、大丈夫でしたか」

「ええ。この人も大きな怪我はないみたい」

「さすがはお嬢さん。騎士は呼んどいたんでもうじき来るはずですが、そろそろお時間が」


 地面に転がった男たちを見下ろしてクレアが頷くと、女性は慌てて言い募った。


「お待ち下さい。是非お礼がしたいですわ、よろしければ我が家まで」

「ごめんなさい。彼らが父に叱られてもいけないので、これで」


 女性は名残惜しげなまなざしを作ったが、やがて渋々頷いた。クレアはもう一度彼女に微笑み掛けたのち、船員たちを従えて歩き出す。


 数十分ぶりに裏路地から出ると、眩いばかりの陽光に思わず目を細めた。

 海風が通りを歩く小さな女の子たちのドレスを揺らし、かもめの親子が真っ青な空に遊ぶ。幸せそうな島の様子にわくわくしてじっとしていられなくて、クレアは胸いっぱいに息を吸い込んだ。この島が持つ豊かさ特有の開放感は、彼女の職業病を疼かせる。


 ――なんと襲い甲斐のありそうな島なのだろう!


「いままで無事だったのが不思議なくらいだわ。平和ボケしてるこの街全体を狩場にしたらどれくらいの稼ぎになるのかしら! りゃくだつ、ごうだつ、お酒の宴会……!」


 物騒な目算にうっとりと胸を押さえながらも、一番の目的は忘れない。傍の船員に対し、小さな声で首尾を話す。


「あの男たちのポケットに、カーヴェル海賊団の銀貨を入れておいたわ」


 言うと、ひとりがほうと感嘆を漏らした。


「なるほど、流石はお嬢。これで騎士共、あいつらをうちの船員だと思うでしょう」

「使えるものはなんでも使うのが信条だもの。カーヴェルの海賊が倒れてるなんて騒ぎになれば、港を警備する騎士も減るはずよ」


 これから始める試験のため、少しでも港を護る騎士の数を減らしたいのだ。暴漢に襲われそうな女性に出くわすなど、この上ない幸運だった。


「あのお姉さんも、証言出来そうなくらい元気で良かったわ。大きな怪我なんかしてたら大変!」

「幸先良いじゃねェですか、次期船長候補殿」

「もちろんよ」


 振り返って船員たちを見上げれば、大好きな潮風にドレスの裾が膨らむ。


「『シェランド王国ノストリー島で、王女の船キング・リゼルグ号を襲え』なんて試験内容、最初は意図が読めなくてどうしようかと思ったけど。船長に認められるだけの働きをすれば、正式な船長候補として小船が一隻貰えるんだもの!」


 クレアが所属するカーヴェル海賊団は、四つの大型船に七つの中型船、十五の小型船からなる船団だ。

 それらを統べるのが幼いころにクレアを拾った養父だが、父ひとりでは掌握しきれないこともある。だからこそ次期船長候補たちは、小型船の船長として父に従うのだ。


 クレアには、かつて心に誓った夢がある。


 夢に近付くための一歩として、今回の試験は重要だ。その試験場所として選ばれたのが、シェランド王国の一部であるこの島だった。


「お嬢の試験に協力する三十四人のうち、俺たちふたり以外は全員船に乗りました。後はお嬢の思うまま、なんなりと」


 心強い言葉にクレアは「ありがとう」と大きく頷く。クレアは辺りを窺うと、仲間たちと計画していた場所へと向かった。


 その場所とは、三日月形に湾曲した岬の内側に作られた港だ。向こう側に見える大きな船着き場と違い、小船がまばらにしか停まっていない寂れた桟橋には、三人の老人が釣り糸を垂らしている。


「退かしますか、お嬢」

「大丈夫。下手に動くより、自分から逃げてくれるのを待ちましょう」


 不穏当なやり取りを知らない老人たちは、沖合の船を眺めてのんびりとした会話を始める。


「しかし、キング・リゼルグ号が浮かぶ光景は壮観だなあ」

「アドルフ・フォード侯が乗るようだぞ。朝方あの騎士殿のお姿を目にしたとかで、孫娘たちが大層喜んどった」


 先ほどの女性も口にしていた「英雄騎士」の異名だが、その名についてはクレアも聞いたことがある。海で暮らす者の耳にすら届き、知らぬ者はいないほどの輝かしい名前だ。


 英雄騎士アドルフ・フォード。


 齢二十一にして王女イヴァンジェリカの近衛騎士隊長を務めるその男は、シェランド王国の騎士が抱える「正義」そのものの象徴と言ってもいい。


 途方もなく強い剣の腕を持つアドルフが戦争に加わったことで、シェランド王国は瞬く間に戦場を支配して領土を広げた。本来ならば、こんな島にいることは考えにくいほどの功績を残した騎士だと聞いている。


「英雄騎士が出るってことは、何処か危ないところに船を出されるのかね、王女殿下は」

「いいやあ。どうもな、このところ魔物の卵を積んだ船を狙う海賊が出るらしい。それも、卵殻じゃなく卵のままを狙うとかでな」


「魔物ォ?」

 素っ頓狂な声が上がった。


「馬鹿を言うな。王都では魔物を従わせる方法を研究する学院が出来たと言うが、魔物は人間を食らうんだぞ。銃や剣でもそう死なない化け物を相手に、わざわざ近付く者がいるのかね」


 老人は釣り糸をたぐりながら、見知らぬ海賊の愚かさを嘆く。


「卵が持つ価値に目が眩んでいるんだろうよ。魔物の種類によっては、たとえ卵殻の破片でも一生遊んで暮らせる値がつくものもあるからな」

「なあに、フォード侯がお乗りになるのだ。海賊共はもちろん、万が一魔物が卵から孵ったときも容易く仕留めるだろう」


 海賊という言葉に対し、仲間が小さく舌打ちをした。

 クレアは何も言わず、ただ少しだけ目を伏せる。深呼吸をし、こつりと靴音を鳴らして桟橋に踏み出した。


 ふわりとドレスが風をはらむ。

 傍を通った少女の姿に気が付いて、釣りをしていた老人たちも顔を上げた。


「お嬢さん、どうかしたかね?」


 クレアはなびく髪を右手で押さえ、老人の方を振り返る。


「船を待っているのなら、今日は王女殿下の船が出るまでほかの船は入って来ないぞ」

「ありがとう。でも、ここで待っていたいの」


 ゆっくりと言い、三日月形をした岬の中央に浮かぶ王女の船を見遣った。


「ここが一番ちょうどよくて」


 もうじき時間だ。

 合図の砲が鳴り、大きく帆を張った王女の船がゆっくりと港から離れ始める。


 追い風を受けて堂々と前進する出航のさまは、まさしく王国の船だ。白い国旗が翻り、金糸で刻まれた王国の紋章である竜の翼を羽ばたかせている。


 それを遮ったのは、岬の先端から突如現れた一隻の船だった。


「……なんだ? あの船は」


 船体は瞬く間に波を掻き分け、港と王女の船のあいだに割り入る。そこから王女の船に向けて、錨が打ち込まれた。

 直後、王女の船が蜘蛛の糸に捕らわれたかのように動きを鈍らせる。


 前進を阻まれ、苦しむような素振りだった。その様子をぽかんと眺めていた老人たちは、声に不安の色を滲ませる。


「おい……あれはまさか、キング・リゼルグが海賊に襲われているんじゃあないのか?」

「馬鹿な! 沖合ならともかく騎士のいる港だぞ、ここは!」


 クレアはもう一歩前に進む。

 王女の船キング・リゼルグ号に錨を絡ませたのは、仲間たちが乗っているカーヴェル海賊団の小型船だ。


「私は海賊だから」


 なにをしに来たと問われたら、答えるべきはひとつしかない。


「奪いに来たの。ごめんなさい」


 呟いた声は誰にも聞こえなかっただろう。何故ならばこのときの老人たちもまた、悲鳴にも似た叫びを上げていたからだ。


「おい、まずいぞ、このままではキング・リゼルグ号は反撃出来ない!」


 焦る声は驚愕の言葉を紡ぐ。


「港が盾にされている……!」


 それこそが、クレアの策のうちだった。

 海賊船の背後には平和な営みを築き上げてきた港町がある。万が一大砲を撃ったとしても、的を外せば町が惨事になることは容易に予測が出来た。


「海賊は、海賊としての手段を使うわ」


 出航の間際を狙い、港と船の間に割り込むことで港の人々を盾にする。怪我人が出るかもしれない、誰かが心を傷付けるかもしれない、それさえもみんな承知の上での作戦だ。


 海賊らしい、実に卑劣な行為だろう。


 だが、普段ならばこれで片付くはずの仕事に困難が生まれた。

 王女の船キング・リゼルグ号が、砲台を掲げたのだ。


(まさか、撃つつもりなの?)


 騎士たちの選択は、クレアにとって少々意外なものだった。

 途端に轟音が響き渡り、港にほど近い海面で飛沫が上がる。大きな波が揺らぎ、桟橋にまで跳ね上がった。


「お嬢さん、そっちのあんたらも! 早く逃げなさい、ここにいちゃあ危ない!」


 老人たちは釣り竿を放り出し、慌てて階段を駆け上がってゆく。それに反し、部下の海賊たちふたりはクレアの傍に控えた。


「お嬢。騎士共、港の人間に構わず反撃してくる気ですよ」

「あーあ、正義の味方の名が泣くぜ。そんなに騎士の誇りとやらが大事かね」


 そうせざるを得ない状況に追い込んだのはこちらだが、彼らの声は悪びれない。


「――不都合はないわ」


 クレアは横髪を耳に掛け、ゆっくりと目を瞑る。そうして次に、珊瑚色のくちびるで小さく『言葉』を呟いた。


「海賊船に砲が当たった! いいぞ、そのまま……」


 港でちょうどそんな明るい声が上がった瞬間、大きな影が地面を過ぎる。

 街に降る陽光が遮られ、色濃い翳りを落としたのだ。逃げ惑っていた人々も、このときばかりは高い空を見上げた。


「あれは……魔物……?」


 上空に舞うのは、一匹の竜だ。


 船のひとつは飲み込むだろう巨大な異形が、影を落としながらぐうるりと上空を旋回する。魔物特有の生臭さが周囲に満ち、羽ばたきの轟音が鼓膜を貫いた。

 銀の鱗に覆われた大きな頭が、ゆっくりと街を見下ろす。


「ひ――」


 一瞬の静寂が生まれたあと、港には数々の悲鳴が爆ぜた。


「竜だ! 竜が、魔物が出たぞ!」

「魔物だ! 殺される、みんな逃げろ!」


 叫びを筆頭に、港はいっそうの混乱に陥る。気性が荒くなったときの竜は両翼がぶつかるのも構わず飛び回り、家々を壊した挙げ句に人を殺してしまうこともある生き物だ。


 王女の船が標的を変え、すぐさま砲口を竜に向ける。その混乱の中、クレアたちだけは冷静に海を見詰めていた。


「『翡翠』に合図を送って。『風に背いて走れ』!」

「よしきた」


 仲間が舶刀を抜き、その刀身を僅かに傾けた。輝く刃に反射した陽光が、三日月形にくり抜かれた岬の東へ指令を送る。


「『群青』はそのまま待機。陽動に掛からなければ指示を出すわ」

「承知しました」


 仲間の頷く傍らで、岬の陰からもう一隻の船が現れた。


 一見小型の商船にも見える船は帆を畳み、櫂によって静かに王女の船へと迫りゆく。その密やかさときたら、最初に襲い掛かった船や頭上の竜に気を取られていればまず気が付けないものだ。


 クレアが見上げると、銀色の竜は一際低く滑空した。


 風がドレスの裾をはためかせる。あともう少しでカーヴェルの海賊船が王女の船に接触する、それを目前にした瞬間。


「……っ?」


 背筋の凍るような気配を感じた。


 それが紛れもない殺気であることに気付くと同時、クレアは殆ど反射的に身をかわす。

 すると。


「――面倒な事態を引き起こしてくれやがったな」

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